――批評をめぐる環境が重要な岐路に―― 文芸〈2月〉 栗原悠 宇佐見りん「くるまの娘」、小山内恵美子「有縁無縁」 前回の時評では、各誌一月号のいくつかの創作を取り上げて既存の言葉には回収しきれない「人々の不定形な関係性」が一つの焦点になっているのではないかと述べた。もちろん、これは当月の創作のみを念頭に書いたのではなかったのだが、『文藝』二月号の特集「母の娘」も、揺曳する「家族」の輪郭線を問い直すという意味ではやはりそうした流れのなかで理解出来る企画だろう。 特集冒頭の水上文「「娘」の時代「成熟と喪失」その後」は、信田さよ子らの見取図に拠って小説のなかの母娘言説史を辿りつつ、女性と母とを分かち難いものと見る斉藤環の宿命論的な母-娘観の更新可能性を探っていく。かような試みにおいて水上が期待を託したのが宇佐見りんのデビュー作「かか」なのだが、その宇佐見は期せずして巻頭に「くるまの娘」を寄せている。本作は敢えて表現すれば変形ヤングケアラー小説とでも言えよう。そもそもヤングケアラーを描いた小説に定形などあるのかと思われるだろうが、そうではなく人の姿勢の話である。小説の主人公・かんこは、突発的に暴力的な態度をとる父と脳梗塞の後遺症を抱えた母と暮らしている。二人の兄弟は別居しているため、両親の重みは必然娘の双肩にのしかかり、かんこはいつも背中を丸めている・・・・・・・・。それは親たちとて同じで、たとえば祖母と折り合えず窮屈に育った父も始終猫背の姿で描かれる(姿勢のよい伯父とは対照的だ)。ゆえにその祖母の葬儀に一家が車中泊の旅に出れば、身体はいつもに増して折り曲がっていくのだが、鮮明な入試の記憶の通り、かんこはそれが両親を抱き止めるポーズでもあるとはっきり自覚していた。一家のドライヴはだからあり得たかも知れない理想の家族フアミリー・ロマンスを夢想することはせず、地獄と紙一重の現実を直進していく。 一方、小山内恵美子「有縁無縁」(『すばる』)は、「家族」を全く別の角度から描いた小説として読んだ。認知症でグループホームに入居中の義母から位牌を預かった「わたし」が、仏壇の新調を機に顔も名も知らぬ先祖たちに思いをめぐらせていく本作は、「くるまの娘」に比べれば古めかしく見える。しかし希薄化した身体感覚が仏壇という物体にふれることで取り戻されていくさまが丁寧に描写されており、好感が持てる。認知症が進行した義母との結末のやり取りも印象に残った。 やや趣が異なる小説にもふれておこう。沼田真佑「日なた」(『群像』)では、どこまでも纏わりついてくるような情報の「森」を束の間忘れようとする主人公・木山の水辺の逍遥に付き合ううちに読者は神話めいた旅路へと連れ出される。人と人との関係に言葉を尽くす小説が多いなか、独立不覊の創作を貫いている。 また、岡田利規「ブロッコリー・レボリューション」(『新潮』)の試行も面白く読んだ。ここでは、東京を飛び出してバンコクへと向かった「きみ」に差し向けられた「ぼく」の粘着質な語り口のなかから二〇一八年の日本とタイ両国の狂騒が交錯しながら立ち上がってくる。 新連載では『文學界』の柳美里「ダイアモンド・ピジョン」に引き込まれた。『ゴールドラッシュ』の続編として満を持して起稿された本作は、日本で飼鳩が盛んだった一九六八年のとあるレース鳩舎から始まる。鳩レースは競馬と同じく血統のスポーツであるが、第一回から早速、文字通りに血がほとばしっている。当然、戦後の日本のみにとどまる話でもなく、今後どのような広がりを見せるのか想像をかき立てられた。 創作以外では、第五回のすばるクリティーク賞受賞作「90年代サブカルチャーと倫理――村崎百郎論」(鴇田義晴)がまず目に留まった。東京オリンピック開会式における小山田圭吾の楽曲制作辞退騒動の折、炎上の火種となった過去のインタビュー記事発表当時の空気と鬼畜ブームの関係がにわかに話題となっていた。他の候補作との比較は出来ないが、ブームの牽引者たる村崎を論ずることはとりわけ「アクチュアル」な問題として評価されたのだろう。また、個人的には鬼畜ブームをその後の2ちゃんねるなどの露悪的なネットメディアの前史と見る向きを相対化しつつ、むしろ村崎の徹底した物質性へのフェティシズムを強調して切断を図った点などは新鮮に読めた。ところで「すばるクリティーク賞」は、諸事情により今回で休止となるそうだ(長く続いた群像新人評論賞も昨夏休止が決まったばかりだ)。選考座談会でも批評家の登竜門的な制度が失われることへの懸念が述べられていたが、他方で近年の同人誌界隈では敢えて言えば創作よりも批評の方が活況にさえ見える。制度は制度で墨守すべきか、自生的なコミュニティに任せるべきかの単純な問題ではないが、批評をめぐる環境が重要な岐路に差し掛かっているように感じた。 最後に大山顕「コロナと顔をめぐる写真論」(『群像』)も挙げておきたい。コロナによって見出された顔を晒す/隠す権利について思考をめぐらせる本論からは、言語芸術たる小説が「現代」を表徴するためにマスク姿の人々をあまりに無防備・・・・に登場させている現況を、一歩引いて考えるヒントをもらった。(くりはら・ゆたか=早稲田大学国際文学館助教・日本文学) <週刊読書人2022年2月4日号>