―『かけはし』の沖縄報告について(続き) (前回の続き) 要するに『かけはし』の「沖縄報告」は、かつて花田清輝が若い女性労働者の発語に対したのと同じ仕方で(七月参照)、「韓国基地平和ネットワーク」のゲストの言葉をとらえている。記事の書き手K・Sは、いまだ来たらざる何ごとかの出現をシン・ジェウクの発言に直観し、その予感を既得の常識と衝突する「共通感覚」たらしめようとしている。私にはそう思われた。 以上はあるいは錯覚かもしれない。左翼の運動紙を今こそ徹底的に内部批評しよう、そう決めてはみたものの、想定外・の低調と拙劣に疲れて(全くもって、何度その頼りなさに悔しい紅・涙をしぼったことか)、私は片言隻句に過剰な意味付与をしているかもしれない。だが、この疑問を反証する事実が一つある。それは、K・Sの記事にぶつかる以前に、集めた限りの他の運動紙のバックナンバーで、同じ大会の報道に何度か接していたことだ。この県民大会が[一九年]五月一九日に開催されたことも、一人の韓国人青年がそこで発言したことも、私はすでに覚えていた。だが『かけはし』と違って、それらの「資料読み」の時点で記事に躓き、あれこれ考えさせられたりしなかった。改めて各紙を再読し、当該個所を比較対照する必要が生じていた。 * 確認すれば、シン・ジェウクの発言を記事にした運動紙自体が決して多くない。たとえば、『人民新聞』や『思想運動』には元々この大会の記事がない。中核派はこの時期に沖縄で大規模な大衆行動を展開したが、『前進』は同じ大会についてなぜか数行の紙面しか費さず(五月二七日、三〇三八号四面)、革共同再建協議会の『未来』にも、例によって「杉山」の「書いてみただけ」の記事が数行しかない(六月六日、二七一号一面。以上二紙については六月参照)。ついでに言えば、『赤旗』は参院選を控えたこの時期、オール沖縄の選挙区予定候補(高良鉄美)の選挙活動を精力的に取材しており(たとえば、陣営が五月二〇日に那覇市で事務所開きをしたことを、二二日の四面で大きく伝えている)、高良が一九日の大会に出席したことも他の運動紙によって明らかだが、その模様については一切記事を掲載していない。『社会新報』はこれと対照的に、大会自体は数枚の写真付きで大きくとりあげている(五月二九日、五〇三三号一面)。だがやはり、当日出席した社民党比例代表予定候補(仲村未央)の出発集会での発言に焦点を当てたためか、一応「韓国基地平和ネットワーク」の紹介はしていても、肝心のゲストの発言を採録する紙面を確保できていない。 もちろん、「紙面も予算も取材者も足りない」「選挙が近いから仕方ない」等、各紙に無数の言い訳が可能だろう。左翼諸党派の対立の実態に疎いので、こちらの知らない下らない黙約――ある党派がある集会に参加しそれを取材する場合、別の党派は極力そこへの参加や取材をしないようにする(?)、等の習俗があるかもしれない。だが、あくまで記事内容に限って私見を書けば、解放派(赤砦社派)『解放』・革マル派『解放』・共産主義者同盟(統一委員会)『戦旗』の三紙が以上の無視無関心と手を切って、とにもかくにも「韓国基地平和ネットワーク」のゲストの発言を掲載した判断は貴重で正当なものだ。どれだけ口先でインターナショナリズムを言おうが、こうした発言を進んで掲載する紙上の実践がなければ、結局それらは空文句に終る。新基地建設反対闘争がただの国内問題でありえないこと、逆に事柄を「国内」に還元し、それを通じて半永久的に沖縄を孤立させ基地を固定化したい連中の増長を破壊するために、我々自身の「人民」への絶えざる成長が不可欠であること、だからこそ国境を越え、国籍にとらわれない民衆同士の相互協力の広がりについて、これを最も優先的に報道すべきこと。左翼の当然の義務だとしても、この三紙は確かにそれを実行してみせた。 にもかかわらず、まさにそのインターナショナリズムを実質ある武器にする上で――我々が逃げずにかつて加担した「過去」に踏みこみ、それを克服する中身のつまった武器に変える上で、この三紙には共通する欠陥がある、と私は思う。具体的に、先月引いた『かけはし』の記事①と、以下の引用②③④を比べてほしい(発行日順)。②解放派(赤砦社派)『解放』(一九年五月三〇日、一三一一号一面) 「海外ゲスト」として登壇した「韓国基地平和ネットワーク」のシン・ジェウク氏は、「辺野古、普天間、嘉手納を巡った。悲惨な状態で死んでいかねばならなった[ママ]人のことを考え、戦争の痛みが今も残っていることを感じ、最後まで闘おうとしている皆さんの姿を目にした。皆さんと一緒に平和の道を歩んでいく」と発言し、最後に、韓国の闘争現場で行なっている「米軍がいなくなってこそ平和が来る」という意味のシュプレヒコールを行なって、会場全体に紹介した。③革マル派『解放』(六月三日、二五七一号三面) 韓国から平和行進に参加した韓国基地平和ネットワークの代表が登壇し、「戦跡と米軍基地を見て、戦争の痛みが今も残っていることを感じた」「みなさんと一緒に平和の道を歩んでいく」と決意を述べ、韓国からの参加者とともに韓国語で「米軍がいなくなってこそ平和がくる!」とスローガンを唱和した。④共産主義者同盟(統一委員会)『戦旗』(六月五日、一五四九号六面) 平和行進に参加した韓国基地平和ネットワークのシン・ジェウク氏が歴史を継承し共に平和の道を歩んで行こう、と連帯発言をおこなった。 これらはいずれも、発言者の言葉をあまりにわかりやすく・・・・・・・・・・まとめている。その過度のわかりやすさが表現の圭角全てを微温化し、後者が生む力や奥行きまでもそぎ落としている。別言すれば、三紙はシン・ジェウクの発言の中で、殆ど彼の結論=「皆さんと一緒に平和の道を歩んでいく」しか必要としていない。細かく見れば、②には「悲惨な状態で死んでいかねばならなかった人のことを考え」以下の、③には「戦争の痛みが今も残っていることを感じた」の前段があるが、議論の展開がなめらかで平板なために、この結論を生みながらそれに還元できない言葉の剰余がみえてこないのだ。 だが、結論に至る試行錯誤のプロセスは結論以上に重要かもしれない。その試行錯誤こそが土台となって、当の結論をより深い場所で強固に支えて行くのかもしれない。その逆に、政治上運動上の結論に直ちに飛び付くことで、それを生みだす豊富で汲みつくしえない源泉を我々はせき止め、大切な結論まで小さく枯渇させてしまうかもしれない。 『解放』二紙や『戦旗』が、というより左翼運動紙の編集部全てが、これらをどこまで意識しているかはわからない。運動をやる以上結論以外どうでもいい、そう考えて済ますなら我々は皆地獄に落ちるほかない。――だが推測すれば、当日のシン・ジェウクの発言は②③④と違って少しもなめらかでなかった。おそらく、そこには多数の口ごもりとわかりにくい議論の渋滞があり、言葉にできたものを圧倒し脅かす「言葉にできないもの」の熱塊と、だがそれをも必ず「言葉」にせずにいない強固な意志、この二つの絶えざる衝突があったはずだ。十分な長さでないにせよ、『かけはし』K・Sの「沖縄報告」が書きとめた数行の記述こそそれなのだ。「歴史が刻まれた場所を歩くことは過去の歴史を心に留めることだ。長い足跡の一番後ろに私たちは立っており、どのように歩いていくかを知っている」。 * 彼はみかけ上唐突に「歴史」を問うている。みえる現在とみえない過去を重ね合わせて、一人一人を「長い足跡の一番後ろ」に立たせようとしている。だがその時、他の三紙で決して届かない微光が我々の足元にさしこんで、周囲の言葉のニュアンスをも変えていく。たとえば、この直前で「戦争の傷跡が残る場所を歩いた」と語る時、おそらくそれは沖縄戦で多数の生命が奪われた、という意味にとどまるのでない。「傷跡」とは、たとえば日本の軍隊が一万余名の朝鮮人「軍夫」を沖縄に強制連行し、彼らに最も苛酷な労働と最も粗末な食事を与えて悲惨な飢餓を強いたことだ。その「軍夫」達が脱出を試みた時、彼らを監視し密告して処刑に追いやったのが他ならぬ沖縄の人々自身でもあること、彼らが虐殺され戦死した後でさえ、沖縄や本土の人々と違って殆ど実名を特定されず、今なおその死を「なかったこと」にされかけていること――以上の列挙が、ごくわずかな一端にすぎない事実全てのことだ。だが、この苦しい「歴史」=「傷跡」を避けずにそこから新たな運動を作り直す時、我々のインターナショナリズムは初めてきれいごとであるのをやめる。それは、ルクセンブルクの言う誰にも・・・「特別な片隅・・・・・」を設けない・・・・・強度を獲得するかにみえる。(かまだ・てつや=批評家、岡山表町在住)