――その名前について―― 三人論潮〈3月〉 板倉善之 「二〇二〇年、大阪府八尾市で生活に困窮していた母親と長男が自宅で死亡し、弁護士らが市の対応について第三者による検証などを求めました。 要望書を提出したのは、弁護士や大学教授らでつくる「八尾市母子餓死事件調査団」です。二〇二〇年二月、市内の集合住宅で、母親(当時五四)と長男(当時二四)が死亡しているのが見つかりました。部屋の水道とガスは止まっていました。要望書では、市が母親の生活保護しか支給せず、母親が死亡する直前、生活保護を受け取りに来なかったのに安否確認を怠ったと指摘し、第三者による検証などを求めています。」(ABCニュース 関西ニュース 二〇二一年二月十六日) 一緒に穴を掘りたい! 長居公園のテント村に対する「行政代執行が直前に迫ったある日、空いたテント小屋の一つの地面の土をシャベルで掘り」トイレを作ったという、前回の本連載に書かれた佐藤零郎の経験を読んで、私はそう強く思った。そこには結語での「敵対するものに許可をされて用をたすことにならないような」というやや消極的な表現にはおさまらない、自分たちで創造する楽しみがあると感じるからだ。 佐藤は結末でまた長居公園に関わる別の経験を書き、次のように締めくくっている。「テント小屋の立ち退きに反対していた時は元気だったがテントが潰され、生活保護を受けてちりちりバラバラになってしまったあと誰にも知られずに腐乱した死体となった元テント村住人の知らせを聞いたことがある。闘争が日常に食い込むことが、その人を孤立させずに、他の人との関係をつないでいたのではないだろうか。敵対するものに許可をされて用をたすことにならないような木でできた便座のトイレと、お互いの安否を気遣うことができ、自然と会話が弾むようなどっしりとした木のテーブルがわたしたちには必要なのだ」。何度か読むうち、ここに疑問が生じた。生活保護を受けた元テント村住人が腐乱した死体となったことを振り返るとき、「テント小屋の立ち退きに反対していた時は元気」で「その人を孤立させずに、他の人との関係をつないでいたのではないだろうか」と回想するだけではない、なにかしらの感情や考えが佐藤を捕えなかっただろうか。「元テント村住人」や「他の人」という言葉が、佐藤と回想の中の者たちとの関係を慎重に辿り返しながら選択されたように思えたからだ。 冒頭の記事が伝えるように、市が「母親の生活保護しか支給せず」「安否確認を怠った」ことを追及し、その改善を求めることは、この母子のような死を目の当たりにしてとれる行動の一つであると思う。就労支援などの事業がそれを補完するだろうし、「安否を気遣うことができ、自然と会話が弾むテーブル」もそこに差し出されるかもしれない。しかしこれらに自足しては、人を生活保護へと、またそれを受給するしないに関わらず、人を無惨な死へと追い立てるもの、それ自体は温存され続ける。やはりテーブルやそれを置く場所は私たちで創らねばならない。 佐藤の結末の文章にこだわるのは、そこにテーブルを「どっしりと」できるかどうか、テントが潰されテーブルが砕かれたとしても、もう一度それらの場を創り始めることができるかどうかの問題があるからだ。 こう書きながら、私は昨年死んだ者のことを考えている。私が七年前から参加している釜ヶ崎の三角公園で炊き出しをする者で、釜ヶ崎に来てからは日雇労働を続け、数年前からは生活保護を受けていた。九〇年代初め、日雇労働者が労働現場から大量に吐き出されたとき、飯を食いつなぐために始められた、その炊き出しの場にもテーブルがある。長年の使用と風雨にさらされて脚の金属には錆びがはいり、分厚い木材の天板は黒ずんでいる。米を椀に盛り、煮上がった野菜汁をかける、そうして出来上がった丼ぶりを椀から溢れる汁に指を熱されながらテーブル一杯に並べる、というのが主な用途だ。テーブルは大人一人が悠々と横になれる大きさで、炊き出しを始めた者たちによる自作の屋根が覆っている。屋根だけでなく、洗い物をした水がきちんと排水されるように設計された床、炊いた米を容器に移しかえるのに用いる台などもまた自作である。ときには飯をつくるのと並行してこれらの補修や改造をする。材料には火にくべる木材の切れ端を主に活用し、他にブルーシート、家具の一部だった加工された木材、割れたレンガやブロックなど、そこらへんに転がっている物も用途に合えばなんでも使う(ただここ数年は街の清掃事業のため転がっている物が極端に減った)。釘一本打つにも頼りない私と違い、日雇労働で技能を身につけた者たちのしぐさは、体のあらゆる部位が道具をふるうために連携し、ためらいや淀みがない。それを身につけた労働現場が過酷でもあっただろうことを忘れさせる、目を奪われるしぐさなのだ。そうして屋根から雨が漏れば穴を塞ぎ、足の悪い者が段差に蹴つまずけば、そこを平らに近づける。この場所は一気に創り上げられるのではなく、ここに集った者たちによって必要に応じて手が加えられてきて、これからも加えられていく、つねに未完の状態としてこの先へと差し出されている。飯やこの場所を創ることを介して、集まった者たちとの間に関係が張り巡り、「自然と会話」が弾み、誰かが来なければ「安否を気遣」い部屋を訪ねた。「自然と会話」が弾むなか、死んだ者は「自衛隊におったときも飯つくって、釜に来てからも飯つくってる。俺の人生飯つくってばっかりや」と、おどけて自身の人生を要約していた。そして炊き出しに来るのを「やめたい」と何度か言っていた。それもまたおどけたような口ぶりだったが本音でもあったと思う。何十年と炊き出しを続けて年齢も六〇を越え、体力も気力も削られていたのは間違いない。「おうアニキ、あとはまかせた。俺はやめる」、そう言っては次のときには朝一番に準備を始め、死の直前に入院するまで飯をつくり続けた。やめたあとの他の者への気まずさや、味付けを担っていたことの責任感もそれを駆り立てただろうが、なにより飯をつくってもつくっても、それが根本的に必要なくなったと思える日がちっとも訪れないことが、彼に「やめたい」と言わせながら、朝、目覚めさせていたのだと思う。 炊き出しをする幾人かの者たちの尽力で行えた彼の葬儀で、強く惹かれたものがある。葬儀場にひっそりと掲げられた戸籍上の姓は、私たちに伝えていたものと違っていた。それ自体は釜ヶ崎では珍しいことではないが、印象的だったのは、私たちに伝えていた姓が母親の旧姓だったことだ。釜ヶ崎に住む者たちの間には、言わず聞かずとも察するものが互いにあり、あまり過去を話さないし(笑い話はいくつもしてくれる)、あえて尋ねようともしない。「母親の旧姓やったかぁ」、死んだ者と共に日雇労働をし、活動の始まりから炊き出しをしてきた者は、話さなかったことが何だったかの答え合わせをしているようだった。名前を考えるときに手っ取り早かったのか、母親に対する特別な感情があったのかはわからないが、私たちに伝えていた母親の旧姓と戸籍上の姓との相違が、より根源的な孤立があったことの痕跡に思えた。それは次のことへと視線を向けさせる。生まれた環境、生まれた場所、あらゆる偶然が生を翻弄し、それが明暗を分けさせる状況があること。それらへの視線をぶらさず見据えること、それがテーブルをどっしりとさせ、たとえテントが潰されテーブルが砕かれたとしても、また創り始める力の一つになる。 葬儀が終わる。親族に連絡がつかなかった場合、参列した者たちは火葬場へいけず、骨を拾えない。彼は無縁の者として葬られる。遺体をのせた車が火葬場へ走り出すのを生き残った者たちが見送る。生だけでなく死後までも翻弄される。マツモト、そう私たちに伝えていた名前だけが、そこでわずかに抵抗し得ていた。★いたくら・よしゆき=映画監督。ウェブサイト「Nighthawks」運営委員。大阪府在住。一九八一年生。 ≪週刊読書人2021年3月5日号掲載≫