――時代を象徴するフィクション的問題―― 文芸〈1月〉 栗原悠 高瀬隼子「おいしいごはんが食べられますように」、井戸川射子「キャンプ」 今月から本欄を担当することになった。普段は島崎藤村を中心に近代文学を研究しており、編集部から「そうした経験から時評を書かないか」と打診された時には、正直それで成立するのかと頭を抱えた。しかしこれまで自分が研究の縁としてきたのも今日ではほぼ無名な批評子たちの同時代評だった。してみれば、内容はさておき、時評の存在自体にいくらか意味があったはずだ。この先もそのような価値があるのかは甚だ心許ないが、ハードルは下がったので各誌を見ていきたい。 ところで、心許ないと言えば、高瀬隼子「おいしいごはんが食べられますように」(『群像』)の芦川がまさにそんな人物であった。彼女は自身が職務ミスに関わっても取引先への謝罪には同行せず、繁忙期にも片頭痛を理由に一人先に帰ってしまう。職場にとっては何とも頼りない仕事ぶりだ。それでも帰宅後に作った手の込んだスイーツを提供(サーヴイス)して回る健気さによって「許される」者の地位に留まり続ける。その芦川(の提供する食事)に胃の底からムカついているのが、同僚の二谷と押尾である。押尾は最終的に芦川へのある「いじわる」が露見し、職場を放逐されるものの、「許されざる者」たる彼女がその身を以て示す〈脆弱さ〉の圧は、最後の一文まで読者をもたれさせてやまない。視点の切り替わりやケーキを嚥下する際の嫌悪感の描写も小説のテンションに貢献している。同じく『群像』の井戸川射子「キャンプ」では、小学校四年生の少年がおじさんによってキャンプに連行される。これといったスペクタクルはないが、少年と初対面の子供たちとの刹那的で未成な関係が上手く切り取られていた。『文學界』からは、上田岳弘「K」が印象に残った。K、この文学史上最も存在感のある匿名者が今回演じるのは、ウーバーイーツの配達員である。iPhoneに落としたオーディオブックでカフカの「城」を延々とリピートしながら、Kはドアからドアへ加速する弾道のように飛び交っていく。今夏、『東京自転車節』(青柳拓監督)というやはりウーバー配達員の生活を撮ったセルフドキュメンタリーを観たが、「K」といい、ギグワークを突き詰めていった先に没我的な問題が見出されていく点は興味深い。『すばる』では、新年にはおよそ似つかわしくない「呪」特集が目についた。出版社の事情が察せられる企画ではあったが、藤野可織「お祝い」は出産を言祝ぐことの過剰さとグロテスクさを捉えており、年始めの祝祭的空気のオブセッションに馴染めない人間にはこの時期読むのにお誂えの一篇であった。 もう一つ、『新潮』の古川日出男「現代語訳「紫式部日記」」を取り上げておきたい。本作は著者にとって「平家物語」に続く古典現代語訳の試みだが、「女房」をはじめ今日ではあまり耳馴染みのない宮中の職階などを古川流に注釈していくところから複雑な人間関係が立ち上がっていく点を面白く読んだ。ところで今回ふれた小説の多くでは、登場人物たちの関係を指し示す言葉を選ぶのに難儀した。たとえば、「おいしいごはん」の芦川と二谷の関係をさしあたり同僚と書いたが、二人には性的な交渉があり、あまつさえ結婚の言葉もちらつく。しかし、恋人などはどうも適当に思えない。最後に「現代語訳「紫式部日記」」にふれたのは、(取り上げなかった小説も含め)そのような名状し難い、人々の不定形な関係性を描いた諸作と、平安の京における人間関係それ自体を辿り直していく古川の注釈的作業が全く別のアプローチを採りながら、現代の小説的試行として通底していたからである。 さて、小説以外でふれておくべきは先日亡くなった瀬戸内寂聴のことだろう。『群像』、『新潮』、『すばる』、『文學界』の四誌に追悼文が掲載されている。就中、『新潮』の平野啓一郎によるそれは、瀬戸内の社会的な存在感が大きすぎたがゆえに、文学的な価値が適切な文脈のなかで論じられてこなかったことを「文壇史そのもの」の問題だと批判する。実際、これまで文芸誌がどれほど瀬戸内の仕事に向き合ってきたのかを思い返せば、平野の問題提起は当を得たものと言える。 また、『小説トリッパー』の「毒にも薬にもなる小説 『生を祝う』をめぐって」という李琴峰のインタビューにも惹かれた。小説も本インタビューも先に挙げた「お祝い」と響き合っており、併読するのも面白い。普遍的な問題ではありつつ、「親ガチャ」(インタビュー内にも言及あり)といった言葉がにわかに使われ始めた二〇二一年を象徴するフィクション的問題と向き合っている。 最後に藤村の研究者としては尾崎真理子「『万延元年のフットボール』のなかの『夜明け前』」(『群像』)は見逃せなかった。二つの小説はそれぞれ国内で幕末-明治維新期に対する関心が高まった一九二〇年代と六〇年代の末に発表されたが、その著者同士の関係性についてはこれまでほとんど指摘されたことがない。大江健三郎による藤村への言及もないなかで、キーマンとなるのは柳田國男だそうだ。連載ということなので、今後柳田を介してどのような論理によって二つの小説が連接されていくのか鶴首して続稿を待ちたい。★くりはら・ゆたか=早稲田大学国際文学館・助教。博士(文学)。新宿区文化財研究員、新宿区立漱石山房記念館・学芸員等を経て現職。専門は日本の近現代文学。特に島崎藤村を中心とする1920-30年代の文学と社会思想の関係など。 <週刊読書人2022年1月7日号>