――新今宮ワンダーランドを批判する 二―― 三人論潮〈6月〉 板倉善之 「現在、花園公園のテントで生活している。 二〇一一年五月二〇日、昼寝をしているとき、テントを二度叩いて「おるか」の声。疲れて寝ていたので返事はしなかった。十分後、シートの留め具であるゴムが切られ、熊みたいなやつがいきなりテントに入ってきた。驚いてお茶をかけた。さらに十五分後、表のシートを強引に引っ張りビリビリと破りはじめた。あわてて裸足で飛び出すと大阪市の職員が十二、三人、警官が二、三人いた。有無を言わさず取り押さえられた。 その後、大阪市に対し「抗議と質問及び要求書」を提出した。返答としての「回答書」にはテントを壊した張本人の返事はなく、「安否確認のため留め具を切断した」などと書いていたが、お茶をかけて(生きている姿を見て)からシートを破いたので「安否確認」はウソであり、また切断部分はテント上部のため明らかにテント自体を壊そうとしていた。当然「回答書」に納得などできず大阪市役所に行くが、ピケを貼り話し合いに応じなかった。以後、事実の「説明責任」は果たされないままだ。 大阪市の職員は過去二年にわたって「四〇回程度除却を求めてきた」などと言っているが、日記を確認すると実際にはわずか九回であり、それもテントにメモ書きを貼付けていっただけだ。また福祉職員と対面したのは二回だけで、そこでも居宅保護などの具体的な手続きには至っていない。あげくに「行政代執行の費用を財産から差し押さえる」などと脅し、またテントにいきなり入ってきて盗撮まで行なった。職員はそれについても居直り続けている。 そして今日、二〇一六年三月二九日、市の職員どもが行政代執行令書をテントに放り込んでいった。執行は明日三月三〇日。 憲法第三五条「住居の不可侵」刑法第一五六条「虚偽公文書作成及び行使」を踏みにじる犯罪組織大阪市建設局。 これを隠蔽、隠滅する為の強権を発動する、唯々諾々吉村洋文市長。 橋下前市長がパンツなら、このパンツにいつも付いている汚物松井大阪府知事、パンツ橋下、汚物松井等に庇護されてできた傀儡吉村大阪市長、聴けば弁護士だそうな。「基本的人権擁護」「社会正義」は何処に忘れてきた。 一生大阪市長やっとれ! 家を潰されればカタツムリすら角を出す。 人間になりたい。 冬の蚊は寒い。 ブラック大阪市に、強権「行政代執行」をもって排除される。七〇歳 釜ヶ崎日雇い労働」(花園公園に対する行政代執行当日に配布されたビラ) 前回の「三人論潮」で佐藤零郎が批判した、西成特区構想の一環である新今宮ワンダーランドのサイト冒頭には、「多様性」「包容力」などの言葉を散りばめたコピーが掲げられている。しかし、その言葉にそそのかされて釜ヶ崎やその周辺を歩いたとしても、公園を囲む高いフェンスをいくつも目にすることができるだろう。それは公園で野宿をさせないための、陰湿でジメジメとした行政の処置であり、かつてそこで生活していた者たちを追い出した暴力の痕跡として、現在も続く排除の形として確認できるだろう。冒頭に引用したのは、ある労働者が行政代執行当日にテントが破壊されるさなかにおいても、発し続けた怒りの声である。新今宮ワンダーランドのコピーは、労働者にふるわれる暴力を覆い隠すものであり、その暴力に対する闘争の声を封殺する力とともにうたわれているのだ。 釜ヶ崎の労働者が持つ怒りについて、いくつか実感したことがある。一つは花園公園に対する行政代執行の数日前のことだった。公園を囲むフェンスに鍵をかけようとしていた行政職員に対し、テントの居住者を含めた数名で抗議していると、自転車に乗った男が通りかかり足をとめる。男は抗議する者の一人と一言二言会話したあと、その場にいた誰よりも怒りに満ちた九州訛りの声を職員にぶつけ始める。男はビラに書かれたような状況を、事細かに聞いたわけではない。それでも男の怒りは一気に沸点に達した。このとき私が実感したことは、釜ヶ崎で暮らす労働者たちの、瞬時に誰かの怒りを把握し、自身の持つ怒りとともに共有する力である。またこのような怒りの共有は、違った発露のされ方もする。花園公園のテントが行政代執行によって跡形もなく撤去されたあと、公園の中で、メディアに会見を行う市の担当課長に対して、フェンスの外から抗議を続けているときだった。撤去されたテントの居住者の隣りに小柄な男がやってきて、黙ったまま、しばらく会見に目を向ける。そして抗議を一息つかせたテントの居住者に、小柄な男は「今日寝るとこあんの?」と声をかけた。友人同士に見えたが、初めて会ったらしい。ここでの小柄な男の言葉と新今宮ワンダーランドのコピーとが、その柔和さから一見似ているようでも、後者は言葉によって温もりを演出するのに対して、小柄な男の言葉は、テントの居住者の怒りを共有することから、発せられているのだ。 労働者たちがこの街に大量に寄せ集められたのも、労働環境から街頭へ吐き出されるのも、同じく資本の力による。労働者たちの怒りはその過程で培われ、共有されてきたのだろう。それがこれまでの釜ヶ崎における闘争や、三角公園の炊き出しのような相互扶助的な実践を可能にし、また路上や公園やあいりん総合センターは、その共有が行われた場所なのだ。そしてそこから労働者を追い立てるのもまた、資本の力である。 新今宮ワンダーランドがそれらの場所を紹介するとき、怒りがすっかり浄化されている。一方で前回の連載で佐藤が批判した、新今宮ワンダーランドのPRエッセイ『ティファニーで朝食を。松のやで定食を。』(しまだあや)を読んだとき、一面でより深刻な状態にあるのは、釜ヶ崎以外の労働者なのだと思わざるをえなかった。しまだは、釜ヶ崎でうけた親切等を軸にエッセイを展開するが、ここでなにかを失いつつあるのは著者のしまだ自身だったからだ。しまだは野宿をする「お兄さん」との「デート」の始まりを、次のように書く。「物乞い…? でも100円だけでいいのか……? そもそもこういうときって、どうするのがいいんやろう、と悩んだのもつかの間。そうだ。今こそ、貯まりに貯まった「借り」を相殺していくタイミングなのでは?」。ここでの「借り」とは、前日飲み屋で居合わせた男に二千円おごられたことをさし、「相殺」は、しまだと出会った人との間で交わされる行為を貨幣換算し、収支を均等にすることだ。この後、しまだは「お兄さん」からタバコをねだられた時にも同様の操作を行う。いずれの場面でも、しまだの中で確かに動揺が生じているが、しまだは収支の均等を図ることで安心し、動揺を生じさせたなにかについては決して書かず、消失する。先ほど「なにかを失いつつある」と私が書いた「なにか」とは、ここで消失したもののことだ。この操作を繰り返す限り、しまだが労働者として「お兄さん」と連帯する機会は失われ、二人の間で交わされる行為は、PRとして囲われるだろう。佐藤が、野宿者との差異に対するしまだの鈍感さを批判し、また「PRに従属することのないエッセイになる可能性」を示唆するとき、「心だけでも、お金を貸す側ではなく借りざるをえない側になってエッセイを書き」と心に呼びかけるのは、そのためではないだろうか。 新今宮ワンダーランドが釜ヶ崎の労働者が持つ怒りを浄化し、「多様性と包容力に溢れる街」等々として販売を試みるとき、買い手として見込まれるのは不動産資本等であり、消費者として見込まれるのは労働者だ。新今宮ワンダーランドから得るものがあるとすれば、労働者大衆を消費者大衆としてのみ囲い込もうとすることへの怒りだ。釜ヶ崎から学ぶことは、労働者としての気づきと、怒りを共有することの重要性である。(いたくら・よしゆき=映画監督、ウェブサイト「Nighthawks」運営委員) <週刊読書人2021年6月4日号>