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読者へのメッセージ
寺地はるな / 作家

 

 

水を縫う
著 者:寺地はるな
集英社文庫
ISBN13:9784087445213

 

苦しい幸せ――才能があろうがなかろうが

 『水を縫う』は大阪に住むある家族の、長女の結婚が決まってからの数か月を描いた物語です。家族の物語ですが、家族のあるべきかたちを描いたわけではありません。彼らはたまたま家族になっただけで、大切にしているのはそれぞれの人生です。この家族の中には自分のしたいことを一心に追う人もいれば、あることを「したくない」という気持ちを抑えて生きている人もいます。したいけど二の足を踏んでいる、という人も出てきます。彼らに向かって「一度きりの人生、やりたいことをやったらええねん」などと言うのは簡単ですが、なかなかそうもいきません。

 創作をする人どうしで話していると、よく「才能」の話になります。「あの人は才能のかたまりみたいな人だ」とか「おれも才能がほしい」とか。わたしはそういう時には「あなたも才能あるんじゃない?」と返すことにしています。才能というものは、とくに小説を書く才能というものは、口座残高とかコレステロール値のように数字で示せるものではないので、「ある」とも「ない」とも言い切れないのです。

 わたしは三十五歳の時に小説を書きはじめました。自分に才能があると思ったからではありません。小説というのは才能があろうがなかろうが書くのが楽しい人が書くものなんだと勝手に思っていたので、そこはあまり気にしていませんでした。

 楽しいから書きはじめた小説は、デビューから数年経ち連載の仕事などをもらうようになった頃からあまり楽しくなくなりました。どういう本だったらもっと売れるのだろうと、そればかり考えていたのですから当然です。わたしは進まない原稿から逃げるように、外を歩きまわるようになりました。

 家からすこし離れたところに、川があります。魚や亀がいます。持参したパンをちぎって投げあたえる老人がいます。亀は魚より泳ぎが遅いので、なかなかパンにありつけません。それでもパンが投げ入れられるたびに、あきらめずにそちらに向かいます。

 路上で測量をしている人の姿があります。走っている人もいます。ジョギングをはじめたばかりなのか、走りかたはすこしぎこちないです。荷物をたくさん提げたベビーカーを押す人がいます。中学生もいました。教科書がたくさん詰まっているらしいリュックが重そうでした。犬を連れた人は、犬になにかを話しかけていました。

 走ることや、働くこと。学校に通うこと。それが彼らのほんとうにしたいことなのか、あるいは義務としておこなっているのかはわかりません。でも彼らの姿は、とても美しく見えました。人びとの営みは、それだけで美しいです。
彼らの物語を書きたいと思い、そうして生まれたのが『水を縫う』です。水が流れるようにさらさらとは書けませんでした。でも、書いているあいだ、とても幸せでした。この苦しい幸せをありがとうと、わたしは彼らに伝えたいのです。(てらち・はるな=作家)

 

――集英社文庫売れ行き好調の10点――