――強いられた「自粛」から自発的大衆ストライキへの転化について 前回の続きはほぼ書けている。それは主に、第四インター『かけはし』の沖縄関連記事を検討するものである。だが、今月は都合で新聞批評を一回休む。新型コロナの感染拡大について、それ自体でなく「明日の考察」を提示するためだ。 * 現在、「自分の順番」の時だけむやみにうろたえ大騒ぎできる状況、マラリアやエイズによる死者が、それぞれ年間数十万人に及ぶことに無知無関心でいながら、今回の感染拡大については過剰反応して買い占めに狂奔し、感染者を村八分にして転居さえ強いる社会状況――それはまさしく、我々が「国民」でしかない事実をあらわにしている。伝染病が「海の向こうのおはなし」で済む時には一切相手にしない感覚麻痺は、基地や核のごみを特定の地域に集中させれば毎日楽しく、憂いなくすごせる、多数の「国民」どもの残酷さと同種同質のものである。朝鮮学校を高校/幼保無償化の対象から排除したあげく、今度は露骨にマスクの配布まで拒絶しようとしたニュースが流れたが(あの浦和レッズの本拠地にふさわしい翔んだ所業だ)、「国民」の「非国民」への差別と排除は、すでに関東大震災直後の愚行を反復するほど、目を血走らせたあさましい水準に達したようだ。 我々が「国民」にとどまる限り、新型コロナの侵襲は自らの増長が招いた天罰=当然のおしおきにすぎない。ここ一番でマスクを分け合えず、隣人をいびって追い出すモッブが今後何百万人死のうが、それらは少しも同情に値しない。おそらく、今回の事態を自省と自問の稀有な機会とみなす意志さえ殆どの「国民」に欠けている。感染拡大が状況の転回をもたらすどころか、既存の偏向を加速し過激化する触媒に終始するのはそのためだ。――だがだからと言って、我々左翼がワクチン開発を受身で、神頼み的に待つことはできない。それが普及し事態が沈静化した途端に、今度は全てを「なかったこと」にし、「喉元すぎれば熱さ忘るる」習俗が幅を利かすだろう。震災後十年たらずの現在、もはや原発批判が確固たる大衆的常識たりえず、西日本で普通に九基が稼働している状況を見るがいい。あれほど多数の人間をアジアで殺害し凌辱しておきながら、我々が憲法の不戦条項さえぐらつかせ、放棄しかけている恥しい事態を思うがいい。新型コロナのはるか以前から、問題の核心は全く変っていない――そもそも懲りる・・・能力が「日本人」にあるのか、ある事柄を骨身にしみて学びうる証拠がその歴史のどこに存在するか、と。 「国民化」と呼ぶべきウイルスの蔓延と戦い、これを撲滅する必要があるのは以上の経緯においてだ。それは、「日本人」をいつまでも真人間に更生させない頑固な感染症であり、だからこそ大衆運動の担い手は、この長大な「自粛」の機会に世界に自己治療のプランを提示し、それを公然と実行し始めねばならない。確認すれば、困難は医学的伝染病と違い、一度のワクチン接種で劇的効果を生む特効薬が、この疾病に存在しない事実にある。「国民化」の感染作用を克服できるのは、「運動」が例外と障壁を作らず「法の下の平等」を追求し、それを通じて一人一人が「人民」的共通感覚を自在に使いこなす時だけだ。「愛国」への強力な免疫と、「国民」の特権化を拒否する原則的抗体が草の根レベルで浸透した時はじめて、我々の政治判断は(中央/地方の政権連中が陥っている無様な状態と違う)熟練した実践を展開できるだろう。「治療し浄化する唯一の太陽」(前回参照)の下でのみ、マラリアにさらされる無数のアフリカ人や、一度はマスクの送付を拒んでしまった在日朝鮮人の子弟との、うわべでない平等と連合を我々は享受できるだろう。だがそのために、具体的には何をなすべきか。次回の選挙で野党を勝たせる、安倍だの麻生だのを全員落す、と息まく兄ちゃん姉ちゃんが多いが、選挙中心主義が現実回避の一表現であることは何度か書いた。だからここでは別の攻防手に触れる。到底妙手と呼べず、みずみずしく活気ある展望を開く一方で、さらなる困難をも我々に強いるはずだが、やってみる価値のある行動が一つある。 * それは、(実質的に)強制された「自粛」=ロックアウトを、主体的で自発的な・・・・・・・・自粛=大衆ストライキにとってかえることである。我々自身の本来的で能動的な選択へと、この自粛騒ぎを根本的に逆転させることである。何のかのと言いながら、現在我々の殆どがどこかに「蟄居」させられている。だが、少し考えればみえるはずだ――この「蟄居」において、それが消極的な強制の形式をまとうとしても、性別や世代の差異はもちろん、貧富や地域や民族や宗教の差異をも我々は確かに越えている。「自粛」の無差別性が、人間同士の原則的な対等と平等を潜在的に作り上げているのだ。とすれば、必要かつ決定的な一歩は、これを我々自身が選択した自覚的なインターナショナリズムへ転化し昇華させること以外にない。いつか感染拡大が停止し、政府が待機要請を取り下げ、「今まで通り奴隷のように働け」と都合よく言い始めるその時、我々が自らの判断で労働の自粛=大衆スト(ゼネスト)を改めて選びとること、この運動の豊かで妥協のない広がりが、政府や企業ばかりか、既成組合や左翼諸党派の指導者連中にとっても不都合で異様な精神状況をもたらすこと、それを通じて官邸や国会と別の場所に、下からの自発的な力が累積する新たな権力の中心=評議会政府を作りだすこと。以上が、「国民」が真人間=「人民」に変るための「当面の任務」なのである。 かつて革命運動のテーゼが「帝国主義戦争から内乱へ」だったとすれば、今日それにかわる我々のスローガンはこうである――「強いられた「自粛」」から「自発的大衆ストライキ」へ、と。現実には、この転化がいかなる規模で生じるか、そもそも生じるか否かさえ疑わしい。「国民」が何事もなく賃労働に復帰する可能性は極めて高く、それが所与の条件である限り失望する必要もない。だが逆に、たかをくくって「何も生じるわけがない」と言い切れない徴候も確かにある。たとえば、食料の買い出しで外出する機会がまだ読者にもあるだろう。人々が店頭で、マスク越しに話す言葉のくぐもりが我々をとらえる時があるだろう。多くの場合、それらは思いやりも寛容も失いかけた、「国民」同士の殺気立つ応酬にすぎない。だがそれと決して溶けあわない発語が、目前の相手をはみだし遠方に響こうとする別個の発語が聞こえないか。みかけは小声で、周囲をはばかるようでいながら、どこか聞こえよがしの痛烈な雑音=政治批判が店員と客のやりとりに混在し、答えのない叫びとして突然打ち切られてしまう。薬局やスーパーやコンビニで、我々はこのトーンを一度も耳にしなかったか。「国民以上人民未満」たる我々の変貌の予兆はそれなのだ。周囲の精神的雰囲気は、すでに数か月前と劇的に隔絶してしまった。「自粛」が長期化し、その収束の予測不可能が明らかになるにつれ、この変貌は当初の条件反射をも克服し、時間の試練に浄化された深い長い低音を獲得するだろう。[注]だからこそ準備が必要だ。脈動し出現する運動が大衆ストであれ何であれ、生きた政治的スローガンを掲げて我々自身がこの運動に参加し、その担い手に変貌する準備が必要なのだ。 * 肝心な所でまた字数がつきた。だが最後に、この政治的スローガンに必要な数個の前提を列挙して終ろう。第一に、大衆ストへの転化は清冽な複数の細流が、気が付くと濁り流れる大河を形成するように生れるが、その時いかなる特定の「組織」に所属しようが、我々は究極的に「運動」への忠誠を迫られる。第二に、それは政治/経済の両面で、多様な要求が交錯し入り乱れる統一的な運動であり、我々はこの運動を決して「シングル・イシュー」に分割解体してはならない。だが第三に――繰り返すが、このストへの転化は一度きりの特効薬でない。「おいしい思い」に即座にありつくどころか、実行過程で拙劣な試行錯誤と短期的敗北が何度も繰り返されるだろう。大衆ストは、その何たるかを大衆スト自体の経験で学ぶ以外なく、だが我々ときたら、国鉄解体以後中規模のストライキさえ実行も体感もしていない。我々は依然「種まきの時期」(ルクセンブルク)にあり、今こそ信じ難い我慢と習熟の過程をたどろうとしている。だが、この過程を持続し拡大できなければ、大きな「収穫」=「人民」への成長など永久に望めないのだ。[注]たとえば、「コロナ疎開」自体は、原発事故が(東京ならともかく)京都大阪から九州に逃げ出す多数の小者を生んだ状況に似ている。だが、今回の感染拡大はその長期性/無期限性/公平な感染可能性において、やはり局所的メルトダウンと性質が違う。戦い方次第で、それは小ずるい疎開者といじましい地元民の「国民」的内ゲバをまとめて駆除し、我々一人一人を「人民」たらしめるはずである。(かまだ・てつや=批評家、岡山表町在住)