――大阪長居公園と沖縄高江の体験から―― 三人論潮〈2月〉 佐藤零郎 「なぜ通れない」「トイレにも行かせないのか」。二十二日午前六時、突然封鎖された沖縄県東村高江の県道七〇号。新川ダム入り口の交差点で愛知県警機動隊のバスが両側二車線をふさぎ、北上しようとする全ての人と車の通行を一時遮断した。「人権侵害だ」「戒厳令か」と行く手を阻まれた市民の怒号が響く。警察官に詰め寄ったが、沖縄県警の現場担当者は「危険なので規制している」との説明を繰り返した。(沖縄タイムスニュース+プラス、二〇一六年七月二十三日) 七月二日の夜、誰もいない時間帯に米軍によるテント、トイレ等撤去がありました。今朝、それに気がついた次第です。やんばる東村高江の現状(二〇一九年七月三日ブログより) 今年の一月より連載がはじまった三人論潮は初回を吉田晶子が担当し、二月は佐藤零郎が、三月を板倉善之が担当する。三人での連載の共通の土台として、冒頭に同時代の文章や新聞記事などを取り上げること、相互の批評を行うこととしている。一月号の佐賀県唐津市に在住の吉田さんは、年に一度、自分の家のポストに投函されるハガキ「原子力立地給付金のお知らせ」を取り上げている。玄海原発がある玄海町は振込金額が八千四百二十四円で、隣接する唐津市は振込金額が四千二百十二円、一円単位で半額なところを私は生々しく感じた。ポストに入っているそれは、釜ヶ崎のあいりん総合センターから現金仕事に行ったときのことを思い出させた。日もまだ明けぬ朝五時に手配され、朝飯を食べるために立ち寄る飯場のトイレの壁に「原発作業員募集日当一万二千円(実労働二十分)」とある張り紙を見た。実労働二十分とは、二十分しかその場所にいることができないことを意味し、放射線の空間線量が高い区域での作業だ。原発給付金のハガキも原発作業員募集の張り紙も最小限のことしか書かれていない。だが、その無機質な活字の奥にあるモノが薄っすらと見えることが、それを生々しくしているようだ。 また吉田さんの住む唐津市から車で一時間半ほどの石木ダム計画によって水没の予定とされている長崎県の川原(こうばる)地区で反対運動を五十年続けている人たちの座り込み現場に訪れた話はとくに面白かった。座り込みの反対行動という言葉から想像されるものとはかけ離れた光景がそこにはある。どっしりとした木のテーブルを囲み、そこに置かれた大粒のいちごや芋餅を食べながら、世間話をする女性たちの姿は、機動隊と反対側とのこわばった体と体のぶつかり合いとして消費される手前にある。あらゆる運動現場がもつ、そのような日常の光景は、ぶつかり合いよりもゆるやかな時間のほうが圧倒的に長いのだ、としみじみとした気持ちになった。 そして私が気になったのは、五十年も反対運動をしている人たちの現場のトイレはどんなのだろうか、ということだ。というのも少ない運動現場の経験だが、運動には決まってトイレ問題がつきものだからだ。こうも言える。トイレをみればその現場の底力がみえる。私は現場のトイレを作った経験がある。二〇〇七年、大阪長居公園の野宿の人達のテント村が世界陸上開催の工事を理由に強制立ち退きさせられた。行政代執行が直前に迫ったある日、空いたテント小屋の一つの地面の土をシャベルで掘り、プラスチックの簡易洋式トイレをその上に設置し、即席のトイレを作った。排除に来る市の職員やガードマンがテント村のまわりを封鎖するので、その間トイレに行けないからだ。少しでも長くそこで闘うためにはトイレは重要なのだ。二〇一一年に友人と訪れた米軍のヘリパッド建設に反対している沖縄高江の見張り小屋のトイレはすごかった。高江のトイレの便座は木で作られていた。沖縄といえども高江は標高も高く冬になると冷えるためだ。下の土は一メートルから二メートル深く掘られおがくずが敷き詰められていた。水を使わなくても微生物が排泄物を分解してくれるバイオトイレだった。(この間、調べた沖縄の座り込みの呼びかけ案内には必ずといっていいほどトイレがどこにあるかについて書かれていた。沖縄の運動は市街地よりも人里はなれたところでの長時間の座り込みの行動が多いからだろう)そのときに嬉しい出会いもあった。見張り小屋の近くには軽ワゴンが停まっており、抜き打ちで工事が行われないように毎日見張りと抗議活動をしているおじさんと会った。「釜ヶ崎から来ました」と挨拶をすると、そのおじさんは目を見開いて驚きすぐさま「医療連の大谷さんは元気か?」と言った。こちらも突然、沖縄のさらに山奥の高江にいるのに、釜ヶ崎のローカルな知人の釜ヶ崎医療連絡会議の大谷隆夫さんの名前が出てきて驚かされた。佐久間さんというおじさんは、その後二〇一五年に亡くなられた。沖縄に来る前には、釜ヶ崎におり大谷さんに世話になったということだった。釜ヶ崎の野宿者運動の現場と高江の米軍ヘリパッド反対運動の現場が〈チョッケツ〉しているのを見た感じがした。 冒頭にひいた高江の米軍のヘリパッド建設が住民たちに告げられず、抜き打ちで封鎖され、工事を強行された場面での「トイレにも行かせないのか」という言葉は愛知県機動隊のやり方が誰にでもおとずれる生理的な現象をもさせないような「非人道的なやり方」を強調したいがために引用したわけではない。それとは反対に、トイレに行くことをかりに許されたとして、機動隊の規制線を越えてトイレに行かせてもらい、そのすぐあと抗議行動をする姿を想像してほしい。敵対している者に許可をされて抗議をするようで、抗議者は滑稽なもどかしさを感じないではおれないだろう。 現在、私の現場である釜ヶ崎は、一九七〇年に建設されたあいりん総合センターは二〇一九年四月二四日に、機動隊の投入により閉鎖反対の抗議をする者を追い出し、シャッターが閉じられた。センターは日雇い労働者の求人や失業給付だけではなく、多くの野宿者の生活に必要な場となっていた。「センターは個室トイレだけでも三十数個あり、朝五時にセンターのシャッターが空くと、トイレを我慢していた労働者たちが一斉に駆け込み、すべてのトイレが埋めつくされる。」(日本人民委員会のインバさん談)現在は、センターの仮庁舎が南海高野線の高架下にあるが、そこでは個室用の車いす用トイレをいれて八個しかない。旧あいりん総合センターのシャッターの周辺で二、三十人の野宿者が生活している。釜ヶ崎開放行動の友人たちがセンター前に団結小屋を建て、毎週月曜日に炊き出しと寄り合いを行っている。また、釜ヶ崎で古くから活動している釜ヶ崎地域合同労働組合も裁判や、三百六十五日炊き出しをおこなっている。昨年、センターの敷地内にある団結小屋や釜合労のバス、おのおのの野宿の人たちの寝床に立ち退きを迫る土地明渡請求訴訟がおこされ、土地明渡断交仮処分命令の判決が出た。明け渡しの仮処分は認めないという判決で、大阪府の訴えを退けた。久方ぶりの勝利ではあるが喜んでばかりもいられない。団結小屋のトイレは、工事現場などに置いてある汲み取り式のトイレで、一ヶ月に一回業者が汲み取りに来るが、無機質で味気なく、持久戦を闘うには心もとない。それに、昨年の十二月センター前にある釜合労のバスのなかで一人の野宿者が亡くなった。十一月にもセンター周りの路上で一人亡くなっている。わたしたちはこの死に無力でなにもできていない。吉田さんの訪れた石木ダム計画に反対する川原地区の女性たちによる抗議の座り込みはそこに集まることが反対の意思を表明すると同時に、木のテーブルを中心にしながら彼女たちの互いの安否確認や、日々の辛いことなども話されていただろう。テント小屋の立ち退きに反対していた時は元気だったがテントが潰され、生活保護を受けてちりちりバラバラなってしまったあと、誰にも知られずに腐乱した死体となった元テント村住人の知らせを聞いたことがある。運動が日常に食い込むことで、その人を孤立させずに、他の人との関係をつないでいたのではないだろうか。敵対するものに許可をされて用をたすことにならないような木でできた便座のトイレと、お互いの安否を気遣うことができ、自然と会話が弾むようなどっしりとした木のテーブルがわたしたちには必要なのだ。★さとう・れお=映画監督。主な作品に「長居青春酔夢歌」「月夜釜合戦」など。大阪府八尾市在住。一九八一年生。 ≪週刊読書人2021年2月5日号掲載≫