――生きることと読むこと(書くこと)における〝時熟〟―― 文芸〈10月〉 川口好美 李琴峰「生を祝う」、矢野利裕「中間地帯にいる私」 ほんとうはよく見知った風景の中にいるのに袋小路に迷い込んだと思い、うろたえる。まったく異なる〝方〟を歩いているつもりでいたのにふたつの道が合流し重なる地点にぶつかり、驚きの声を上げる。息子との散歩中こんな本源的に子どもらしい場面に遭遇することがあってこちらの心も動く。ベンヤミンやプルーストといった作家たちが自らのポエジーの源泉と位置づけ愛惜した幼少時の歩行の経験を、彼が目の前で身をもって実験している事実に驚異の念を覚える。そのときわたしは息子とともに様々なテクストを再読しおおせたかのような心持に染まり、ならば真の読書体験とは、本と現実をジグザグに行き来しながら時間をかけて熟成するものであるに違いない、などと思う。 今月は学生時代に少数の同好者たちと難儀して読んだ記憶のある『失われた時を求めて』を特集する『文學界』にまっさきに手を伸ばし、胸躍らせながらページを繰った。ただ正直なところ特集の大部分を占める諸家のエッセイ、全体を通読していない書き手に各巻の担当を割り振り短文をしたためさせる「史上もっともハードルが低いプルースト特集」を謳ったユーモラスな企画にはあまりぞっとせず、一抹の不安に包まれた。〝神話剝がし〟の試みとして有益かもしれないがはたしてこれがプルースト神殿のオクまでユキタイと念願するオクユカシイ読者の助けになるであろうか、と。なにしろ生きることと読むこと(書くこと)における〝時熟〟という『失われた~』の根本イデーと真向から背離する、それは読みの態度なのだから。企画中でわたしが再読しノートに書き写したのは、コロナ禍での生活と重ね合わせながらテクストを再読する(受け取り直す)谷崎由依氏のエッセイ(「「見出された時」のなかに見つかったもの」)に含まれるどこかボルヘス的なもの深い一文であった。――「ふと、あることに気づく。語り手にとってのマドレーヌや敷石にあたるものを、わたしはいま手にしていると。それはすなわちこの書物、『失われた時を求めて』の、「見出された時」の巻だった」。 * 子どもをきっかけにした連想の糸は李琴峰氏の小説「生を祝う」(『小説TRIPPER』)の〝方〟へのびる。作品の舞台である未来の日本には「合意出生」なる制度が確立している。あらゆる先端科学を駆使し、あらかじめ出生の当事者=胎児にこの世に生れる意志を確認するのだ。意志に反して出産することは犯罪であり(すべてのケースが処罰されるわけではないが)、呪われた生を子に強いる反道徳的行為だと多くのひとが信じている。当然妊娠・出産する側の当事者=女性は様々な過大な矛盾や葛藤を背負うことになる。胎児から出生を拒絶された場合はむろんのこと、無事出産に至る場合もそのことにかわりはない。おそらく、そんな制度などなくても、女性はいやでもそうした矛盾葛藤に引き裂かれてきたのではないか……と、今ここの足元に視線を切り返させるところが――設定の都合上説明的な文章が多く、そのぶん人間性の襞に触れえた実感が薄いのが悔やまれるとしても――本作のすぐれたところだと思う。 そのうえで極私的な横道にそれるが、本作には非当事者である男性の葛藤がほんのわずかに示唆されている。子どもという他なる生命(&それを身ごもったり身ごもらなかったりする女性という他者)との出会いによって男性にどのような矛盾葛藤が生じるのか。子の存在によって男はどんな「ねじれ」を自己の内部に見出し、それを見つめることでどう変化するのか。自らを生み直すのか。こういうことはもっと考えられてよいし、〝男流〟作家によって作品として書かれてよいはずだ。文芸誌と首っ引きになってもう一年近く経つが、そのような感触を与えてくれたのは松波太郎氏の「王国の行方・二代目の手腕」(『群像』五月号)くらいだった。 * カギ括弧つきで「ねじれ」と記したのは矢野利裕氏の「中間地帯にいる私」(『群像』)のことが無意志的記憶ふうに(?)浮上してきたからである。「小山田圭吾の件」をめぐって書き出されたこの批評的エセーの全貌にふれる紙幅は残念ながら残っていない。真摯な粘り強い文芸批評のコトバにぜひ直接当たっていただきたい。「ねじれ」を表面的に指差すだけではなく、他者のテクストを読むことをとおして「ねじれ」としての自己を見つめ、それを他者の前に差し出し、他者の「ねじれ」と呼応し合う。「ねじれ」を解消するためにではない。もっともっとねじるために、ねじ切れてしまうほど激しく「ねじれ」をねじりつづけるために――。これこそが文芸批評のコトバがその核心に孕み持つもっとも遠大な理想だったはずなのだが、どうやらここのところ迷子になってしまっているようだ。しかし〈星は暗くなければみえない〉こともまたたしかであり、希望は大いにある。(かわぐち・よしみ=文芸批評) <週刊読書人2021年10月8日号>