アサッテの人
書評アイドル 渡辺小春が読む芥川賞
第137回芥川賞受賞作品
アサッテの人
著 者:諏訪哲史
出版社:講談社
ISBN13:978-4-06-276700-2
「アサッテの人」に憧れて
なぜだろう。明日のことは考えるのに、明後日のことは考えたことがない。そういえば、と見当違いを表す「あさっての方向」という言葉を思い出した。
今回は、第137回芥川賞を受賞した、諏訪哲史さんの「アサッテの人」を選んだ。「アサッテの人」という言葉を初めて見た。はたして、「アサッテ」とは、どういう意味を表すのか。
本書の構成はとても変わっている。
冒頭、二重鉤括弧で書かれたある文章のあと、「最終稿の書き出しがすなわちこれである」と述べられている。後書きが初めにあるのか。いや、まさかと思い、目次を探し、ページをペラペラとめくった。しかし、目次も後書きも見当たらなかった。叔父をモデルにした小説の草稿、父の日記を並べて、それについての私見や感想を作者自身が述べる、という構成になっているのである。その内容はというと、「ポンパ」「チリパッパ」「ホエミャウ」「タポンテュー」とよくわからない言葉を使う、風変わりで哲学的で吃音を持っていた叔父の日記と、それに対する作者の考えや、見た風景が小説的に描かれている。
「アサッテの人」とは、叔父の日記に出てくる言葉である。エレベーターの作動監視を行う叔父が、エレベーター内の監視カメラに何度か現れた「チューリップ男」について記している。「チューリップ男」は、エレベーターの中に入り一人になると、激しいダンスを踊ったり、頭の上に両手でチューリップを作ったり、いきなりズボンのファスナーを下ろしたり、社会の中に立つと至って平凡なのに、一人になると突拍子のない奇妙な行動をとるのだ。そんな彼を叔父は「アサッテ男」と表現した。「ねじれの位置」の意味のように、「あさっての方角」に身をかわそうとする人。作者いわく、「あらゆる凡庸を回避し続けようとする目まぐるしい転身本能」であり「その世界観は、吃音の懊悩から来たであろう一種の厭世主義」だという。
まとめると、平凡であることを嫌い、世界を否定しどの軸にも交わらない人だと思う。孤独でもあるが、私はそんな存在に羨ましく憧れを持つ。だから「アサッテの人」を私は否定しない。
私自身、平凡を嫌うし、世界も肯定的には見られない。「否定的に見る」とはっきりここに書けないのは、たとえ嫌いになっても、その感情を意識せずに、好きでも嫌いでもないという中途半端な気持ちで世界を見ていないと生きていけない気がしているからだ。
私はできればみんなの持つものは持ちたくないし、みんなが「はい」と言うならば私は「いいえ」と言いたい。平凡なものは持ちたくないし、人生だって平凡な道を歩みたくはない。でも一人違う道を歩むのが怖い。だからみんなが「はい」と言うのならば、私は「いいえ」とは言えずに「はい」と言うだろう。だから私は「アサッテの人」に憧れを持つのだと思う。
「一度アサッテを忘れることで、意識の外で新たに生まれ来るアサッテ、それを待つ以外に言葉が生き残る道はない。もしそれが巡ってこなかったなら、僕はいつかすべての言葉を失うだろう。」これは、叔父の最後の方の日記に書かれていた言葉だ。妻を亡くした叔父は、自分自身が言葉を連ねることで自分を内側へと小さくさせていることに気がつき、言葉の作為に怯えたのだ。
確かに、言葉は自分の内側の思考を言葉として消化しているのだから、言葉は、アサッテという外側へ、思いもよらないベクトルに向かう概念とは反している。妻を失い孤独になり、アサッテを失いかけた叔父は、しばらく旅行に行くと言ったきり、行方はわからなくなってしまう。新たに生まれるアサッテは存在していたのだろうか。
<写真コメント:「明後日の方角が、もし存在したとしたら、どこを見るのが正解なのでしょうか。」>
★渡辺小春(わたなべこはる)=書評アイドル
五歳より芸能活動を始める。二〇一六年アイドル活動を始め、二〇一八年地下アイドルKAJU%pe titapetitを結成。現在「読書人web」で『書評アイドル 渡辺小春が読む芥川賞』連載中。最近の活動として、官公学生服のカンコー委員会、放送中のNHKラジオ第2高校講座「現代文」には生徒役として出演中。二〇〇四年生。
Twitter:@koha_kohha_