ミルハウザーの世界が私の毎日に現れる



私たち異者は
著 者:スティーヴン・ミルハウザー
出版社:白水社
ISBN13:978-4-560-09710-6



本が完成して何週間か経ちますが、実は私、薄々気づいています。駅までの道、自分の家、近所のスーパーなどなど、いつもの場所がどうもこの本を作る前とちょっと違う世界になってしまったみたいなのです。
 
始まりは柴田元幸先生から届いたばかりの本書収録予定の「平手打ち」の原稿を帰りの電車で読んで、駅から家へと向かっているときでした。通りすがりの男が相手かまわずいきなり平手打ちを食わせる事件が町で続発する話を読んだ直後なだけに、人気のない公園を抜け、駐車場の脇を通るときも、街灯が煌々と照らす道を歩くときも、全神経を研ぎ澄ませていました。暗闇に浮かぶ滑り台やベンチ、車や植え込みの陰から何者かが飛び出してくるのではないか。無事に帰宅してほっとしましたが、何かが潜んでいるのははっきり感じました。
 
次に感じたのは、家族がみな寝静まった夜更けに、薄暗いキッチンで冷蔵庫のドアを開けたら、中から光があふれ出て広がったときでした。楔形に伸びる光の先へ目をやると、暗がりに椅子と、ほかにも何かぼんやり影が浮かんでいました。異者だ。すぐわかりました。「私たち異者は」を読んで、彼らが好奇心旺盛ながらも暗闇と沈黙を好むと知っている私は、その後もなるべく邪魔をしないようにしています。でも、ときどき気になると、暗闇で冷蔵庫を少しだけ開けて、伸びる光の先に目を凝らしています。
 
こんな調子で、いま私の周りはミルハウザーの世界になっています。近所のスーパーが一部改装を終えたら店の大きさ・形がなんだか違う気がして、「The Next Thing」のように知らぬ間に町を呑み込むとんでもない拡張計画が進んでいるのではないかと思い至ったり、電車で夏だというのに白い手袋をしている女性を見かけて、「白い手袋」と同じく、あの手袋の下にはぜったい明かしたくない秘密が隠されているのだと確信したり……。
 
なぜ、ミルハウザーの世界が私の毎日に現れるようになったのでしょうか。それは、ミルハウザーが細部まで“見たとおりに”書いているからだと思います。玄関ポーチの色あせたクッションを載せたブランコ椅子、炎の形をした電球のついたシャンデリアといった形あるものはもちろん、形のないものもミルハウザーには見えて・・・います。例えば、木漏れ日のなかを歩けば「日差しの斑点が、葉むら越しに光の粒子が投げつけられたみたいに舞」うし(これ、美しい描写だと思いませんか?)、学校を休んだことのないガールフレンドが欠席したという衝撃は「不在の彼女は、実際にそこにいるときよりずっと強烈に存在しているように思えた。天井の蛍光灯の下、彼女は目に見えて、まぶしくいない・・・ように思え」るのです。
 
もう一つ、柴田先生の訳がミルハウザーの原文の緻密さを日本語でも再現しているからだと思います。たとえばブラインドひとつ取っても、ミルハウザーは引き紐の位置、芯棒、布地の厚みといった細かい部分まで描写していて、読んでいると手触りや重みまで感じさせます。では、それが説明的でうるさいかというと、まったくそんなことはなく、流れるような日本語で描き出されるのです。白い手袋なら、指の曲がり具合、ボタンの位置、それを留めたときのきつさ、皺の寄り方、どこに染みがついているか。川べりの木漏れ日、踏んづけた松ぼっくりの感触、窓を伝う雨、夜の街灯に照らし出される積もった雪……。
 
柴田先生はつかみきれない場面についてはミルハウザーに質問して確認したうえで訳してくださっています。ミルハウザーからは訳者あとがきにもあるとおり「少しでもクリアでないところがあったら訊いてほしい、何が君にとって不明なのかを聞くこと自体私には実に興味深い」と言われたそうで、近寄りがたいくらいどこまでも緻密なこの作家らしいと私は勝手に思いました。ですが、後日先生から伺った話で、作家像が少し変わりました。最初の訳書の頃は先生も質問するのに少々緊張し、回答に毎回フルネームで署名してくるミルハウザーに合わせてMotoyuki Shibataとずっと署名していたのを、あるとき、他の作家にいつも書いている癖でついMotoと署名して送ってしまったら「君のことをMotoと呼んでもいいのか? 日本人はみなフルネームで署名するのかと思ってた」と返ってきたのです。以来、やりとりには冗談が入るようになったそうです。なんとも微笑ましくて、親しみが湧いたのでした。
 
読むと、いつもの世界がちょっと違って見える不思議。どうぞご堪能ください。(鹿児島有里 / 白水社編集部)