――「ケア」をめぐる内在的思考にとっての文学の可能性―― 文芸〈9月〉 川口好美 桜庭一樹「少女を埋める」 現在桜庭一樹「少女を埋める」(『文學界』)に思わぬ角度からスポットライトが当たっている。鴻巣友季子氏の時評に作者本人が異議を表明したのである。時評の要約だとあたかも主人公「わたし」(かぎりなく桜庭氏に重なる)の母が父を看護中に「虐待」していたかのようであるが、それはひとつの解釈としてはありえても要約としては誤りだ。要約が鵜呑みにされ、現実の自分の母親に実害が及ぶおそれがあるから訂正してほしい、と。本作を読み、その後鴻巣氏の文章に触れてわたしにも思うところがあった。ただしそれはたんに〝作品を読む〟次元での話で、文芸時評の存在価値や作品読解が現実に持ちうる暴力性をめぐる議論とは無縁の素朴単純なものである。 最初わたしも、鴻巣氏の要約の内容を予期していた。家族という閉じた関係における暴力が正面から取り上げられるのかもしれない、と。批評家=商業読書屋としてというより、「密室」での「弱弱介護」失敗経験者、「虐待」者として、文学の言葉がそこにどのような表現を与えるのか、期待しながら読み進めていたのだ。かりにそのような経験のないひとでも、「虐待」の可能性を念頭に置いて読んで当然だろうとも思う。そうしたくなるのに十分な材料や空白が点在しているのだ。だから母から父への暴力があったのかもしれないと想像し、それにもとづいて作品を読解する自由が読み手にはある。そして当然、結局のところ暴力は明示されなかったのだから留保なしにそれをあらすじに組み入れるべきではない。わたしの関心は、父から母への暴力が予想されるにもかかわらず書かれないことの文学的な意味であり、そのことが「ケア」をめぐる内在的思考にとってどのような意味を持つか、ということである。 事実として母から父への「虐待」の描写が存在しないということも重要だろうが、そもそも暴力的な出来事の同定をむずかしくする語りを作者が採用しているということもまた重要なのではないか。「ユニークな人」である母親の言動の揺れ(それが故意か故意でないかもよくわからない)が〝真実〟を見えづらくしている、ということが、わかりやすくある。ただ、母の暴力性から明瞭な輪郭を奪い、本質的に不確かで曖昧なものにしているのは、母にたいして批判的な位置にいるはずの「わたし」の語り口ではないか。もちろん、夫を亡くし気落ちしているはずの母への娘としての気遣い、という側面があるだろう。地方特有の共同体の重力の作用、という側面もあるだろう。だがわたしは、そうした作品造形上の合理的理由を超えた、作者の実存的な不安の影をそこに読まずにはおられず、その感触はわたしを――「虐待」者としてのわたしを不安にした。かつて母から受けた暴力に言及するさいの「わたし」の言い淀みや取り乱しを参照してほしい(p・53上段~)。自分の記憶の中の「事実」をことごとく疑い、こんなことを思い出している自分はじつは民話に出てくる妖怪なのかもしれないと最終的に茶化す主人公の語りは言葉の真の意味で不気味である。 基本的に「わたし」はそこから――個別的な経験から一般的な思考=「正論」へと、横滑りする。「正論」の存在は「わたし」にとっての「命綱」だが、同時に作品を不安で不気味な境域から救う安全装置でもある。そこで、商業読書屋としてのわたしは結果的に破綻のない面白い作品だったという感想を持つ。だが同時にこれは「虐待」の可能性をも孕む「ケア」についての内在的思考にとっては行き止まりだという感想も持つ。「わたし」が考えるように個別の暴力の背景には歴史的・構造的な力の非対称が存在する。暴力を振るう者は暴力を振るわれる(た)者である場合が多い。これらは誤解の余地のない正しい認識である。ただ、暴力の加害者や被害者が言い淀み、取り乱しながら個別的な関係に、不安な閉域にとどまろうとすること――〈わたし〉と〈あなた〉の次元で暴力を問い続けることも同様に正しいことだろう。というより、一般的な思考と個別的な経験とのあいだで引き裂かれることが、「ケア」やそこにおける暴力の可能性への真剣な問いかけの起点になるのではないか。「正論」一辺倒に傾く本作の結末からはそのような可能性を感じなかった。もちろんこれは当今の「ケア」概念については無知な、月並みな「ケア」失格者のたんなる感想である。 ……鴻巣氏の時評を読むと、テーマを抽出するのが批評の役割だと勘違いしそうになる。作品について具体的になにかを伝えたり伝えられたりするにはなにぶん字数が少なすぎるのだ。ボルヘス的な要約の魔法をひとつの理想とすることは大事だが、時評の書き手も読み手も、自分(たち)が魔法使いではなく凡人にすぎないということも忘れないでおいたほうがよいのだろう。(かわぐち・よしみ=文芸批評) <週刊読書人2021年9月10日号>