ベラスケスとひとりの男


消えたベラスケス
著 者:ローラ・カミング
出版社:柏書房
ISBN13:978-4-7601-4973-5


きっかけは別の本だった。海外の有名な賞が発表される時期、本書『消えたベラスケス』は、数多ある候補作のひとつだった。結局受賞を逃したこの本は、大賞作の華やかさに隠れて、そのままであれば見過ごされてしまっただろう。でも、表紙にある肖像画と、その人物の視線がどうしても気になった。ひょんなことからスペインの宮廷画家・ベラスケスの絵を手に入れ、最後は絵を持って外国にまで渡ってしまう男の実話。絵と一緒に旅をするなんて、まるで江戸川乱歩の「押絵と旅する男」みたいではないか、と思った。
 
物語は、美術評論家である著者が、プラド美術館にある「ラス・メニーナス」を見る場面から始まる。父を亡くして傷ついた心のまま、吸い寄せられるように絵の前に立つ著者。それまで絵の前にいた人々が示し合わせたようにさあっと引いていき、自分のためだけに王女たちが姿を現す。絵の中の人物たちと視線が合い、自らがこの劇的な場面の一部になったように感じる場面。この書き出しにひかれた。この本を出したい。
 
翻訳書の醍醐味は、国も言葉も違う人々の気持ちに、文章を通して触れることができるという点にある。ときには時代すら違う人の心に共感したとき、やはり彼らも人間なのだとうれしくなる。絵画を見ることもそれに似ているかもしれない。肖像画に描かれた美しい人。直接触れることのできない、絵の向こう側にあった人生を想像する楽しみは格別だ。
 
けれど、本書の主人公、ジョン・スネアはそれ以上だったようだ。1845年、格安の値段で手に入れた一枚の絵。自分なりに調査をして、200年前のベラスケスの真作だと判断する。彼は、その類まれな王宮画家の絵を手にしたばかりに、何度もひどい目に合う。しかし、決してそれを手放さない。自分の店がつぶれ、家族と離ればなれになり、ついには国を逃げ出すことになっても…それほどまで絵にひかれてしまう男と、そこまでの魅力を持つ絵を描いたベラスケスという画家の生き方を、著者は確かな筆致で描く。訳者の五十嵐さんは、その雰囲気を最大限生かして翻訳して下さった。
 
かくして本は完成し、明けて2018年。ベラスケスの絵が日本へやってきた(「プラド美術館展 ベラスケスと絵画の栄光」)。僕もいそいそと出かけた。そして、本文中にも出てくる「バリェーカスの少年」の前で、思わず足が止まる。なんて穏やかで、やわらかい光。同時にこちらの心の内まで見透かされるような眼差し。画家の目を通して、400年前のモデルと相対している気分になった。でも、近づきすぎると彼の顔は単なる筆のタッチに変わってしまう。適度な距離が必要なのは、人と向かい合うときとまったく同じだった。
 
その瞬間、絵と旅をして、行方をくらませたジョン・スネアのことが頭に思い浮かんだ。きっと彼は絵と旅したのではない。ひとりの人間と旅をしたのだ。そう自然に思えるほどに、ベラスケスの絵は見る者をとらえて離さない。
 
絵が人を結びつけ、ストーリーが新たなつながりを作る。今年は身近でそれが実感できる稀有な年。ぜひ本書を読んで、ベラスケスの絵もご覧になっていただきたいと思う。(八木志朗 / 柏書房編集部)