【2023.6.2】週刊読書人note.
五十嵐律人著
『魔女の原罪』
「魔女と魔法使いの違いを知ってる?」この問いかけから始まる本作の主人公は、高校二年生の和泉宏哉。週に三回、人工透析治療を受けている彼が通う鏡沢高校には、校則がない。〝法律〟さえ犯さなければ、髪色も服装も、すべてが自由。法律=校則ともいえるその学校である日、窃盗事件が発生し、宏哉は事件の調査に乗り出す――。序盤だけを読むと、学園ミステリを想像するかもしれない。しかし窃盗事件の真相をきっかけに、物語は急展開を迎える。法律を重視する学校の謎と、軋轢を抱える町の住民たちの背景が徐々に繫がり、さらには鏡沢町自体が抱えている秘密も見え始めるのだ。
中盤からは「第二部」に入り、雰囲気ががらっと変わる。法律の専門家ならではの趣向に満ちた、「法廷パート」である。なぜ、高校から法廷に舞台が移るのか。そこはぜひ、本作で確認してほしい。すべての点と線が繫がったとき、「魔女と魔法使いの違い」を再考せずにはいられないはずだ。(四六判・三六八頁・一八七〇円・文藝春秋)
第五十四回講談社絵本賞贈呈式
選考委員を代表して長谷川義史氏は「ゆきひこさんは戦争を体験されているけれど、沖縄戦は体験されていません。沖縄で起こった出来事を作品を通して世の中に伝えたいという強い信念を持って真摯に立ち向かわれた結果がこの絵本です。それはなかなかできることではありません。実際につらい経験をされた方にお話を聞いて、描かなければいけない。でもその間には沖縄に生まれた人、そして本土に生まれた人の違いがあります。それを何度も足を運ばれ、気持ちを通じ合わせて取材を重ねられて、ゆきひこさんの身を通して、「ぼく」という戦争で傷ついた男の子を通して描かれています。沖縄で起こった悲惨な事実を物語として作品に仕上げられて、悲しいほど美しい場面もあります。
怖い世の中にどんどん進んでいると思います。人の命を奪う武器で平和を維持しようという流れがあるなかで、それ以外の方法で平和を維持するためにどうやって立ち向かえばいいのかと言うと、それがこの絵本であると思います。僕たちには絵本を通して、巨悪なものと対峙する決意がいるということを改めて強く教えていただいた。薄っぺらな平和への宣言ではなく、世界中に発信できる、沖縄を題材にした素晴らしい絵本を描かれました大先輩に感謝と尊敬と敬意を表します」と選評を述べた。
受賞のたじまゆきひこ氏は「こんなにつらい絵本制作は初めてでした。本当にできあがるまでつらかったです。ぼくは大阪の堺で空襲にあい怖い思いをしました。でも空襲と、地上戦で敵が自分の親族や知り合いを殺しているのを見なければいけない、そこに巻き込まれて逃げなければいけないこととは全く違うわけです。それを表現するにはどうしたらいいだろうと長い間考えていました。沖縄戦を生き残った人たちのたくさんの手記を読んでいましたので、もしそこにぼくの知り合いや親族がいたらと想像しながら絵を描いているとつらくて、おそろしくて、描きながら大きな声で何度も叫びました」と制作時のエピソードを語り、「これまでたくさんの沖縄の人たちに助けられました。特に佐喜眞美術館の方たちに助けられたので、佐喜眞ご夫妻と学芸員の上間さんの前で絵本を読みました。そうすると上間さんが、主人公が基地を指して〈こんなものぼくたちの手でつぶしてしまうさ〉と言う場面で、これを取ってくださいと言うんです。その場面ができるまでぼくは苦しんで、やっとできたのに、と抗議しました。すると上間さんは、この〈ぼくたち〉というのは沖縄の人たちのことですね、基地を無くすのは沖縄の人たちだけですか? あなたたち本土の人たちは知らん顔するんですか? と言われました。ぼくは息が詰まりそうでした。一番世話になった上間さんに突き付けられて言葉がありませんでした。
沖縄の人たちだけで基地を無くすという考え方が今でも続いている。その考えがぼくの中にもあったに違いない。
『なきむしせいとく』は過去の話ではなく、これから起こるかもしれない話です。沖縄の八重山群島には大きなミサイル基地ができています。緑に包まれた島が焼けただれて、その上を逃げ回る子どもたちをぼくらはこれからつくってしまうのではないかと思うと、この絵本はできた後でも非常につらいものになりました」と沖縄のおかれている状況への複雑な思いも交えて受賞の挨拶を終えた。
追悼・原尞(明石健五)
――研ぎ澄まされた文章、言葉への拘り
「秋の終りの午前十時頃だった」。著者は、この冒頭の一文を書くために、どれほどの時間を費やしたのだろうか。小説は、以下の文章につづく――。
「三階建モルタルの雑居ビルの裏の駐車場は、毎年のことだが、あたりに一本の樹木も見当たらないのに落葉だけになっていた。私は、まだ走るというだけの理由で乗っているブルーバードをバックで駐車して、ビルの正面にまわった。」
無駄な言葉が一語もない、また加えるべき言葉もない、完璧な文章である。原尞さん初の著書となる『そして夜は甦る』を読んだ時の記憶は、三五年経った今でも強く頭に残っている。ミステリ小説といっても、それまでは、いわゆる〝謎解き〟もの、島田荘司や岡嶋二人、綾辻行人といった作家らの作品(新本格)を好んで読んでいた。二三歳、大学を卒業し、産経新聞社の文化部で、〈ボウヤ〉と呼ばれる小間使いの仕事をしていた。大阪外国語大学を出たミステリに大層詳しいベテラン記者のH氏に、当時話題になりはじめていた、原尞さんのデビュー作について意見を求めると、「キミには、まだ早い」とひと言で返された。それならば読んでみようと、早速手に取ってみた。一瞬で、その語りに魅了された。ただし、H氏の「まだ早い」という言葉にも、納得できたことを告白しておく。
原尞さんの訃報に接し、本書を読み返してみた。これで何度目になるだろうか。三五年前の作品とは思えないほど瑞々しく、まったく古びた印象を受けなかった。主人公の沢崎の年齢をとっくに超えてしまったが、初読の時よりも、彼の語るひと言ひと言がより深く身に染みた。
翌年、『私が殺した少女』が刊行された際には、真っ先に書店に赴き購入した。一作目にも増して、原尞さんの作りだす世界に没頭したのはいうまでもない。探偵・沢崎は、圧倒的に格好よかったし、ちょっとミステリアスな雰囲気を醸していた原尞という作家にも、強く惹かれた(些末なことではあるが、吸っているタバコを、二人に合わせてショートピースに変えた)。
編集者になって八年後、原尞さんの新作『愚か者死すべし』が、前作(『さらば長き眠り』)刊行から約十年を経て上梓された。「会いたい人には、会いにいく」。これが鉄則である。すぐに著者インタビューをお願いし、ご自宅のある佐賀県鳥栖へと取材に訪れた。待ち合わせ場所はJR鳥栖駅。心の中では「沢崎=原尞」だった。緊張する中、通りの向こうから、〝ママチャリ〟に乗った原尞さんが現われた。手をあげて、にこやかに出迎えてくれた、その笑顔も忘れられない。
原さんのお兄さんが経営する、〝コルトレーン・コルトレーン〟というジャズ喫茶で、二時間ほど話をうかがった。言葉への拘りに、並々ならぬものを感じた。新作の冒頭に関して、次のように語っていた。
「最初の文章の意味合いは、それこそ一番はじめに書いているわけです。ただ、その一文が、何度変わったか。何百通り書いたか。準備稿がスタートして、第一稿があり、決定稿まで、その都度変わる。厳密に今の形になったのは、校了の直前ぐらいでしょう。なぜ最初からこれを書かなかったのかと、自分では思うんですけどね。」
おそらく最初に引用した文章も、そうして紡がれた一文なのであろう。残された小説は、ここまで紹介してきた四作に加えて、長編一作(『それまでの明日』)と短編集一冊(『天使たちの探偵』――原さんは短編の名手でもある)のみだが、すべての作品を、今後も繰り返し読み返すことになるだろう。(あかし・けんご=本紙編集長)
原 尞氏(はら・りょう=作家)(本名・原孝=はら・たかし)五月四日、病気のため死去した。七六歳だった。
一九四六年佐賀県鳥栖で生まれる。九州大文学部美学美術史科卒業後、一九七〇年代はフリージャズのピアニストとして活動。一九八八年に私立探偵・沢崎シリーズ第一作、ハードボイルド小説『そして夜は甦る』でデビュー。八九年刊行のシリーズ二作目『私が殺した少女』で直木賞を受賞した。『さらば長き眠り』(一九九五年)『愚か者死すべし』(二〇〇四年)と沢崎シリーズを書き継ぎ、『それまでの明日』(二〇一八年)が遺作となった。ほか短篇集『天使たちの探偵』、エッセイ集『ミステリオーソ』『ハードボイルド』がある。