坂本龍一という潮(うしお) 二〇世紀カルチャーを捉え返す
対談=松井茂×菊地成孔
『坂本龍一のメディア・パフォーマンス マス・メディアの中の芸術家像』刊行を機に
週刊読書人2023年12月1日号 8面のつづき
写真右から松井茂氏、菊地成孔氏
『坂本龍一のメディア・パフォーマンス マス・メディアの中の芸術家像』(松井茂・川崎弘二編著、フィルムアート社)の刊行をきっかけに、編著者の一人で詩人・映像メディア学専門の松井氏と、音楽家・文筆家の菊地成孔氏に対談をお願いした。(編集部)
■常にパフォーマンスし続けた不世出のスター
松井 八四年に坂本さんが作った「MIDI」というレコード会社は、そのまますぎて、ダサいんだかかっこいいんだか、わからないですよね。
菊地 ギリギリですね。坂本龍一のデビュー時の輝きは、高橋幸宏という盟友が、スタイリストだったことなんです。YMOが散会した後、案の定、ワードセンスも、服装や髪型も、一つ一つが危うくなってくる。
松井 一九八六年のメディア・バーン・ライブとかみると、このスポーツ刈りは、みたいなことになっていて、それでサティまで弾いてしまう(笑)。
菊地 髭剃りシーンとか。
糸井重里や浅田彰と組んだり、様々な文化人との関わりでレーベルがかっこよくなりもすれば、アルバム名がおかしなことになったりもする。その不安定さも魅力でしたけどね。
松井 第二次世界大戦後のマス・メディアの中の芸術家像っていうのは、黛敏郎、武満徹、坂本龍一と来て、その後は誰だろうと、川崎弘二と話していたんです。それは間違いなく菊地さんだ、ということになったのですが。
菊地 藝大出てないですよ(笑)。っていうか、高校だって出てるとは言えない(笑)。
松井 繰り返しますけど、時代や文化に対する振る舞いや、音楽性と知性として、マス・メディアの中でのトリックスター的な身振りで、坂本さんの次を担うのは菊地さんだろうと。そもそも音楽的にも坂本さんと菊地さんは技法の幅の広さがあるし、どんな仕事にも独自性を持って打ち返している印象があります。
菊地 いや、そんなことないですよ。坂本さんもドビュッシーとバッハとブラックミュージック、素材は三つ。三つあるのはすごいと思いますけどね。あとはやはり、『戦場のメリークリスマス』の功績は大きい。
松井 映画音楽家としてもすごいと。
菊地 それ以前は、東宝で黛敏郎がいい仕事をしていますよね。ジャズの翻案が日本で一番うまかったのは黛敏郎だと思っていますが、藝大出て映画音楽もジャズもやった。林光のように、大島渚と同じポテンシャルで、左翼思想ゴリゴリで音楽作るぞ、というごく一部の人を除くと、映画では当然、監督の方が力がある。音楽は差し替えも可能でしょう。だけど大島組から林光を外して、坂本龍一が音楽を担当することになって、監督を音楽から変えてしまうんです。戦後の映画音楽史に、坂本さんは知らず線を引いているんですよね。一九八三年の作品ですが、MIDI同期によるシンセサイダーがふんだんに入っていて、『戦メリ』はその点でも先駆けです。あれがあの映画を永遠に新しく見せていると思います。
松井 『戦メリ』は映画音楽史を変えた。
菊地 そう思います。
僕は、今年公開された『岸辺露伴 ルーヴルへ行く』の映画音楽を担当したのですが、おそらく世界で初めてAIを使った映画音楽です。最新のテクノロジーの導入と、一作家から工房制作へのチェンジ。あの作品は僕にとっての、ですが、『戦メリ』になる可能性があると思っています。
僕はYMOチルドレンでもあるのですが、そこがジャズミュージシャンだという一点でバッサリ切られてしまうんですよね。テクノカットで、卓球好きで、ラブパレードでDJやってないと、YMOは好きじゃないだろうと。まあ、当たり前の話ですが(笑)。当たり前の話の連続では歴史は変わらない。
ただ坂本さんと違うのは、発信した瞬間の爆発力が僕にはない。発信してから時が経って、やがてそれがスタンダードになるということはあると思う。今ではコンピュータ制作のジャズなんて当たり前ですし、ポリリズムも、ポピュラーミュージックのアナリーゼも当前になっているけれど、僕がはじめたときは、何してるんだという感じだった。でも坂本龍一さんの場合、「何してるんだ」も含めて全部すげえ、みたいな一〇〇%の崇拝があった。スターとはそういうものです。
松井 菊地さんは、時代に対する先見性というのか、予兆めいた活動や発言がしばしばありますよね。世界の変化を呼び込んじゃう。言いすぎかもしれませんが。
この点では坂本さんは、ある意味逆で、臨機応変というよりは、世界の変化に応答していくというか、挑んで行く印象が強いですね。結果としてそれが音楽の世界を変え、芸術家のあり方を刷新してしまった。
すこし別の話になりますが、パブリックに発表されている坂本さんの作品や発言の背景には、膨大なスタジオワークでの実験や、多くの人的交流があります。これはある意味、一九九〇年代初頭からインターネットを活用してきた特殊なリテラシーだと思います。こうした観点もまた、メディア・パフォーマンスとして研究していきたいところです。世界に対して良い意味で、非常に貪欲に、最後までパフォーマンスをし続けた芸術家であったと思います。(おわり)