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読者へのメッセージ
坂岡真 / 作家

 

 

うぽっぽ同心終活指南(一)
著 者:坂岡真
中公文庫
ISBN13:9784122073050

 

仁者の同心、健在なり――老いてなおも深みを増す味わい

 先日、鯖街道を旅行した。京都の北端から琵琶湖に沿うように北上し、織田信長も朝倉攻めの際に立ち寄った熊川宿を経て、若狭の小浜へ至る道筋だ。日本海で捕れた一塩の鯖を一昼夜掛けて京へ届ける。人足たちが駆けに駆けた道筋を鯖街道と呼ぶ。街道にその名を付けて呼ぶほど、都の人々はむかしから鯖を待ち焦がれていたのだろう。

 小浜と言えば鯖の棒寿司が有名だが、地元には「へしこ」と呼ばれる糠漬けがある。鰯、鰊、河豚の卵巣なども漬けこむが、やはり、何と言っても味わうべきは小浜の鯖であろう。産卵前の脂がたっぷり乗った春鯖を三週間ほど塩漬けにし、水気を除いたあとで糠漬けにする。梅雨と土用の暑い時期を経て秋になれば食べ頃、滋味豊かな味を堪能できる。なかには三年漬けこんだ古漬けもあり、ひねた味が楽しめるというのだが、三年物はまだ味わったことがない。

 刀の斬り方に「圧(へ)し斬り」なるものがある。接近して白刃を合わせ、上から体重を掛けて力任せに押しこんで斬ることだが、一説にはこの「圧し」と「魚(こ)」を合わせて「圧し魚」と呼ぶようになったらしい。前置きが長すぎた。

 主人公の長尾勘兵衛は、滋味豊かな「へしこ」のような十手持ちだ。暢気に浮かれ歩く意味の「うぽっぽ」という綽名で呼ばれており、味わえば旨味もこくもある。臨時廻りの年寄り同心だが、悠々と風のように江戸の町を歩き、揉め事や難題があれば目を逸らさずに解決する。ただ、解決するだけではない。「人が悪に染まるにゃ、それなりの理由がある。おれはよ、その理由ってのが知りてえんだ」勘兵衛の台詞を借りれば、そういうことになろう。情け深い十手持ちだけに、市井の人々から慕われている。「うぽっぽの旦那」と誰もが親しげに呼び、微笑仏のような福々しい顔を拝もうとする。

 たとえば、水子地蔵を泣きながら撫でる女を見掛けたとする。悪い男に騙され、岡場所に売られかけている女だ。勘兵衛ならば、けっして放ってはおかない。不幸な女の境遇におもいを馳せ、力になりたいと考える。といっても、差し出がましいまねはしない。女が求めているときだけ、救いの手を差しのべる。「世の中は相身たがい。助けてほしいときゃ遠慮なく泣きつきゃいいんだ」勘兵衛に諭されれば、小悪党でも涙を流す。殺伐とした世相のもとで、後生楽に生きつづけるのは難しい。それでも、他人の善意に触れれば、生きていても悪いことばかりではないとおもえてくる。

 人の情けが身に沁みる。そんなフレーズが死語になりつつあるなかでも、勘兵衛だけは筋を通して生きている。時には巨悪に牙を剥き、我が身が危うくなろうとも、けっして筋をまげることはない。年輪を重ねれば、悲しいことも増える。輝きが多少は鈍りもしよう。それでも、勘兵衛は歩みを止めない。今日も悠々と江戸の町を歩いている。(さかおか・しん=作家)

 

――中公文庫売れ行き好調の10点――