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文庫読みどころ紹介
千街晶之 / ミステリ評論家
悪い夏
著 者:染井為人
角川文庫
ISBN13:9784041061824
制度を食い物にする連中が蠢く――社会の構図、人間の本質を描き切ったロングセラー
ちょうど今、私は三十五度を超える猛暑に覆われた七月後半の東京で本稿を執筆している。この状況で読み返すと、染井為人『悪い夏』の内容が更にリアルに迫ってくる印象を受ける。
『悪い夏』は、第三十七回横溝正史ミステリ大賞で優秀賞を受賞した著者のデビュー作であり、文庫化された後に多くの読者を獲得した。作中には、生活保護を不正受給している小悪党・山田吉男、彼の背後で糸を引くヤクザ・金本龍也、その愛人で悪だくみに協力する莉華といった、貧困状態の人々のための制度を食い物にする連中が蠢いている。しかし、生活保護の受給を司るケースワーカー側の人間もまともではない。その一人である高野洋司は、貧困に苦しむシングルマザーの林野愛美に生活保護の打ち切りをちらつかせて肉体関係を迫っているし、一見正義感が強い同僚の宮田有子も何か思惑がある様子だ。
そんな中、高野の同僚である主人公の佐々木守は、比較的真っ当な人物として登場する。だが、宮田から高野の悪い噂を告げられ、一緒に真相を探りはじめたのをきっかけに、守の運命は狂い出し、次第に転落してゆくことになる。
この小説の登場人物たちは、みな自身が置かれた環境に不満を抱き、そこからの脱出を図っている――ただし、まともな労働ではなくお手軽な手段で。最も奸智に長けた金本ですら、過去の失態のせいで地方都市の小さな組に島流しされたことに納得できず、自分が昔いた新宿の華やかな裏社会に戻るという虫のいい夢に囚われているのだ。だから彼らは、藁をも摑む気持ちで目の前に流れてきたチャンスに飛びつくのだが、所詮、藁は藁でしかない。彼らは彼らなりに頭を働かせたつもりでも、ちょっとした偶然がその計画を狂わせる。その結果、彼らはどんどん蟻地獄に嵌まってゆくことになる。背景となる猛暑が、余計に彼らから冷静な判断力を奪っているようでもある。
脅迫、違法薬物、色仕掛け、暴力が交錯した挙げ句、登場人物たち全員がある場所で鉢合わせしてしまい、そのせいでとんでもない事態が起きる狂騒的なクライマックスは圧巻だ。そこでは、狂気に陥る者もいるし、極悪に徹した者もいるし、最後の土壇場で良心に目覚めた者もいる。いずれにせよ、全員が自らの悪行と愚行に対して何らかの報いを受けることになるのだが、著者は彼らを高みから嘲笑っているわけではないし、かといって過度の共感を寄せているわけでもない。生活保護の不正受給者とケースワーカーのいずれかに肩入れして攻防戦を描くのでもなく、むしろ道を踏み間違えれば後者がいつでも前者に反転し得る恐ろしさが迫ってくる。黒か白かで割り切れない社会の構図、そして人間の本質を描ききったところにこそ、本作がロングセラーとなった理由があるのだろう。(せんがい・あきゆき=ミステリ評論家)
――角川文庫売れ行き好調の10点――