原作者のヴィジョンと訳者の力量に圧倒!

Xと云う患者 龍之介幻想
著 者:デイヴィッド・ピース
出版社:文藝春秋
ISBN13:978-4-16-391001-7

「黒原さん、なんととんでもないことを……」

翻訳者の黒原敏行さんによる『Xと云う患者 龍之介幻想』の翻訳原稿にざっと目を通した私は、そうつぶやいて茫然としました。ノワール小説の書き手としてデビューしたイギリス作家デイヴィッド・ピースの最新作PATIENT Xの訳稿です。芥川龍之介に私淑するピースが芥川の生涯を描いた小説ですが、手法が奮っています。英訳版の芥川の文章の断片を、ピース自身の語りと精細に紡ぎ合わせ、誕生から自死に至るまでの芥川の精神のドラマを一種のダークな幻想小説のかたちで編み上げる――音楽でいうマッシュアップやリミックスのような野心的作品なのです。

それをどう訳すか。黒原さんはもっとも困難な道をとりました。すなわち、芥川の書いた部分は芥川のオリジナルを用い、詠唱のような独特のピース文体を芥川のそれと溶け合う日本語にし、両者を織り合わせる――生半可な力量でできるものではありません。だから私は、訳稿に圧倒され、「とんでもないことを……」と絶句したのでした。

「作家を描くにはその頭のなかで起きていることも書かなければいけない」そう語るデイヴィッド・ピースは、本書で、芥川の内部にある文学的な狂気とでもいうべきものを、現実と幻想のアマルガムから滲み出させます。それは単に筋立てからのみ生じるのではなく、曰く言いがたい不穏の霧が芥川/著者/訳者が紙上に刻みつけた文字列自体から生じているように私には思えました。そこで思い出したのが、小学生の頃に家にあった復刻版の日本近代文学全集です。活版を復刻した版面に旧字旧仮名でしたから、通読するのは小学生にはハードでしたが、数少ない読み終えた本のなかに『羅生門』がありました。とくに「羅生門」の陰惨な光景は、インクのむらの目立つ活版の版面の暗さと結びついて強く印象に残っています。ラストの「黒洞々たる」という言葉が私にとっての芥川であり、同時に『Xと云う患者』から漂い出す霧の色調でした。

原稿の赤字指定を終えて、私はDTPの担当氏に「古めかしい活版みたいなフォントで組んでほしいんですが」と告げました。担当氏は嬉々として三種類くらいの組見本を送ってくれました。デイヴィッド・ピースの作品は、イタリックで記される意識下の声が頻繁に挿入されて視覚的な効果を生んでいます。それを日本語上では太字で表現しているので、太字とナミ字のバランスは大事です。それも考慮して、フォントを選び出しました。
 
散文であり韻文であり、英語で書かれ日本語で書かれ、現代文学であり近代文学であり、現実であり幻想であり、視覚的で音響的――さまざまな境界を越境/往還する傑作を、さまざまな名手のアイデアと労力で実体化させられたことは、大きな喜びです。(永嶋俊一郎)