【2023.10.6】週刊読書人note.

 古川英治著『ウクライナ・ダイアリー 不屈の民の記録』

 「はなから私たちが負けると決めつけている」。ロシアによるウクライナ侵攻が開始された数日後、キーウの自宅で著者は妻からこのような言葉を浴びせかけられた。ジャーナリストでロシア側のインテリジェンスにも精通する著者は、確度の高い情報をもとに再三に渡り妻や義母に西部への避難を訴えた。ところが、彼女たちは動こうとはしない。動かないのはキーウに住む人々も同様だった。ロシアによる侵攻からすでに一年半を経過した今、妻の言葉が正しかったことは、世界中の誰の目にも明らかだ。

 なぜ、数に勝るロシア軍の侵攻を食い止め続けられているのか。開戦後、著者はウクライナの人々の声を丹念に集め続けた。本書は報道では知ることのできない、市井の声、人々が何を思い、行動しているのかが収められた渾身のドキュメンタリーである。

 人々は口々に「祖国」「自由」「民主主義」を守るために戦っていると著者に語り、時には銃を手にする。戦わなければそれらを勝ち取ることができないことを悲劇の歴史から理解している。本書には現地の写真も多数掲載されているが、うつむいた顔はひとつもない。侵攻開始当日に結婚式を挙げたカップルの写真もあり、ウクライナの人々の強さを象徴している。(四六判・304頁・1760円・KADOKAWA)
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 キム・チョヨプ著『この世界からは出ていくけれど』

 著者は現在の韓国SFシーンを牽引するひとり。『わたしたちが光の速さで進めないなら』に続く、第二短篇集となる本作には七篇が収録されている。

 「最後のライオニ」の語り手「わたし」は、さまざまな滅亡の現場を探索する、ロモンという人類種だ。だが、一般的なロモンと違い、滅亡現場に漂う死の空気に怯えるわたしは、心が間違った身体に宿ったような感覚を長年抱いていた。そんなわたしは、ある居住区の調査で機械たちに捕えられてしまう。わたしを「ライオニ」と呼ぶ機械の真意、かつて巨大文明を築いていた人間たちが滅んでしまった理由。過去が明らかになったとき、わたしはひとつの選択をする。

 どの収録作も、誰もが異なる世界をひとりで生きていることが描かれる。「マリのダンス」に登場する、視覚では芸術を楽しめない少女とダンス講師も、「キャビン方程式」の主人公である時間の感じ方が違う姉妹も、互いの世界を理解することはなかったし、今後もできないだろう。けれど、異なる世界同士が重なる瞬間は確かにある。その交差点の存在を、七つの物語は教えてくれる。(カン・バンファ、ユン・ジヨン訳)(四六判・296頁・2640円・早川書房)
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 『妊娠を知られたくない女性たち 「内密出産」の理由(わけ)』

 医療・看護を取り巻く話題のワンテーマを取り上げ、読者とともに考える「Nursing Todayブックレット」から、『妊娠を知られたくない女性たち 「内密出産」の理由(わけ)』(Nursing Todayブックレット20)が刊行された。

 本書では、2022年9月、いわゆる「内密出産」に対するガイドラインに該当する文書が発出されたことを糸口に、妊娠・出産を「誰にも知られたくない」という女性たちがいる現状と、その背景から日本社会・現制度の課題、相談・支援に取り組む執筆者ら自身の知見・経験等も踏まえ、解説・考察する。(佐藤拓代・松岡典子・松尾みさき・赤尾さく美著)(A5判・64頁・990円・日本看護協会出版会)
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 ジハド・ダルウィシュ ショートセレクション『ナスレディン スープのスープ』

 レバノン生まれのフランス語圏作家による再話集。「ナスレディン」とは、日本でいうところの「太郎」だろうか。地域に伝わる物語の中に登場し、ときには賢者あるいは愚者、けちんぼ、ほらふき、皮肉屋……様々な顔をもつ、アラブ・イスラム圏ではよく知られる人物。ごく短い63篇の物語には、とんちが効いた笑いがある。丘の上の廃墟が売れたら、その金を貧しい人にあげる、と言ったナスレディン。思いもよらず廃墟が首長に買い上げられることになり――「釘の値段」。「肉のにおい」でパンを食べようとした男がにおい代を請求される。ナスレディンはどう収めたか? ジュラバ(民族衣装)を盗まれたナスレディンがお祝いするのはなぜ? 不条理な世の中も考え方次第で楽しくなる! ヨシタケシンスケの絵と共に。(B6判・216頁・1430円・理論社)
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「論創海外ミステリ」シリーズ三〇〇巻到達(レポート)

 論創社が毎月刊行している「論創海外ミステリ」シリーズから新刊『名探偵ホームズとワトソン少年 武田武彦翻訳セレクション』(アーサー・コナン・ドイル著/武田武彦訳/北原尚彦編)が八月に刊行された。シリーズ三〇〇巻目の本書刊行を機に、同シリーズの編集担当をつとめる編集部の黒田明さんと、以前まで黒田さんとともに編集を担当した編集部の林威一郎さんにお話をうかがった。

 二〇〇四年一一月から刊行がスタートした「論創海外ミステリ」シリーズ。創刊にあたってミステリ評論家の横井司氏とシリーズ初代編集者が中心になって、月三冊ペースで刊行が進められた。黒田さんいわく「二〇〇〇年代初期は、一種の海外のクラッシクミステリの出版ブームで、国書刊行会、原書房、晶文社などから刊行されていました。弊社が参入したのはブームの終盤頃でしたが、他出版社で紹介されていないものや著名作家の訳し漏れがまだあり、そういうタイトルを中心に横井司さんがラインナップを決めていった、というのがシリーズ初期の背景です」と語ってくれた。

 編集担当者の交代などもあり、シリーズは一〇一巻(『ケープコッドの悲劇』)刊行時にリニューアルを行った。本格ミステリのみではなくハードボイルドなどを増やしていく、装丁を一新するなど変化を加え、さらなる充実を図る試みを取り入れていった。黒田さんはちょうどこの時期に編集チームに加わることになる。その後、シリーズは巻数を重ねて、二〇〇巻到達を機に再びデザインの刷新に着手したと黒田さんは振り返り、「一〇〇巻まではイラストレーターの栗原裕孝さんが装丁を担当してくださいました。次の二〇〇巻まではイラストレーターの佐久間真人さんとブックデザイナーの宗利淳一さんの二人体制で、その後はグラフィックデザイナーの奥定泰之さんが装丁を担当してくださっています」と解説してくれた。また、三〇一巻からはデザインの幅が広がる刷り込み帯を採用し、より手に取りやすくしていく方針だという。

 装丁のほかにも、ロゴを一〇〇巻刻みで変えていき、一〇〇巻までは黒犬のシルエット、二〇〇巻までが謎の象徴であるピラミッドのモチーフ、三〇〇巻までが波のイメージで、三〇一巻以降は鍵をモチーフにしたロゴになる。

 「巻数を重ねていったことで、初期に比べると訳も随分よくなりました。今はミステリの専門用語にも詳しい翻訳者を積極的に起用しています」と語るのは林さん。ミステリで使用される特殊な用語をきちんと理解している人にあらかじめ依頼をするようになったそうである。

 シリーズでも人気の高いシャーロック・ホームズ作品。シリーズ二〇〇巻目の『シャーロック・ホームズの古典事件帖』(アーサー・コナン・ドイル著/北原尚彦編)は第四一回日本シャーロック・ホームズ大賞を受賞し、キリ番の「シャーロック・ホームズ」企画は好評だったという。記念すべき三〇〇巻目は、名探偵シャーロック・ホームズが相棒のワトソン「少年」と四つの怪事件に挑む作品集である。

 九月にはシリーズ三〇一巻『ファラデー家の殺人』(マージェリー・アリンガム著)、三〇二巻『黒猫になった教授』(A・B・コックス著)が刊行され、以降も続々と刊行が予定されている。往年のミステリファンはもちろん、漫画やテレビ番組などから入り、そこから現代ミステリを読むようになった人にとっても魅力的な作品が揃っている「論創海外ミステリ」から今後もますます目が離せない。