ルクセンブルク死後百年 二〇一九年が終る。やりかけの大切な「仕事」にけりを付けられず、あきれるほどに単調に私の一年はすぎた。それはこの数年と同じだが、一つだけ違いもある。(今年は、ローザ・ルクセンブルクが殺されて百年だ。)雑用の合間に、時々そう思った。心が自然にそうつかまれていた。年内はもう無理だが、彼女について準備中の文章が私にも複数ある。心が古びず、記憶が辛くも確かなうちに、いい加減にそれらをまとめないといけない。それなのに、いざ書き始めると変身・・できない。ノートの堆積に無限にのみこまれ、それを「作品」化して机上に戻れない。仕方がない、外をぶらつき、久しぶりにそこらの新刊雑誌を見てみよう――自慢でないが、私は普段は一切本屋に行かない。 もちろん、まともなルクセンブルク特集や批評が店頭にあるわけがなかった。それでいいし、それが・いいとも言える。大昔(一九八三年)の「マルクス死後百年」の騒ぎを思うがいい。あの時の無数の討議や駄文が、何一つ時間に勝てずに絶滅した事実を想起するがいい。ルクセンブルクを読む者は、その種の愚劣に絶対に加担してはならない。我々は、今年も来年もその次の年も、少しも変らぬ深い長い射程で彼女を読むべきである。だがやはり――これは忘却であり沈滞にみえる。御茶の水書房の連中がしくじった、例のルクセンブルク全集の刊行中断がその象徴である所の、彼女に関する批評戦線の単なる腐敗、単なる崩壊にみえる。それは、世の中に正気な連中が殆どいなくなったからなのか。佐藤零郎が言う「真の左翼になる」手がかりを、我々の誰もが失いかけている、ということか。 だから、連載の最初に私はルクセンブルクに触れたい。いくつかリクエストがあるのだ。たとえば、『資本蓄積論』が厳正に経済学的であると同時に根本的に政治的な書物である事実――マルクスの精神に基く所の、マルクスに対する彼女の革命的批判こそが決定的で、それを承認できずに「ルクセンブルクは誤りを犯したが鷲だった」レベルの「評価」を続ける限り(要するに、彼らは「鷲ではあったが誤りを犯した」と言いたいだけだ)、我々が必然的に改良主義の泥沼に崩落する以外ない事実。誰かにこれらを明快に、状況的に描いてほしい。ルカーチの『歴史と階級意識』が、みかけ上ルクセンブルク論の体裁をとりながら、結局は「勝てば官軍」式の理屈に依拠するレーニンへの無惨な追従に終っている事実、このことも誰かに、噛んで含めるように示してほしい。私は私で、ヨギヘスには何が欠けていたか・・・・・・・・・・・・・・を書きたい。「スプラヴァ・ロボトニチャ」(労働者問題)の労働者通信号の編集過程の持つ意味を、あるいは「消耗か闘争か」や「理論と実践」のカウツキー批判こそ、レーニン批判よりはるかに根源的で重要である事実を必ず書きたい。と言っても、この紙上で「中身そのもの」を扱うのは無理である。だからここでは、その手前でそれら全てを促す導きの糸だけを示そう。私が言うのは、ルクセンブルクの「骨」である。その頭蓋骨のことである。ローザの真理がブレヒトの策略を圧倒する 大学に入学してまもなく、野村修の『バイエルン革命と文学』をぱらぱら読んだ。無知な私に、周囲の知人があきれて勧めた本だと思うが、それが誰かを覚えていない。とにかく、その冒頭で野村は次の意味のことを書いていた。若いブレヒトがルクセンブルクの死を歌った詩=「くれないのローザのバラード」は、数行を除いて散逸したと伝えられるが、決してそうでない。誰も気付いていないが、この主題は後年の作品=「水死したむすめについて」の中に、換骨奪胎されて生きている。その最終連で、「あおざめたからだが水のなかで腐ってゆくと(略)/かの女はもう腐肉、無量の腐肉とともに。」と歌った時、ブレヒトは隠された「ローザの影」を通じて、オフェーリア伝説を解体しようとした。「水死した女性」を純白な「百合の花」や「高山の雪」でとらえる、ランボー以来の美的なイメージの克服を試みたのだ、と。 分析は、見える詩の中に見えない主題を見いだそうとしている。心が少し動いて、これが「批評」なのか、とあの時確かに感じた。だが時間が経つにつれ、この発見には何か芯棒がない、とも思えてきた。「百合の花」を裏返した醜悪な「腐肉」は、前者を破壊しそれを必要十分に切断しているか。それは、繊弱で美的な性質を本当に脱していると言えるのか。同じことが野村の仕事、というより彼がこだわるブレヒトの仕事全体に言える。『夜打つ太鼓』が示す所の、スパルタクス・ブントに対する主人公の反射的で軽薄な関与――そこから始める限り、この戯曲家が正面からルクセンブルクを扱える日は来ないだろう。彼女を主人公とする戯曲は、ブレヒトの私的事情でなく発想自体の根本的錯誤によって、永久に「構想中」に終るだろう。何より、あの小難しい「真実を書くさいの五つの困難」、特にその第五「策略」の章が疑わしかった。ある時私は、この章が成功例として引くエピソードがいずれも、思想家達の短期的な、その時点での技巧的な抜け目なさにかかわるもので、物事を率直に・・・・・・、公開的に言わない習俗が革命運動にもたらす長期的な打撃・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・を、少しも考慮できていない事実に気付いた。活動家であれ学者であれ今日の日本の臆病者達が、この章を何かと言えば、自分が真実を言わないための小利口な居直りとして使っている事実に気付いた。 それに比べると、ルクセンブルクがレッシングやフッテン(マイヤー)から学んだ、簡潔で明快なあの格律が私ははるかに好きだった。「真理を教えようとするなら、完全に教えるのが義務だ。曖昧に、どっちともつかず、謎めかして、遠慮しながら、真理の力を信頼せずに教えたりしてはならぬ」。ブレヒトの長たらしい五章を、この透明な素朴さが圧倒していた。策略や擬装転向の豊かさ(?)についての無限のおしゃべりは、愚行への加担を卑しく値引きするちゃっかり屋の自己合理化か、やれる時にやるべきことを回避した、弱虫の長々しい自嘲に帰着する。「腐肉」を熱唱する者には、いつも肝心の「骨」が欠けている。 ――以上は白痴のたわごとにすぎない。だが、かなり後に土本典昭の『パルチザン前史』を見た時、幼い疑問は根拠ある確信に強まった。主人公(竹本信弘=滝田修)や仲間の京大生どもの浅薄さを、後出しであざける必要は感じなかった。ラジオ体操レベルの軍事教練等は無様な限りだが、その恥しさは彼ら自身が痛切に、むしろ過剰に大げさに自覚していた。真の不幸は、自覚し意識するだけではその無様さから決して脱出できない事実にあり、これら全てを明るみにするのが、映画の終盤に出てくるルクセンブルクの「骨」だった。「貧民収容施設で」の骨量 それは死体の映像だった。特にその頭蓋骨の映像、彼女が殺され、運河に投げ捨てられた後数か月経って見つかり、ドイツ警察が撮影したとされる写真映像だった。遺体の首は髪が抜け、頬や唇の腐肉がそげてはいるが、まだ目も鼻も口も判別できた。左目は視線を高い遠い空に投げ、ややぼんやりと焦点が定まらないかにみえた。だが右目は潰されているようで、よく見ると虹彩に当たる暗白色がわずかに、だがくっきりと浮かんでおり、その目の下をたどると、口元をかみしめた時の強い線が、今なお頬から顎へ続いていた。明らかに、その死首は主人公や我々の行方を心配して見ていた。「首が飛んでも動いてみせるわ」(フランキー堺/花田清輝)という、ゆるぎない批評的意志が確かにあった。それなのに、仲間やバイト先の予備校生をあれほど雄弁に扇動しながら、主人公はこの写真に「ショックだ」「夢に見るよ」としか言えない。まるで黄泉平坂の伊邪那岐のように、死首とは「連帯」どころか、それをまともに見ることさえできていなかった。彼らが精緻にルクセンブルクを研究していても、結局議論が軍事技術や組織論への惑溺に陥って、それらに抗して彼女が主張した指導部の役割(=明快なスローガンの提示による政治的集中点の創造)を放棄した事実と、それは完全に並行するものだった。 だが初めてこの映画を見た時、私は殆ど理屈で考えていなかった。その時本当に連想し、本当に私をつかんでいたのは、同じ頭蓋骨でももう写真でない、自分の目で見て、手指で実際に握りしめた友人達の骨だった。それはまだ大麻にいた時と、物を書き始めてからの少くとも二度あった。正直、鈍い私はどの葬式でもけろっとしていたが、忘れにくい出来事も繰り返された。性別も年齢も体重も、民族さえも違うのに、二人ともその骨が妙にごつかったのだ。一つ一つの骨が硬くて、骨量もむやみに多い。遺体を置く台に担当者の上体がおおいかぶさる。焼いてすぐ後の、台からはみ出そうな全身の骨格を、木槌のようなもので、腰に力をため腕をふるって砕いていく。割れる時、骨片は何かと擦れるやや高い音を立て、そのいくつかが台をとり囲む我々の足元に飛び散ってくる。砕いた骨を最後に骨壺に入れるが、量がかさばり、あふれて全ては壺におさまらない。それは、指で触れると焼骨は砂のように崩れるという、こちらの事前の空想を割り裂くものだった。大麻の時、疑いなく私自身が「夢に出る」と泣いていた。だが二度目はそうでなかった。私はすでに、ルクセンブルクの次の一節を知っていた。彼女とけちな全共闘=新左翼の差異は明らかだった。 ふつうであれば、死体は、口をきかぬ、みにくい一個の物体でしかない。しかし、こうした死体が、らっぱよりも大きな声で語り、炬火よりも明かるい光を放つばあいもある。一八四八年三月一八日のバリケード戦のあとで、ベルリンの労働者は死者をたかだかともちあげ、宮城のまえまで運んで、そこで圧制者をして犠牲者のまえに脱帽せしめたのであった。いま、われわれも、血と肉をわけたわれわれの仲間であるベルリンの浮浪者の死体を数百万のプロレタリアの手で抱きあげ、あたらしい闘争の年に向かって運びこもうではないか。そして、このような惨事を生み出す忌わしい社会秩序を倒せ、と声たかく叫ぼうではないか。(「貧民収容施設で」現代思潮社版選集3、高原宏平訳)死者と生者の対等 彼女は「死体」をたじろがずに見ていた。「ショックだ」としょげる代りに、進んで「血と肉をわけた仲間」を「抱きあげ」、彼らと肩を並べて「声たかく叫」んでいた。同情や思いやりでそうしたのでない。それは、カスプシャクの処刑直後に「革命万歳!」を書いた動機が、ただの同志愛から来たのでないのと同じだ。戦いの性質がルクセンブルクにそれを強いるのだ。革命運動に参加し、それを創造することそのものが、死者への視線を――死者との実践、それとの共同行動を我々に求めずにいないのだ。その協働の仕事の延長上に、今度は自分が「口をきかぬ、みにくい一個の物体」と化す順番を、彼女は自ら引き受けたのだ。 「スパルタクス・ブントは何を求めるか」や「綱領について」は、今なおいくつもの「革命の条件」を読者に教える。我々の目的が単なる政治革命でなく社会革命であること、正確には革命を実現する過程の大衆的で多様な広がりが、当の実現目標と決して切り離せないこと、そこでは一人一人が下からの政治変革に参加し、あらゆる政治権力の行使が絶えず全ての人民の統制にさらされること、そのために我々は、闘争のただ中で闘争することを学び、大胆な政治行動のただ中で政治的な創造性と作戦計画の熟練を身に付けねばならないこと――これら全てを、彼女は誰よりも強力に教え続けている。だが私見では、意識的に「綱領」として明示し、言語化しなかったにもかかわらず、ルクセンブルクがその「批評」の全体を通じて生きぬいた決定的な条件がもう一つある。それは、運動における死者と生者の対等・・・・・・・・、という理念である。革命運動の絶えざる核心たるみずみずしいインターナショナリズムが、ただ生者同士の差異、貧富や民族や社会的境遇の差異を乗りこえさせるだけでない、それは死者をも生者と対等で平等な存在に変えるという理念、それを通じて死者達が初めて「らっぱよりも大きな声で語り、炬火よりも明かるい光を放」ち始める、という理念なのである。 「死者」と言っても、所詮はめでたい大往生でしかない死にざまを、自ら渋面をつくろい憤死に見せかける、小雑魚の末路が問題でない。「生者」と言っても、その場限りの賞味期限を競い合ってはひからびる、目立ちたがりやほめられたがりは元々数に入っていない。にもかかわらず、状況打開の決定的な手がかりがこの理念の実現にあるのは確かだ。たとえば、今日の自称・・左翼諸党派の愚行の習俗を思うがいい。議会主義であろうと、ボルシェヴィズムであろうと、「死者」の言葉をそれそのものとして語らせることに少しも関心がなく、「生者」の打算と自己都合のためなら、それらを一切の歯止めなく歪曲し「なかったこと」にしてはばからない、あの吐き気をもよおす積年の悪習を考えるがいい。カウツキーがエンゲルスの「序文」を改竄して自らの議会主義を権威づけ、ジノヴィエフやスターリンが「ルクセンブルキズム」をでっち上げたあげくそれを得意気に排除してみせた――左翼の亜流にとって、それらは自明の初歩的範例でしかない。結局彼らは、何らかの対象(「資本家的生産様式」でも「天皇制」「封建遺制」でも何でもいい)を打倒しようとして、当の対象の卑しい習俗にのみこまれ、それらを縮小再生産しているにすぎない。それに対して、「死者と生者の対等」に固執し、これを活動の絶対的な原則とする批評運動が出現したらどうか。客観的に、この運動がルクセンブルクやヨギヘスの苦難を再びたどることは避けられない。だがその実践を欠く限り、我々が不倶戴天の敵を根こそぎ変革し、しかも「左翼」を内側から透明に自己浄化しうる可能性も全くない。 おそらく、ルクセンブルクの理念は革命運動の時間性への洞察から生まれた。革命が我々を「砂漠をこえるユダヤ人」に変え、この運動の担い手たる誰もが特定の時点で「みにくい一個の物体」と化すほかない事実、その平等と対等とを彼女が直視する所から生まれた。それについては、「革命運動の精神――特にその時間性の問題」(『メタポゾン』11号)で書いた。今や、我々自身が自らの状況下で、自分の言葉で「死者と生者の対等」を生みだすべき時だ。別に「ベルリンの浮浪者の死体」やルクセンブルクの頭蓋骨に限らない。思い付くまま、『死首のゑがほ』の宗や『鋳剣』の眉間尺、あるいは『地底の原野』の山本詞を挙げてもいい。今日彼らの実践と深く交響し、互いに入り乱れて新たな戦線を構築し、めざましい作戦を死者とともに創造する、力ある生者の言葉がどこにあるか。「批評」にとって、それを見いだすことが「あたらしい闘争の年」=明日の考察を作りだすことである。生きながらにして死者と化したあの連中、歯止めなく生きていることでそのまま「腐肉」の塊になり下がる連中を揚棄する条件なのである。「論潮」から「表町通信」へ 数か月前、本紙の編集長と久しぶりに岡山で話した。心に屈託する所があったのか、彼はめずらしく泥酔し、俺がくたばる前に一度でいいから論壇時評を書け、最後の依頼だと言い出した。とうに閉店時間をすぎた、がらんとした呑屋の空間に、彼の声が声そのものとそのこだまの二つに割れて、後者がわずかに遅れて届く。かなり昔、大西巨人の与野の自宅に二人で定期的に通った帰りも、どこかで時々これを経験した。 私には彼に感謝と借りがある。それは、最近の私が書評でも何でもない文章ばかり、本紙に寄稿してきた事実が端的に示している。今日の言論状況において、様々な苦情や嫌がらせが、しかも匿名の陰湿なそれが届いたはずなのに、彼は一度もその件を話そうとしない。毎回原稿がそのまま掲載される事態に、かえってこちらが当惑(?)したほどだ。だから書くしかないが、一つ問題がある。私には、この執筆をどうしても「論潮」の題名でやれない。大まかな理由は以上で示したが、『世界』や『中央公論』等のかびの生えた美文はもちろん、そもそも朝日や読売レベルの駄文を誰かに毎日読ませること自体、罰ゲームでなければ単なる犯罪だ。自主規制や忖度の後のうわずみから、何かの胎動が生じることはない。だから工夫する。「工夫」と言っても、好き勝手に読み、好き勝手に書き散らすだけだが――それで構わない奴は、毎月勝手に読むがいい。(最後に一言。感覚的に、私はルクセンブルクを気安く「ローザ」と呼びたくない。できるだけ「ルクセンブルク」と呼んできたし、今後もそう努めるが、やむなく名前で呼んだ場合、それは主に字数の都合のせいである。) 追記――初稿送付後まもなく、『思想』12月号のルクセンブルク特集が刊行されたが、すでに詳述する紙面がない。一つだけ、酒井隆史が(主にゲランに依拠して)彼女の大衆ストライキ論とアナキストのゼネラルストライキ論の「深い共鳴」を説いた個所(「赤いローザと黒いローザ」の「二」)、この視点は平板で「またかい」「よくあるパターン」だと感じた。これでは、論者に興味ある発言同士の類似を要素的にとりだせても、ルクセンブルクに固有の思考を批評的で創造的な統一・・として決して理解できない――私が言うのは、一方でカウツキーの議会中心主義を徹底破壊し大衆ストライキをそれに対置しながら、他方で議会の反革命性を公開的に弾劾しそれとの闘争を広く訴えるためにも議会への参加が不可欠だと主張する(そのため共産党結成時にも少数派になってしまう)、彼女のみかけ上の・・・・・ジグザグのことである。革命的な闘争と日常的な闘争、法創設的な闘争と現行法内部の闘争を一挙に同時に結合させる、改良主義者/ボルシェヴィキ/アナキストのいずれにも存在しない、原理的な二正面作戦の選択とそれを促す根拠のことである。釈迦に説法だが、現象としてのゼネスト(大衆スト)「評価」だけなら、ルクセンブルクやバクーニンはおろかベルンシュタインすら試みたことであり、今日の決定的課題はあくまで一歩先、その政治的意味付与の固有性を把握することにある。少くとも、彼女はバクーニン派と違って、ゼネストが「四週間以内」にブルジョアを屈服させる云々と一切書いたことはなく、この差異は戦術的都合どころか、革命の超長期性への洞察の有無にかかわるが、酒井に限らず、アナキスト連中はいつもこの急所を避けていないか(なお、45頁下段の「ユニウス・ブロシューレ」は「大衆ストライキ・党および労働組合」の誤記か)。(かまだ・てつや=批評家。江別大麻出身、岡山表町在住)