この世の喜びよ

書評アイドル 渡辺小春が読む芥川賞

第168回芥川賞受賞作品

この世の喜びよ
著 者:井戸川射子
出版社:講談社
ISBN13:978-4-06-529683-7

 

ささやかな喜びを描いた、静かで心地の良い物語

 皆さんは、何に「この世の喜び」を感じているのだろうか。漠然とした問いだが、その「喜び」とは、自分が生きている上で感じている感情のはずだ。でも、私にはパッとそれが思い浮かばなかった。だからどんな喜びなのか知りたいと思いながら『この世の喜びよ』を読み始めた。

 ショッピングセンターの喪服売り場でパートとして働いている穂賀は、フードコートによくいる少女と出会う。部活もやめた彼女は年の離れた弟や妊娠中の母がいる家に帰ることが気まずくてフードコートに居座っている。穂賀は、少女と話しているうちに、社会人と大学生の二人の娘との記憶を思い出しながら、会話を交わす日々を過ごす。生きていく中で出会った風景、経験を誰かに話そうと思えるささやかな喜びを描いた、静かで心地の良い物語だ。

 本作の舞台は主に穂賀のパート先であるショッピングセンター。ロッカーをバックヤードと呼ぶのが気恥ずかしくてためらう描写があったりとリアルな空気感を感じた。そう思うようになったのは私がバイトを始めたことの影響もあるのだろう。私は大学1年生の夏休みから、初めてバイトを始めた。最近ようやく接客の仕事にも慣れてきたところだ。食品販売のレジが主な仕事なのだが、間違いなく今までの人生で一番多くの人と会っている時間だ。かなり忙しい職場だが、「この人は近くのサラリーマンで今休憩中なんだな」「奥さんとこれを食べるんだな」と沢山の人を少しだけのぞき見出来るところが今の私のやりがいだ。

 店員も、お客さんも、沢山の人が交わる身近な場所で展開されてゆくこの物語には変わったところがある。それは二人称で進められるということだ。私は、普段本を読むとき、主人公になったり、その友人になったり、客観的に見たりと、いろんな視点を行ったり来たりしている。だが、本作では違った。読み手の一人称が“わたし”ではなく“あなた”と言われるのだ。さらに会話文も穂賀が話している言葉は鍵括弧がつけられておらず、相手の会話だけつけられている。だから読者は穂賀となって少女と話したり、話しながら色んなことを思ったりすることになる。物語が終わるまで主人公目線でいることは今までにない不思議な感覚で、本を閉じた瞬間、現実と本の世界の境界線が見えた気がした。主人公と自分の距離が曖昧になったからこそ、読後に見た現実の景色が本の中の景色と違う当たり前さに気づいたのだ。こう書評を書いている時間にも、穂賀の見た景色が頭の中に残っている気がしている。普段、自分じゃないものが頭の中に残っていることは辛い時もあるが、全く反対で心地よさすら感じている。

 結婚するつもりもないと言う少女に、何でもいいと思うと答えるも、差し引いて言っているようと受け取られ納得してもらえなかった主人公が、「自分が経験していないことでも、教えて上げられたらいいんだけど。」と戸惑いながらも「違うんだよ、若さは体の中にずっと、降り積もっているの、何かが重たく重なってくるから、もう見えなくて」と少女に伝える描写がある。結果的には、説教のように聞こえてしまい少女に拒否されてしまうのだが、懸命に言葉を紡いで伝えようとしている繊細さが描かれていて好きな場面だ。素敵な景色、老いることの良さといった少女に伝えたいことを懸命に伝えようとしてくれたから私は心地よさを感じたのだと思う。

 読めば読むほど、日常のちょっとした風景が好きになった。例えば5限終わりの帰り際、バイバイじゃなくて、明日また会おうね、と言った友達の言葉が嬉しかったこと。でも学校行きたくなかったときのその言葉はもっと重たい言葉だったなとか言葉って使い方も環境も少し違うだけで感じ方変わるから大切だなと友達に話したいけど今話したら重たくなっちゃうから、またねとしか言えないと悩む時間さえも。些細で沢山の思い出が積み重なって、誰かに伝えたい景色、話したいことがあることは幸せだ。この世の小さいかもしれないけれど大きな喜びを本作は伝えてくれた。

<写真コメント:春休みはほとんどバイトに費やしていました。社会人になるにあたってとても良い経験が出来ているなと思います。大人になりたくないけど人間的に成長したい気持ちが強いのでいろんなことをこれからも積み重ねていければなと思います。>

★渡辺小春(わたなべこはる)=書評アイドル
2004年生まれ。大学生。2016年からアイドル活動を始める。カンコー委員会一期生などモデル活動のほか、「NHK高校講座現代文」の生徒役としても出演するなど幅広く活動をしている。MissiD2021「本と女優賞」受賞。

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