――複雑で豊かな「先」を、想像=創造する自由―― 文芸〈5月〉 川口好美 松波太郎「王国の行方・二代目の手腕」、藤代泉「ミズナラの森の学校」 「生理的なメカニズムがわかっていないから介入がなされないということは、それがわかれば身体への直接的な介入に道を開くことにもなるし(……)」(立岩真也『自閉症連続体の時代』)。どんな〝病〟であれ、それを〝わかる〟ことが健常と異常の暴力的な線引きに帰結してしまうかもしれない。生命現象が境界の不確かなスペクトラム=連続体であることが忘れられ、少数者を多数者に隷属させ、果ては「全面的で乱暴な人間の改変策」にまで至るかもしれない。こうした危惧は今では常識だろう。そして〝言葉〟もまたスペクトラムであるがゆえに、けして一部の〝理性的人間〟の専有物ではありえない。文学はこの事実を執拗に指差し続けてきたはずだ。 以前本欄に記したとおりわたしは松波太郎氏「カルチャーセンター」の〈オブセッションとしての小説〉という力点から新鮮な驚きを受けた。おそらくその淵源には右の意味での言葉への粘り強い感受性がある。「王国の行方・二代目の手腕」(『群像』)を読んでそう感じた。語り手(と一応言っておく)である猫木にはダウン症の息子がいる。日頃息子の言語訓練に付き添っている猫木は、社会が与える言葉に疑問を抱いている。お金を払ってまでそれを息子に教え込んでいるが、ならば息子の身体が発するたどたどしい音の連なりは言葉でないのか、と。もちろん社会=理性の言葉を批判し連続体としての言葉の存在を認識することと、それを真に身に帯びることは異なる。両者のあいだにはふつうの意味の批判によっては越えがたいギャップがあるが、それを跨ぎ越えること。氏はそれをミッションとして為そうとしているようだ。いかにして。理性の言葉、社会の言葉に徹頭徹尾規定されたこの場所に内在しながら、そこに生じるちょっとした摩擦や躓き、「障がい」の気配を聴き取り、それを「門」とすることで連続体としての言葉をこの現実に流れ込ませるのだ。理性の言葉に連続体としての言葉が取って代わることはないが、しかし両者のあいだにはかつてない緊張関係が生じている。この緊張が世界の複数性に耳を澄ませるようわたしに促す。氏は、ダウン症の〝ダウン〟は下がるや落ちるや気を失うという意味ではないと断った上で書いている――「症例を最初に発表した医師の名前をとっているだけであることから先は、まだまだ伝えられそうにないが……」。もっと複雑で豊かな「先」がある。それを想像=創造する自由がある。前作につづき、よい小説を読んだ。 藤代泉「姫沙羅」(『群像』)は沈黙・失語=言葉がないことの意味を言葉によって捕らまえようとする試みであり、松波作に通じるところがある。藤代氏の、事物の民俗学的な象徴性の利用の仕方、エピソードを配置する手際は見事でいちいち納得しながら読み進めたが、大事な核心のところでそのわかりよさ、手際よさに寄りかかりすぎていると思えた。破れや不体裁をおそれず、いわゆる〈小説〉のイメージにたよらず、言葉のことは最終的には言葉だけで書き切ってほしい。つまり松波氏の突き詰め方を小説としてわたしは好む。その意味では、同じ作者の同様に精緻で周到な作品「ミズナラの森の学校」(『文藝』)は印象に残った。オイディプスやシェイクスピア以来の古くさい話題だが、言葉には予言・呪いの力が宿る。たんなる饒舌や沈黙の底を踏み破って根源的な言葉の威力を解き放ち氾濫させ、ネガティブなそれをポジティブに反転させること――本作のヤマ場、数の子という登場人物がピアノを弾く場面にはそんな不遜な意思が脈打っており、圧巻だった。その後に訪れる静けさには「姫沙羅」の場合とは違って作為的でない、リアルな手触りがあった。 本欄がことあるごとに召喚する室井光広氏の著書によると〈道化〉を意味する英語anticは〈古風な〉を意味するantiqueと語源的に重なるそうだ。金子薫「道化むさぼる揚羽の夢の」(『新潮』)は〝道化としてなら生きられる〟実存の極北――それは文学にとってアンティークであるにもかかわらずつねに新しい問題である――を圧倒的な構想力で描き切った力作である。本作の道化も例にもれず、世界の空虚さを言葉で刺し貫き、転覆させる異能を有する。ただ結末は美的な方向に流れすぎ、道化の言葉にたいする唯物論的姿勢が行方不明になってしまったのが残念である。〝ダウン〟が下降から上昇に転じる奇妙で奇跡的なアベコベ劇、松波作に刻印されたそんな「先」の可能性は、この結末からは感じられなかった。 児玉雨子「凸撃」(『文藝』)は前作「誰にも奪われたくない」の姉妹篇。その前作についてわたしは批判めいたことを書いたのだが、本作を読んで自問した。本作の至る所に走るノイズは前作にも走っていたはずだが、それを自分は全然読めていなかったのではないか、と。しかし紙幅である。場所をあらためて考えてみたいと思う。(かわぐち・よしみ=文芸批評) <週刊読書人2021年5月14日号>