ブラックボックス
書評アイドル 渡辺小春が読む芥川賞
第166回芥川賞受賞作品
ブラックボックス
著 者:砂川文次
出版社:講談社
ISBN13:978-4-06-527365-4
揺らぎの渦中であることを受け止めて
最近怒りという感情が沸いてこない。嫌な気持ちになったことがあっても、呆れたり、どうでもいいと思ったりするだけで怒ったりはしない。怒りたいことはきっとあるのだろうけれど、その感情の矛先が分からず、無意味なものだと怒りの感情が無くなるまで静かに待っている気がする。思えばいつからか怒るように叱ってくれる先生も、怒りに身を任せて喧嘩する生徒も見ることが無くなった。本作で久しぶりに暴力的な感情を露にする主人公と出会い、こんな人がいるのかと現実とのギャップに違和感を覚えた自分に驚いた。
今回は、第166回芥川賞を受賞した、砂川文次さんの『ブラックボックス』を選んだ。
主人公のサクマは、自転車便のメッセンジャーとして働く男である。「家を出る」という目的で高校を卒業してすぐに自衛隊に入っていたが喧嘩になり一任期で辞め、次に不動産屋の営業職を務めたがそこでも社長の息子と喧嘩になりクビに。その後も工場やコンビニなどを転々として行きついた職がこのメッセンジャーだった。上下関係がなく、体一つで働くスタイルは、彼自身「今が一番いい」と感じるほど合っていた。前半はそんなサクマの何気ないが、どこか鬱屈していた日常の描写が続く。
しかし後半は物語の舞台が突如して刑務所に変わる。
同棲していた円佳に子供ができたことを知ったサクマは、給料が現状よりも下がらず、福利厚生がしっかりとしている職を探すも上手くいかない。さらにメッセンジャーでの人間関係も悪化し、転職することとなってしまう。そんなある日、サクマの家に税務署の調査官が訪ねてくる。納税の催促をしにやってきたようであった。しかしサクマは調査官らが自分たちを見下し馬鹿にしたような笑みを浮かべたことに苛立ち、手を出し、さらに止めに来た警官にも暴力をふるってしまう。そして彼は刑務所の中で、規律正しい日々を送っていくこととなってしまうのだ。
この物語で印象に残ったのは、人生におけるゴールについてだ。サクマがメッセンジャーとして働いていたころ、24歳の後輩に「いや、サクマさんはいいんですよ、色々経験してるしもう同棲もしてるしなんかゴール見えてるっぽくないですか?」と言われる場面がある。サクマはその言葉に対して「はあ?なんだよ、ゴールって」と口にする。彼は近くにゴールがあるのならばその距離のままにしていたいと感じていて、日々積み重ねていた先のものがゴールではないという気もしていた。そして刑務所で毎日決められたことを行う規則正しい生活の楽さには、毎日のタスクとしてや出所というゴールが見えているから楽があるのではないかと考えている。先行き不安な見えない未来と、安定した決められた未来の二つがこの物語には描かれているのだ。
私は、高校生あたりから自分の10年後、20年後の将来を想像できなくなった。この不安な感覚は今もどんどん強くなっている。おそらく就活を意識し始めたからだろう。ただ、私はそんな今が好きでもある。何も見えない未来の方が想像は膨らむ。何でも出来る気がするのだ。反対に、就職、結婚といった一般的な人生のレール上の社会的なゴールを意識することを拒絶してしまう。そんなゴールに辿り着くことが出来るのかという不安とレールに乗りたくないという嫌悪感が自分の中にはある。レール上の安定の方が合理的で安心感もあるとは思う。もう自分の考えと理想に矛盾が生じて気持ちがぐちゃぐちゃだ。そこから来る今への焦燥感がさらに閉塞感を生む。明日が不安なのに社会のゴールにも辿り着きたくない私は「自分はずっと遠くに行きたかった」という最後の主人公の心情に本当にそうだと叫びたくなった。その遠くがどこなのかはわからない。だが、私はこの物語を通して、誰もわからない不安定な明日と私を取り囲んでいてほしい安心、この揺らぎの渦中であることを受け止めて道を進むしかないのだなと思った。『ブラックボックス』という題名にもあるように、コロナ禍でさらに感じるようになった未来という中身が見えないことと、閉塞感が現れている作品だ。
<写真コメント:「高いビルの上から街を見渡してみたら、社会の人々を客観視できて世界を見る視点が変わって面白かったです。」>
★渡辺小春(わたなべこはる)=書評アイドル
2004年生まれ。大学生。2016年からアイドル活動を始める。カンコー委員会一期生などモデル活動のほか、「NHK高校講座現代文」の生徒役としても出演するなど幅広く活動をしている。MissiD2021「本と女優賞」受賞。
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