――荒唐無稽な現在を刺し貫く批判的な潜勢力―― 文芸〈12月〉 川口好美 渡辺健一郎「演劇教育の時代」、鴻池留衣「フェミニストのままじゃいられない」 「教育における上演性」を理論的かつ実践的に思考した評論文、渡辺健一郎「演劇教育の時代」(『群像』新人評論賞受賞作)。演劇/教育/遊びといった〝演技〟的行為は〈中動態〉(國分功一郎)という考え方と「相性が良い」、そこには個人の自律的意志に収まらない外部――台本や他の演技者や観衆といった――に触発される側面が抜きがたくあるから……。この常識を踏まえて渡辺は「複数の人たちによる遊び」に顕現する「厄介」なもの、「演劇と政治の問題」に切り込む。もしもある種の現実が〈中動態〉的であるならば、個人の責任をどう考えればよいのか、そもそも個人とはなにか、という難問である。「中動態に焦点を当てるだけでは・・・・・・・・・・・・・・、政治の問題を考えることができないのではないか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。従属主体や能動的主体とは異なる、いかなる主体化を考えることができるか――結局はここが問題になりそうです」(傍点原文)。そこで俎上に乗せられるのがハイデガーのナチ加担にたいするラクー=ラバルトの批判、「ファシズムに抗う「演劇性」」という問題設定である。 渡辺の問いに大きくうなずきつつ、以下恥ずかしながら、論考が全面的に依拠するラクー=ラバルトの著作を未読のままつづける。論者は問題の所在をつぎのように指さす。ハイデガーが陥った「全体主義」は「ドイツという固有性」を獲得するために「ギリシャ人も自覚していなかった「ギリシャ」を模倣する」、言い換えれば可能性としての「ギリシャ」を「発明する」という不可能な要請に対応するものだった。したがって、しょせん模倣・フェイクでしかない自己を回避し、模倣対象である他者(ギリシャ)を内面化してオリジナルな自己(ドイツ国家、ゲルマン民族)を想像=創造したことが、そこにおける「演劇的ミメーシスの隠蔽・・・・・・・・・・・」こそが錯誤のおおもとにあった、と。そして、それに批判的に対置されるのが「非固有性という固有性」なる「矛盾を矛盾のままに保っている存在」、「絶対的な無根拠を根拠・・・・・・」とするパラドックスを演じ切る「俳優」という存在様態である。――「徹底して俳優であること。無根拠を徹底すること。そして何でもありうる――偶有的であるという意味での固有性を思考すること。現代に可能な「主体」を考えるための鍵が、ここにある」。 ふたたび首肯しつつも、素朴なギモンが喉に刺さった小骨のように疼く。――その「俳優」=「主体」はおのれの行為の責任についてなにを思考し語るのだろうか。言い換えれば〈中動態〉的ありようからは届かない「政治の問題・・・・・」に「俳優」がどんなふうに触れうると、論者は考えるのか、わたしには摑みかねた。「上演が上演である限り、陶酔はその場で終わる――破局に至る前に。ハイデガーが忘却したのは、このような意味での上演性だったと言えるかもしれません」。たしかに、自らの「無根拠」を冷静に見据える知性にとって「陶酔」は一時的であり「破局」は回避可能かもしれない。しかし、もしもハイデガーがそんなことは承知で「俳優」としてあることをかえって無責任な居直りとみなし、自己の力で自己を創出しうると信じないかぎり暗愚にまみれた悲惨な現実の中で責任に到達することはできないと考えたのだとしたら、どうだろう。冷徹な思索ほどそういう危険と無縁ではいられないということ、そこに歴史のおそろしさがあるのだとしたら、どうだろう。あるいは、そもそも、「主体」が言葉の真の意味での「破局」の〝後〟にようやくかろうじて触知されるものなのだとしたら、どうだろう。こう書きながら、まなうらに小林秀雄や保田與重郎の戦中の文の不思議なすがたが去来する。教室にしろ劇場にしろ、自己の暴力性などいかようにもキャンセル可能だと思い上がった知性が拵え上げる空間ほど空虚なものはない。 繰り返すが、わたしは渡辺のいう「俳優」を具体的に理解しておらず――それがどの点で〈中動態〉的なものと連続し、どの点で切断するのか、それすらよくわからなかった――、以上は批判の何歩も手前の感想にすぎない。「現代に可能な「主体」」についてわたしは自分でも学びたいし、また論者から教えてもらいたいと思う。 他の作品について一言だけ。鴻池留衣「フェミニストのままじゃいられない」(『文學界』)を面白く読んだ。俳優である夛田=マサキが舞台上で強いられる奇妙な孤独には、汎演劇的に荒唐無稽な現在を刺し貫く批判的な潜勢力が秘められているだろう。それがなんであるか、言葉にするのは難しい。しかし読後、作者の肉体的な直覚は確実に読者に転移している。そういう面白さである。渡辺の演劇教育論とも交錯するはずだ。 (わたしが担当する時評はこれでおしまいである)(かわぐち・よしみ=文芸批評) <週刊読書人2021年12月3日号>