――〈私〉が担う負荷ゆえに固有の倫理を帯びる―― 文芸〈7月〉 川口好美 山本貴光「乗代雄介「旅する練習」論」、住本麻子「富岡多惠子論」 「群像新人評論賞」が「いったん休止」(「編集後記」)されるそうだ。二十年前に文芸批評家・井口時男が指摘した「文芸批評が批評一般へと解消され、批評が知的言説一般へと解消されかかっている」という状態の順当な帰結である。モニュメンタルな出来事なので今回ばかりは批評に多くを割いても許されるはずだ。そもそも批評って?という方は今引いた『批評の誕生/批評の死』の終章「結 文芸批評という隘路」を読まれるとよい。自らの肝に銘じるつもりでそこからモノ深い定義を書き写す。「彼[批評家のこと――引用者]の仕事はただ謎を解くことではない。彼の仕事には、謎を解くことの喜びとともに、謎を生きることの喜びが息づいていなければならない。そして、彼の仕事が本物なら、その謎は彼自身の「宿命」という謎に通底しているだろう。/現代は「わかりたい」という欲望だけが氾濫している。しかし、「宿命」と切り離されたこの欲望はただの「ヴァニティ」(中原中也)である。知的向上心や知的虚栄心である。そんなものは知性でもないし批評でもない」。「宿命」を〈私〉と言い換えてもよい。文芸批評は〈私〉が担う負荷ゆえに学術的な制度や普遍真理とは馴染まないが、だからこそ固有の倫理を帯びる……。こんなまっとうなモノ言いさえ虚ろに響く空気にわれわれ文芸批評愛好者は取り巻かれているが、それでも批評の営みは暗渠のように流れ続ける。じじつ『群像』は批評特集を組んでいる。気づいたことを記しておきたい。 特集劈頭の一篇、山本貴光「認識と情緒のあいだで 乗代雄介「旅する練習」論」。「(……)完成された作物から、それがいかなる設計や機構によってある効果をもたらすかを分析する」という機能的な文章に〈私〉の体臭は皆無である。こうした方向に批評の活路を探るのも一興だろう。ただ気になるのは〈私〉を脱臭して分析機械になりおおせるために山本が「だからどうしたと言われたらそれまでだが」とか「なにもここから教訓めいたことを引きだそうというのではない」のごとき留保を多量に必要とした事実であり、かえってそこに〈私〉ならざる、小心にちぢかんだ〝私〟が透けて見える事実である。もう一点。原文九七ページを引用した上で「「私」しか見なかったことを書き残す。どうしたら、練習の旅の様子をよりよい形で書き残せるか。彼はそのように考えているはずである。そうでなければ、彼が言うように「あらゆる意味で無垢で迷信深いお喋りな人間たち」のように書けばよいのだから」と論じるくだり、〈認識的な書くこと〉/〈情緒的な喋ること(のように書くこと)〉という二項を立てて語り手の「前者に重きを置く姿勢」を強調する箇所は山本の牽強、曲解である。「旅する練習」の「書くことについての意識」はさほど単純ではない。語り手はそういう「人間たち」が「必要」だとはっきり言っており、理由は山本が引いた段落の前の段落に柳田國男の逸話に拠って書かれている。これも持論に固執する〝私〟のヴァニティゆえだろうか。たいして「旅する練習」の作者乗代雄介の批評文「掠れうる星たちの実験」はサリンジャーおよび柳田の「宿命」の核心に大胆かつ繊細に肉薄した、論じ手の〈私〉の感触がこもるブリリアントなものだった。文芸批評の愉しさと怖さが集約された、非常に深い皮肉である。 住本麻子「傍観者とサバルタンの漫才 富岡多惠子論」についても一言だけ。加藤典洋が富岡の『波うつ土地』を取り上げたのは『成熟と喪失』を読む線上でであり、その意味で「『成熟と喪失』のパラダイム」の上にあった。が、加藤は〈自然=女性の崩壊〉という江藤淳の思考の枠を踏み破って「僕たちがそうであるべき自然・・・・・・・・・・・・・」を露出しようとしたのであり、それに触れないで加藤を江藤的パラダイムによる『波うつ土地』解釈の「代表的な例」として挙げ「家父長制の立て直しを望んでいるかのよう」な「保守派的な解釈」と一直線に結ぶのは、加藤がそういう安直さと無縁であることが周知の事実だとしても不当である。批評から公正の感覚が見失われるのは一愛好者としていたたまれない。 申し訳ないが小説は駆け足で。山野辺太郎「恐竜時代が終わらない」(『文學界』)は人間/他の生命(恐竜!)、喰う/喰われる、生/死、愛/憎、等の境界を揺さぶり、今ここに在ることの〝業〟を明らめ=諦めている。「オーラルヒストリー学会」なる謎の組織に乞われてたった五人の聴衆に向けて語るという設定が活かされなかったのがもったいない。天埜裕文「無風」(『すばる』)は、アルバイト先の後輩、麗珍との交際を機に主人公の日本人としてのナショナル・アイデンティティが問われるという話で、不穏な気配に惹かれて読んだ。お盆・日の丸・八月十五日・学生運動といった象徴的な事物が文学的韜晦を突き破るリアルさを帯びるまでには至らず、ある種の定型にとどまったのが惜しい。(かわぐち・よしみ=文芸批評) <週刊読書人2021年7月9日号>