この一年、私自身の文章にも「幾多の他の方向に進むべき機会」が確かにあった。分かれ道は二月にやってきた。『スプラヴァ・ロボトニチャ』編集部の論争に触れた時、私はよほど左翼運動紙一般でなく、自分にとっての「労働者通信」に批評対象を限ろうと思った。 たとえば、私は『ホームラン新聞』の思い出を書きたかった。それは母がまだ教師をしていた頃、夕張の子供達が作った古い壁新聞だった。日に焼けた厚手の台紙を彼女がそっと開くと、炭塵がわずかにきらめき、目前でゆるやかに広がって、ちびっ子記者はその向うで父親が無事帰るのを待っていた。彼らが「労働」を言葉にする努力を、十以上年下の私も自然に泳ぎ始めていた。 あるいは、志村五郎が昨春死んだのを遅れて知った時、昔友人と『数学の歩み』のコピーをとったことを私は思い出した。かつて断続的に書きためたあの主題=「谷山豊はなぜ死んだか」。谷山をただ天才扱いする人々が、彼が心血を注いで編集した雑誌を通読する労力さえ払っていないこと、だがそれは確かに労働者のサークル運動の核心にあったこと、おそらく谷山は志村のように生きたくなくて――つまり、一人の「ボロボロ」=「数学労働者」として生きぬくために自殺するほかなかったこと。私はそれらを今度こそ定稿にまとめたかった。それがひそかに、母や友人を記念することでもあった。 * だが迷った末に、結局私は左翼運動紙の批評を選んだ。過去に自閉するのはよくない、と殊勝に考えたのでない。この選択こそが過去への固執だったのだ。もう四十年近く前、内地で生き始めた頃、私は商業紙全般を見限りながら「活字」や「新聞」への渇きを止められなかった。スポーツ紙や競馬/囲碁新聞(将棋新聞はまだ出ていない)に加えて、「総合図書館」の一隅に並ぶ運動紙を片端から読んでいた。その時すぐに気付いたのだ、これら全てに「批評」がないと。どの党派も勝手な自己主張はするが、自分以外の全運動紙を熟読し、互いに紙面を批評しあい、組織をこえた運動のための・・・・・・「ひろば」を創造していない。せめて自紙の範囲で、党員大衆の下からの紙面批評の応酬や論争が続くかと言えば、それさえ殆ど見当たらない。 今回多数の運動紙を通読し、党派にとらわれず各々の記事を比較検討したのは、以上の記憶の促しによるものだ。だがこの選択は――それがもたらす商業紙と別のすえた腐臭は、想像以上に私を暗い気持にした。途中で、『一年有半』の中江兆民は我々よりずっと幸福でおめでたい、とさえ感じた。この書き手が「死刑の宣告」の後でも新聞三紙、特に万朝報を読むのを「日々楽とする所」だと言ったこと、三紙を通じて「世界との交際」を続けるとも言ったこと。それらを強く覚えていたからだ。あれだけ苛烈に藩閥や政党を批評しながら、なぜジャーナリズムに点が甘いか。商業紙/運動紙の如何を問わず、今日無条件で「世界との交際」を保障する新聞がどこにあるか。 だが、それは再び馬鹿の錯覚でしかなかった。自粛の時期に数十年ぶりに同書を読んで、私は自分が何もわかっていないことに改めて気付いた。甘いどころか、中江は究極的に商業紙一般を見限っていた(先月参照)。しかも「暗い気持」に陥ることなく、「兆朕」=いまだ来たらざるものの新たな出現を再三語っていた。『或る女』の葉子が言う通り、それは「痩せ我慢」にすぎないが、他方で胎動の明確な根拠もあった。「人民たる者己れ自らに恃むにあらざれば、復た政事家に恃む所なし」と主張する一群の若い人々=「理想団」の出現がそれなのだ。「即ち自由、平等、博愛その他万国と隔離する所の境界を撤去し、干戈を弭め、(略)土地所有権及び財産世襲権を廃する等の如きも、その講求の中にあるべし、これ大志なり」。 自分を追いぬく彼らの「理義」が、逆に彼ら自身を「縲紲の苦」や「狂漢の匕首」に追いこむことを中江は知っていた。だがこうした革命的闘争を強固に拡大しなければ、我々の政治的自由が永久に「恩賜的」性格を克服できないことをそれ以上に痛切に感じていた。「この地獄外に一線の活路を切り開」く方法は、「理想団」=革命的ジャーナリズムへの自己変革以外にありえない。――その時私は、この数年ルクセンブルクや上田秋成を一緒に読んできた友人達を思い浮べた。今度は彼らの「大志」が知りたい、と心から思った。 * もちろん、今日我々は誰一人中江兆民でなく、幸徳秋水でも内村鑑三でもない。だが「理義」の再創造なくしていかなる「活路」も存在しないこと、この状況だけは少しも変らない。だから私は中江を借りて言う。来年の本欄担当=板倉善之、佐藤零郎、吉田晶子の三氏だけでなく、かつて彼らや私と共同の「仕事」を続けた友人達、これから我々を踏み越え革命的批評の大河を生みだすであろう、未知の世界中の「団員」全てに呼びかける。団員諸君・・・・、請う加餐せよ・・・・・・加餐せよと。加餐は自愛の意味か。だが食いしん坊なら「餐」の字を見逃さない。だから拙訳はこうなる、まずおいしいものを食おう、そして中身のつまった、遠方に届く仕事を続けよう。(かまだ・てつや=批評家。岡山表町在住、江別大麻出身)