――身体とエネルギーと圧力と―― 文芸〈3月〉 栗原悠 砂川文次「99のブループリント」、石田夏穂「ケチる貴方」 小説を読むにあたって当該の作が何らかの文学賞を獲ったかどうかの事実は、個人としてはおよそどうでもいいことだ。一方、この「文芸」欄は商業文芸誌のエコシステムのなかに成立しており、敢えてそうした点を無視するのも不自然ではあろう。それゆえ、(言い訳がましいが)今月はまず砂川文次の芥川賞受賞後第一作「99のブループリント」(『文學界』)を取り上げておきたい。 やや乱暴にまとめるならば、これまでの砂川の小説は、戦場や獄中など(多分、ほとんどの人にとっては)特殊な状況を設定しつつ、普遍的な実存の問題を描いてきた。今作でもそうした特性は健在で、冒頭から時価二億円に迫る「十五キロ」の圧倒的な質量感を放つ金塊がアンドウなる人物の所与の資産として示されると同時に、そこから『存在と時間』よろしく思弁的(スペキユレイテイヴ)な語りが繰り広げられていく。何とも引き込まれる書き出しだが、この小説のユニークさは、世間の動向などには目もくれず、質量を伴わないチャートをひたすら読み解き、日夜ポートフォリオの組み替えに腐心する投機的(スペキユレイテイヴ)な人物にクロース・アップした点にこそある。おそらくバブル期に生まれ、経済が停滞した日本社会に投げ出されたことを早く自覚していたアンドウは、ただ一つ自身が価値を見出すFIRE計画に投企し、「勢いさえあれば、実体なんて関係ない」という境地に辿り着く。そうした価値観から他人へのケアなぞ眼中にないとでも言いたげに親子、恋人との結婚、子育てといった人間関係の重みをスピーディーに切り捨てていく(=解き放たれていく)彼のスタンスは昨今の小説界では特異にも映るだろう(同じ誌面には今回もまた「〝ケア〟をめぐって」といった特集が組まれている)。しかしアンドウ自身が認(したた)めている作中作の『億り人の手引き』が標すように、徹底的に軽さを追い求めていった先に開けてくるのは、生の時間感覚さえも曖昧になった世界だ。 一方、石田夏穂「ケチる貴方」(『群像』)は、「我が友、スミス」に続く身体とエネルギーをモチーフとした小説と言えよう。「まさかり担いだ金太郎」のごとき体型の「私」は、低体温のために人並み外れた冷えに悩まされてきた。エネルギーの放出を抑えるかのように勤務先でも不親切・無愛想に振る舞っていた彼女だが、自分のもとについた二人の新入社員へ思いがけず「寛容」な態度を見せた際に体温の上昇を実感する。同様の経験を繰り返すうち、この法則に従って念願の温かな身体を手に入れるものの、その熱が周囲の心をも溶かしていった結果、彼らの「私」に対する眼差しは愛嬌ある女子社員へのそれに変わっていく。細部のユーモアに口元が緩んだのも一度でなかった一方、馴れ馴れしくなった上司に押し付けられた土産の赤福を、「私」が一つひとつ丁寧に配って回る描写のグロテスクさには笑いが引き攣った。考えてみれば、周囲の人間に対する感情的なサーヴィスはたしかにエネルギーと圧力の問題なのだが、「私」と重ね見られる会社の備蓄用タンクの描写も無理なく小説に馴染んでおり、書き手のそれとない技術の高さを感じさせる。 小説と併せて石田と岸本佐知子の対談「ディティールに宿る小説の魅力」(『すばる』)を面白く読んだ。ボディ・ビルディング大会への出場を目指す女性が登場する前作(上掲)がもっぱら話題の中心だが、ジェンダーやルッキズムなど「ケチる貴方」と共通するテーマも多く指摘されている。 さて、今月は砂川、石田の二小説に惹きつけられ、言及対象が少なくなってしまった。しかし、最後に仕事柄どうしても気になった遠藤周作の「善人たち」(『新潮』)にふれておきたい。これは長崎市遠藤周作文学館の寄託資料調査のなかで見つかった未発表の戯曲の一つである。資料に関する詳細な情報は加藤宗哉の解説が併載されており、昨年末に新聞各紙でも報道されていたのでそれらの記述に譲るとして、ここでは内容を少し紹介しておく。 第一幕は、ある南太平洋の島の洞窟で従軍牧師トマス(トム)・ロジャースがかつて自分の教会があるオールバニに神学生として留学してきたアソ(阿曽)・コウキチなる日本兵に投降を呼びかけている場面から始まる。しかし阿曽は一向に姿を現さず、返事もないままに舞台は早々と日米関係が急速に冷え込んでいった一九三九年のロジャース家を中心とする回想の第二幕へと切り替わってしまう。ここでのトムは、信仰心ゆえに他人に共感出来ない面も持つ人物として描かれる。そうした姿勢が阿曽の運命にも決定的な影響を与えていくのだが、かような宗教的人間の弱さこそ遠藤文学を貫くテーマであることは今更強調するまでもない。ただ、三〇-四〇年代のアメリカの都市を舞台に設定したこの戯曲では、日系人の警官や親の代からロジャース家に仕える黒人の使用人などが登場し、それぞれの宗教観、国家観、人種意識などが複雑に交錯していく。既知の創作などにはあまり見られないそうした一面は、新資料発見の醍醐味でもあり、遠藤文学再考の一助ともなり得る。日々更新され続ける研究動向から目が離せない。(くりはら・ゆたか=早稲田大学国際文学館助教・日本文学) <週刊読書人2022年3月4日号>