―『かけはし』の沖縄報告について 前回の引用が示す通り、第四インター『青年戦線』の中野新一の「論文」=「ローザ・ルクセンブルクの組織論(1)(2)」は、議論の展開や核心部分の用語選択、付け加えるに参照文献の引用個所の全てで、伊藤成彦の「分権と集権の弁証法」の小ずるい盗用にすぎない。こちらが比較対照した限りで補足すれば、中野の浅知恵は小心かつ現代的(?)で、昭和生まれの物書きが平気で他人を剽窃した場合のような、読者がかえって恥しくなる「露骨な丸写し」と違う。そこには、どうでもいい個所での無数の表現の改変(たとえば「示した」→「明示した」)、特に論点列挙の際の、伊藤論文に比しての改行の多用等、剽窃ばかりかそれをごまかす小細工の痕跡も多数あり、しかも(2)では(1)と比べて緊張が解けたのか、それさえ放棄し「丸写し」に近い状態に落ちて行く。そのあり方が、「頭隠して尻隠さず」を連想させて気の毒になるほどだ。 * だが、この「論文」を偶然WEBで一瞥した時、私が疑問と頼りなさを感じたのは、中野個人の愚行よりも党指導部の編集姿勢の側だった。商業紙の書き手であれば、どれほどあくせく言い訳しようが、当人自身が永久に恥をかくまでだ。だが、第四インターの紙誌については事情が違う。私の知る限り、彼らは(「アジアの連帯」を強調しすぎる理由が不明だが)インターナショナリズムを堅持すると同時に、そうした左翼諸党派の中では、明確にテロルや内ゲバを拒絶し大衆運動主義を選択していた。少くとも、左翼の社畜どもの病的統制主義/排他的規約主義/こせこせした学級委員根性と手を切って、一人一人の活発な批評精神と、創意にみちた作戦計画(大衆ストなど)を重視していたのは確かだろう。この点、ルクセンブルクのレーニン論=『ロシア社会民主党の組織問題』をいかに読むか、この課題は政治上の基本方針に直結する決定的争点である。だが、その要石たる自党の基礎文献の一つが、批評や創造どころか、自分の頭を使った形跡さえない偽物なのだ。 彼らはなぜこの「論文」の連載を容認したか。掲載時点(〇〇年)で「パクリに気付かなかった」「元ネタを知らなかった」等の勉強不足にすぎないものも、二十年放置すれば立派に「指導部の無能ぶり」(ルクセンブルク)の例証になる。私が言うのは、「何もなかったこと」にしてWEBを削除し「論文」を廃棄せよ、という意味でない(それは社畜どものやり口だ)。全く逆に、まず注記を付して盗用の事実を自ら公表し、次にそれも含めてルクセンブルク批評をさらに広範に、徹底的に続けるべきだったのだ。そもそも、そこらの学者を拝跪し、その論文を卑屈にパクる必要自体が少しもない。この党派の活動家の多くは「現場」で行動し、大衆運動の清新で力ある高揚に接すると同時に、何がそれを妨げ濁らせてしまうか。その要因をも体感している人々だろう。その生きた感覚で、素手で『組織問題』を読む時こそ、真に豊かで状況に不可欠な批評運動が出現するだろう。この出現は可能であり、かつ具体的に実行されねばならない。それは特定の組織や書き手の不名誉如何をはるかにこえる、我々自身の運動への忠誠・・・・・・の問題だからだ。 私はこれから、第四インターの『かけはし』を数回に分けて読む。事前に書けば、主に「K・S」の手になる「沖縄報告」に限っても、その精彩と強度は多数の他の運動紙を圧倒している。この党派の下からの担い手達は、未知の言動の出現への感覚を大切に育てており、それは彼ら自身の実践上の卓越をも証明するものだ。にもかかわらず、以上の疑惑と不安がどうしても消えない。「論文」盗用の事後処理など、すれっからしの編集部には笑える瑣末事かもしれないが――かつて女性党員が強烈に内部批判を続け、しかし彼女達自身がそのシングル・イシュー主義のために全体・・を問うに至らなかった、党指導部の現状維持的で反革命的な性格。それは今なお、この党派にしみつきそれを悩ませていないか。 * 昨年(一九年)の五月一九日、「復帰47年」の沖縄で、「平和とくらしを守る県民大会」が炎天下の宜野湾市海浜公園で開かれた。それが当面の「中じきり」としての集会であること(三日間に及んだ平和行進の、集結地点における集会であること)、主催が「5・15実行委員会」と「沖縄平和運動センター」であること、当日は右翼が多数の街宣車と大音響のマイクで陰湿な妨害を続けたが、それに打ち勝ち約二千人もの人々が集会に参加したこと。それらがいくつかの運動紙で報告されていた。だが、あるゲストの発言を『かけはし』で目にした時、そこで止らず機械的に「資料読み」を続けることが私にできなくなった。それは「沖縄報告5月19日」の記事にあり、特に傍点部分がそうだった。①第四インター『かけはし』(一九年五月二七日、二五六八号四面) 韓国訪問団[韓国基地平和ネットワークのこと]はシン・ジェウクさんが「三日間戦争の傷跡が残る場所を歩いた。辺野古、普天間、嘉手納、様々な基地を見た。歴史が刻まれた場所を歩くことは過去の歴史を心に留めることだ。長い足跡の一番後ろに私たちは立っており・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、どのように歩いていくかを知っている・・・・・・・・・・・・・・・・・。皆さんと共に平和の道を進んでいく」と述べた。 ここには使い回しや紋切型でなく、未知の状況を導く萌芽がある。人々が簡潔で圧縮的な表現に一切を投入して状況の改変を願う時、そこに生れるむきだしの言葉、その力のみなぎりがある。少くとも、それは今日の活動家が集会で話す時、ほぼ例外なく陥っていく陳腐な定型と違う。ただ政府を批判し、ただ現在の権力者を大声で糾弾するばかりで、我々の運動における主体的弱点とその打開策をも透明に、声低く語る奥行きを持たない紋切型、参加者がそれを聞いて熱狂し溜飲を下げることはできても、一人一人が胸に手を当て、今必要な実践を落ち着いて再考する促しの強度に乏しい紋切型、その結果、集団の批評精神を麻痺させかえって運動全体の創造性を弱めてしまうのに、それを指摘されると(みんなを元気にするには仕方ない)と他人を口実に居直って、自分の無思想に永久に目を背けられるあの紋切型。この言葉は、それらを質的に断ち切っている。 むしろ、それは「私たち」を熱狂させる代りにわれに返らせる言葉だ。優しく遠慮がちな口調にもかかわらず、「私たち」が不動の基準や常識とみなす価値を鋭く批評し、時に「私たち」のあり方自体を根本的に打ち砕くであろう言葉、だがその浄化の力によって、「私たち」の結び付きをより強固に、より深い「共通感覚」の場所で作り直す言葉なのだ。この韓国人青年の発言だけでなく、それを直観し書きとめたK・Sの記事執筆を含めてそうである。おそらく、発言者がすり切れるほど考えとらわれてきた主題の核心を、書き手は現場で正確に感受し、少ない紙面でその一端を露頭させずにいなかったのである。 「長い足跡の一番後ろに私たちは立っている」。その通りだ、私自身がそのように状況に立ちたい。詳細な説明や分析を付さなくても、この簡潔な表現が今日どれほど的確か、我々はその正当性を痛いほど感じている。だが「私たち」とは誰か。我々が「一番後ろ」に立つのは、いかなる「長い」列のいかなる「足跡」か。それは、ルクセンブルクが死の直前に、息子に戦死された友人に「私は(略)ただ自ら慰めるのみです。私もまたやはり、近いうちにあの世へと急がされるであろう――おそらくは、四方八方から隙をうかがっている反革命の弾丸によって」(アドルフ・ゲック宛)と語りかけた、あの「盲目の運命の支配」下にあることか。あるいは、花田清輝が「わたしには、暴力にたいする暴力のたたかい以外に、それと並行して――あるいはそれの底流として、暴力にたいする非暴力のたたかいが、人眼をかすめて、ずっとたたかい続けられてきたような気がしてならないのだ」(「画人伝」)と書いた、その「非暴力のたたかい」を続けることか。それともより具体的で状況的に、阿波根昌鴻が「生活が第一で、たたかいが二番目と決めていました。同時に、生活を守るためにも、たたかいが一番目でありました」(『米軍と農民』)と考えて始めた――つまり「生活」を自己絶対化せず、それを「たたかい」と統一させることで始めた、「乞食行進」の「長い足跡」に続くことなのか。 色々なことがわからない。それは、「どのように歩いていくかを知っている」の個所にも言える。シン・ジェウクの言葉に接する時、読者はそれに共感し目を開かされる以上に、無数の疑問にとらわれ惑乱してしまう。だがこの時、「革命的ジャーナリズム」の端初も出現していないか。「事実」を伝えることがそのまま「思想」を主張することである文体(二月参照)、報告的文体と批評的文体とを一挙に同時にかねそなえた表現を、我々はようやく発見しつつあるのでないか。(引用②以下もあわせて、この項続く)(かまだ・てつや=批評家、岡山表町在住)