フランスの作家ピエール・クロソウスキーの歿後二〇年、論集『ピエール・クロソウスキーの現在 神学・共同体・イメージ』(大森晋輔氏編、水声社)の刊行を記念して、シンポジウム「歓待・倒錯・共犯性——ピエール・クロソウスキーの思想をめぐって」が五月初旬に開催された。九名の発表者にご寄稿いただいた発表の要旨を公開。(編集部) ≪週刊読書人2021年6月25日号掲載≫ 発表の部 國分功一郎「クロソウスキーと歓待の原理、再び」 千葉文夫「聖女テレサの介入――『バフォメット』再訪」 酒井健「メディアとしてのシミュラークル――バタイユからクロソウスキーへ」 須田永遠「読み手によるコミュニティー――「共犯者」の具体的様相」 兼子正勝「悪はありやなしや」 山内志朗「クロソウスキーとスコラ神学的歓待論――ポルノスコラグラフィーの神学」 森元庸介「予見と行動、あるいはイメージの内乱」 松本潤一郎「二重権力のユートピア――クロソウスキーにおける倒錯としての価値転換」 大森晋輔「クロソウスキーと〈悪循環〉」 「クロソウスキーと歓待の原理、再び」 國分功一郎(東京大学准教授) クロソウスキーの代表作『歓待の掟』は「ナントの勅令破棄」「ロベルトは今夜」「プロンプター」の三つのパートからなる。「ナントの勅令」とはフランス王アンリ4世がナントで発布した有名な「寛容」令であり、「ナントの勅令破棄」はルイ14世によるその破棄を指す。クロソウスキーはなぜ「歓待」をテーマにした作品で「寛容」についての歴史的事実に言及したのだろうか。歓待を寛容から区別するためではないかというのが本発表の仮説である。「他者を受け入れる」という類の説明では両者は混同される他ない。だが寛容が他者の存在にガマンすることを意味するとすれば、歓待とは他者あるいは客を受け入れることで主人が変化し、主人と客が区別できなくなるような状態をもたらすことである。「ロベルトは今夜」の冒頭に置かれた「歓待の掟」なるテクストでは、そのような歓待の理念が神学・哲学的用語で鋭く描き出されている。 「聖女テレサの介入──『バフォメット』再訪」 千葉文夫(早稲田大学名誉教授) クロソウスキーの作品のなかでも『バフォメット』(一九六五年)は比較的論じられることが少ない。テンプル騎士団総長ジャック・ド・モレと聖女テレサのあいだにかわされる神学的論争もこの作品へのアプローチを難しいものとしている要素のひとつであるだろうが、なんといっても最大の困難はこの作品のもつパロディ的性格をどう受け止めるのか、何らかの態度決定が求められる点にあるだろう。クロソウスキーはテンプル騎士団をめぐる歴史小説のパスティーシュを冒頭におき、彼自身の言葉にしたがえば、ゴシック的要素(モレ)とバロック的要素(聖女テレサ)の対比を試み、オオアリクイの姿をもって反キリストたるニーチェを、あげくの果てには聖女テレサの身代わりとしてのロベルトまでも登場させ、パロディからファルスへと過激に突き進む。『ニーチェと悪循環』を書き進めながら、このような怪物的な本を書いてしまう逸脱こそ真の意味でクロソウスキー的なのではないか。 「メディアとしてのシミュラークル――バタイユからクロソウスキーへ」 酒井健(法政大学教授) 本発表で私は一九五四年『クリティック』誌掲載のバタイユのクロソウスキー論「限界の外へ」を軸に据えて、文学メディアとシミュラークルの関係を探った。バタイユは、近代の日常生活の枠内で慣れ合う小説家と読者の関係を理性の眠りと批判し、クロソウスキーの小説『ロベルトよ、今夜は』(一九五三年)を近代世界の道徳的限界への侵犯、この限界の彼方への覚醒を読者に強いて共犯関係を求める特異な書と評している。本発表はこの近代からの逸脱をめざすクロソウスキーの欲望とシミュラークル(似て非なる欲望表現)の在りようをバタイユが注目した小説中のエピソードに典拠して論じた。さらにクロソウスキーの一九六三年のバタイユ論「ジョルジュ・バタイユの交流の概念におけるシミュラークル」からバタイユ後期の重要概念「至高の瞬間」を逆照射し、この概念もまたシミュラークルだとするクロソウスキーの見解の斬新さに言及した。 「読み手によるコミュニティー――「共犯者」の具体的様相」 須田永遠(国立情報学研究所研究員) クロソウスキーはサドの「犯罪愛好者協会」を「読者たちの結社」と呼ぶ。また自作の理想的な読者を共犯者と呼ぶ。共犯者=読者の類推が成り立つためには読書が一つの侵犯行為となる必要があるが、それはいかにしてか。クロソウスキーはブランショの言語論を踏襲しながら言語化が一つの侵犯であると論じる。なぜならそれは対象を殺害するから。同じように聖体の秘蹟もまた一つの侵犯である。なぜならそこで起こるのはキリストが死の形象のもとで復活することであるから。つまり共犯者=読者の類推を支えるのは、しるす対象を殺害しつつもその死の形象こそが対象の現存をもたらすという逆説的な言語=聖体観であり、それは後の代表的な評論「ジョルジュ・バタイユの交感におけるシミュラークルについて」や「悪虐の哲学者」でサドやバタイユの言語に言語には捉えきれないものを見はるかす遠近法——いわば言語を一つの「シミュラークル」として見る遠近法の基礎となっている。 「悪はありやなしや」 兼子正勝(電気通信大学名誉教授) 論集ではいくつかの論文・翻訳で「有罪性」「倒錯」の主題が取り上げられていたので、これを大きく「悪」の問題ととらえて、筆者が現在関心を持っている座禅が「悪」について何を言うかを、道元『正法眼蔵』「諸悪莫作」の巻に見てみたい。「諸悪莫作」とは「悪いことをしてはいけない」という、仏教古層の戒律である。当然悪いことが「ある」から「してはいけない」と言われる。しかし道元は「悪はあるのではない、ないのでもない」と言う。あるもないも「悪」を立てる。破るも従うも「善悪」を立てる。立てる以上、立てるこちらに「わたし」がいて、得たり失ったり足りたり欠けたりということになる。そうではなくて、あるもないも立たないところ、立つも立たないもないところを座禅は開こうとするのであって、それは別の地平かもしれないが、参照軸として視野に入れるのも面白いと思う。 「クロソウスキーとスコラ神学的歓待論――ポルノスコラグラフィーの神学」 山内志朗(慶應義塾大学教授) 歓待論ということは、キリスト教神学の中で伝統的に重要なテーマだったが、デリダの過激な歓待論に隠れて、見えにくくなっている。クロソウスキーの歓待論は、中世スコラ神学の煩瑣な概念の内奥にまで踏み入りながら、それをポルノグラフィーと重ねるという特異な表現様式で記しているが、その大枠は、スコラ神学の聖霊論や三位一体論をクロソウスキー独自の解釈を交えながら構成したものである。『ロベルトは今夜』においては、歓待論と享受の話が結びついている。享受はアウグスティヌスが定式化して伝統的に用いられてきた。とりわけ、ペルソナ(位格)が関係しあう場合、媒介となるのが聖霊であって、媒介が媒介として純粋に機能する場合に享受が現れるという構図がある。ポルノグラフィーとして表現されるのは、クロソウスキーの個人的趣味というよりも、カトリック的なスコラ神学の中核に位置する問題だ。その意味で、クロソウスキーの『ロベルトは今夜』はポルノスコラグラフィーと言えるものだ。 「予見と行動、あるいはイメージの内乱」 森元庸介(東京大学准教授) 一九六七年のサド論「悪虐の哲学者」で、「イメージ」は、ソドミーを範例としつつ、行動と予見の独特な関係を指し示す鍵語となっている。ソドミーのイメージはソドミストにとってさえ行動(とりもなおさずソドミーの実践)を怯ませるべき要因として働くが、だからこそ、ソドミストはみずから予見するそのイメージに先んじて行動し、結果としてソドミーを(モノマニアックに)反復せねばならない。クロソウスキーは以上の構図を——おそらくは欲情の「蜂起」をめぐるトマス『神学大全』の記述を換骨奪胎しながら——「萎縮(威嚇)」と「蜂起」という内乱を思わせるタームで記述するが、しかし同時に、両者は対立しつつ循環的に相互依存し、つまるところ無差異なのであることが、とりわけソドミストに誘惑/拐帯された「健常者」の示す反撥(をつうじた承認)の分析をつうじていわれもする。「内乱」はあらかじめ無意味化されつつ、むしろ特異な「共犯」の実現に資するのであった。 「二重権力の「ユートピア」――クロソウスキーにおける倒錯としての価値転換」 松本潤一郎(就実大学准教授) 本稿では力の二重性という視点から、クロソウスキーのユートピア思想を考察した。クロソウスキーは『生きた貨幣』で、産業社会において労働と遊戯は相互模倣の関係にあると考えた。一見対立するものが支え合う二重性の構造は『古代ローマの女たち』では父権制と母権制、『ニーチェと悪循環』では〈(一)神〉と〈神々〉、あるいはパトス(情念)とロゴス(論理)など、様々なヴァリエーションを通して現れる。これらの形象を通してクロソウスキーは、価値転換と新たな価値の創造という問題系を、ニーチェから引き継いだ。しかしニーチェとは異なり、クロソウスキーにおける価値の転換は、例えば搾取に喜びを感じる労働者、精神医学による分析に喜びを抱く精神病者といった、倒錯した形態で出現する。『ニーチェと悪循環』では、この倒錯としての価値転換の運動が、画一化をもたらす消費社会の中で、社会を転覆する余剰の力を密かに蓄積させていくと論じられる。 「クロソウスキーと〈悪循環〉」 大森晋輔(東京藝術大学教授) ある対談で、クロソウスキーは自分がニーチェに見出したのは「神学の基盤」であると述べている。周知のようにクロソウスキーは、『ニーチェと悪循環』において「永劫回帰」を「神トイウ悪循環」(CIRCULUS VITIOSUS DEUS)という記号として表現したニーチェに注目したが、この「記号」へのたゆまぬ参照にこそ、クロソウスキーの見出した「神学の基盤」の一端があると思われる。しかし、「神トイウ悪循環」には少なくとも「神」(DEUS)「悪」(VITIOSUS)「循環」(CIRCULUS)という三要素があり、それらが『ニーチェと悪循環』でどのように展開されているのか、またここでの「神」がどのような「神」なのかについては、いまだ共通了解があるとは言えない。本発表ではこの部分を再考しつついくつかの論点を提出するとともに、特に『ニーチェと悪循環』の後半で展開される「陰謀」(complot)の概念との関連を踏まえて、クロソウスキーにおける「神の死」の射程を探るための地ならしを行った。 〔発表の部 おわり〕 討論・ターブル・ロンドの部 ・パネリスト:國分功一郎氏(東京大学)、千葉文夫氏(早稲田大学名誉教授)、酒井健氏(法政大学)、兼子正勝氏(電気通信大学名誉教授)、山内志朗氏(慶應義塾大学)、森元庸介氏(東京大学)、松本潤一郎氏(就実大学)、大森晋輔氏(東京芸術大学) ・司会/パネリスト: 須田永遠氏(国立情報学研究所)(以下、敬称略) クロソウスキーとデリダ、キリスト教の歓待論 須田 今回のシンポジウムでは、タイトルにも入っている「歓待」のテーマが共通して出てきたと思います。山内先生がお話しされていた通り、『歓待の掟』はポルノグラフィーとは言われるけれども、その一方で神学的な伝統にはかなり根ざしていて、その影響も色濃いし、その倒錯性も含めて神学の伝統に位置づけることができる。山内先生は本日配られた資料の中で、デリダの歓待論(『歓待について』)にはやや問題があると書かれていますが、まずはその「問題点」について伺ってもよろしいでしょうか。 山内 山内でございます。クロソウスキーについて私は素人なのですけれども、本日は皆さんのお話を伺って色々と勉強させていただきました。論文指導の関係で歓待論を扱わなければいけないことがあったので、歓待論に興味を持つようなりました。普通はデリダから入っていくわけですが、以前は無条件の歓待論が標準的なキリスト教史の歓待論と思っていました。一七世紀にキリスト教史の中でカレブ・ダルシャン〔Caleb Dalechamp〕という人がいて、そのキリスト教のホスピタリティの文献がgoogle であったので読んだんです。すると、やはり標準的なキリスト教の歓待論というのはデリダが述べるような無制限の歓待論ではなくて、秩序立っていると言うのでしょうか、「同胞」に接する場合、「異邦人」に接する場合、そして教会の内部の人に接する場合というように、段階を追って歓待の細かい規定が決まっているんです。そういうのを見ると、デリダの歓待論は少し乱暴で標準にすることができないと思ったんです。 それでクロソウスキーの歓待論に興味を持ったのですが、彼の歓待論がスコラ神学の中のどれを種にしているのか調べていくと色々なことが見えてきました。彼の歓待論は従来の中世的な歓待論と違った新しさを持っていて、三項図式で捉えているのはなかなか創意工夫に富んだ面白い試みだなと思っているところです。トマス・アクィナス的な枠組みをベースにしているのか、そうではなく、アウグスティヌス的なスコラをベースにしているのか、という点がとても大事な違いなのかなと思ったのですが、やはりクロソウスキーはトマス・アクィナスが嫌いなのだな、と今回確認することができ、勉強になりました。ありがとうございます。 アウグスティヌスと欲望、「享受」と「使用」、三位一体と『歓待の掟』 須田 ありがとうございます。その点についてもう少しお伺いしたいのですけれども、トマス・アクィナスではなくアウグスティヌスに依拠するような神学というのは具体的にどのようなものなのでしょうか。クロソウスキーは確かに明示的には『ディアーナの水浴』の古代ローマ演劇を解釈する際にアウグスティヌスに言及しています。ただしその言及の仕方というのはあくまで古代ローマにおける演劇の不埒さを糾弾するアウグスティヌス、しかしその糾弾によってむしろ神の持つ倒錯性というものが逆説的に露わになるのだという文脈でのことで、アウグスティヌス自身に倒錯性の根拠を求めるような語り方はしていないように思われます。山内先生からみてアウグスティヌスと倒錯というのはどのような関係にあるのでしょうか。 山内 アウグスティヌスの場合、『告白』の中に若い頃の彼自身の行動が描かれていますが、彼はマニ教に深くはまって、欲望に翻弄される人生を送りました。三十歳ぐらいまでは欲望にまみれて苦しみ続けるわけです。そういった事柄があって、中世の人々はやはりアグスティヌスの教義の中に、欲望を肯定するって言うんでしょうか、「悪人正機」ではありませんけれども、罪悪を込みにして人間を救済しようというプログラムというものを見出そうとするわけです。 クロソウスキーを読んでいて私が感じるのは、ペトルス・ロンバルドゥス、および日本で非常に研究が遅れている『命題集註解』について、彼はよく知っているということです。これはやはりカトリックの世界では皆おとぎ話や童話のようによく知られているので、その中に色々と散りばめられているような様々な欲望のいわば百科事典的な記載と言うんでしょうかね、それを踏まえています。それに比べるとトマス・アクィナスは非常にアリストテレス的に欲望を制御するモティーフが強いので、アウグスティヌス的なものとドミニコ会的なものではかなり方向性が違っていて、どうもドミニコ会修道院にクロソウスキーは入りましたけれども、それとはちょっと違う流れをずいぶん吸収しているんじゃないのかなと思いました。 十三世紀の中で『聴罪大全』という贖罪の規定書が多くありまして、その中には様々な人間の欲望が羅列的に書かれていて、また個性的な逸脱が膨大に書かれています。日本ですと阿部謹也さんがずいぶん研究されていることだと思います。アウグスティヌスの中でそういった欲望が、非常に丁寧に分析されているという形ではないにしても、『告白』には現れています。いわば彼は、思想的な系譜の中ではそういった欲望というものを否定的に見るのではなくて、キリストの十字架と同じなんですが、刻みつけられ逃れ得ることができない悪として、しかし悪を持つがゆえに救済の可能性を持つというような枠組みで考えていた。理性によって制御するのではなくて罪あるがゆえに救済され得るのだというモティーフがアウグスティヌス主義の根本なのかなと思っています。 須田 ありがとうございます。早速ですが山内先生に質問がきています。〈山内先生に質問です。スコラ哲学での「享受」について詳しく教えていただけますでしょうか。〉 山内 享受論については、今『中世哲学入門』という本を書こうと思っていて、そこで詳しく触れるつもりです。細かく説明すると色々ありますが、二つだけ言うと、享受というのは、フランス語でもjouissanceですから享楽という意味になりますけれども、基本的に自己目的です。他に目的があってその目的のために使用するような道具に対して向けられるものではなくて、それ自体において享受する。ですから目的から切り離されていて、それが究極目的で自己目的になっているようにそれを愛するのが享受の基本です。先に目的を持っているとすれば、それは使用というか道具になりますので、いわば理由なしに楽しむことができればそれは享受と言えます。「なぜ」無しに、「なぜ」という問いに対して答えが無いものだけが享受の本来の姿を持っているかと思います。この辺はアウグスティヌスの『キリスト教の教え』の冒頭にありまして、ロンバルドゥスの『命題集』の中でも冒頭でかなりこだわっております。 またキリスト教の中で享受の対象は三位一体です。三位一体というのは我々から見ると、全然歯が立たないのですが、ペルソナというのは実体ではなく関係なんです。関係ではあるけれど、父と子と聖霊それぞれが関係で、他のものと共有し得ないような特性を持っているがゆえにそれが個体であるかのように見える。つまりペルソナの中にその個体性の原理の基本形を見出して、それを聖ヴィクトワールのリシャールが述べて、それをスコトゥスが「このもの性」に取り込むという図式になっております。ですから難しいですが、実体中心ではなくて関係性なんです。一つの実体なのに三つの関係として現れ、その三つの関係がキャラクターというか、人の姿で現れてくる。ですからその辺を『歓待の掟』の中でロベルト、オクターヴ、アントワーヌという三人のキャラクターで登場しているように見えて、しかし実は一つの実体の現れ方を示しているという狙いは、成功しているかどうかは分からないですけれども面白いなあと、私はとても感心いたしました。 須田 ありがとうございます。アントワーヌとオクターヴは師弟とも呼ばれますし、『ロベルトは今夜』という小説はオクターヴの印象が強いですけれども、実は語り手はアントワーヌですね。にもかかわらず、あの小説を読んでいくと明らかにオクターヴ自身のヴィジョンが前景化してくるような構成になっていて、あえてこういう言葉を使えば非常に「共犯的な」テクストとなっているわけです。そのあたりのことが今のお話でとてもしっくりきました。 同じ歓待のテーマで、今度は國分先生に伺いたいのですけれど、今の山内先生のお話にもあった通り歓待に関わる三者(ロベルト、オクターヴ、アントワーヌ)は三つの個ではなく一つの実体の三通りの現れ(ペルソナ)であり、そこから主人の変容という話、つまり受け入れる側の主体が変じることのない「寛容」ではなく、主体の変容を前提とする「歓待」の可能性をクロソウスキーに見出すという國分先生のお話にもつながると思われます。社会思想史的な観点からクロソウスキーに出会われたという國分先生の念頭には、やはりデリダの歓待論はあったのでしょうか。 クロソウスキーとサド、フーリエ、カトリック 國分 そうです。デリダのことは常に念頭にありました。ただ、クロソウスキーの歓待論の方が、話としては破茶滅茶な感じがしますけれども、よほど実践的な感じがしたんです。デリダの歓待論は面白かったんですけれど、結局、不可能なのだけれどもその不可能なことをしなければなりませんといういつものデリダの論理に収まってしまっている感じでした。歓待と言われるものがあればそれは絶対的に無条件的なものでなければならず、そのような歓待は不可能だがその不可能なことをしなければならないというわけです。 クロソウスキーは「ナントの勅令破棄」というタイトルから分かるように、寛容のことを念頭に置きつつ歓待を考えていたのだろうと思います。そうするとクロソウスキー的歓待は寛容との差異において位置づけられることになるわけで、そこに実践的なものを感じたんです。とにかく「ナントの勅令破棄」というタイトルが驚くべきものであると思いますね。 それと実際にクロソウスキーの歓待を読み解く上では、デリダよりフーリエのことがずっと気になっていました。クロソウスキーの読むフーリエです。クロソウスキーは歓待について考える上でフーリエから強い影響を受けたと思います。そこで少し皆さんに質問したいことがあります。僕はクロソウスキーの専門家ではないので、ぜひお話しをお伺いしたいのです。 森元さんはサドに注目して発表された。クロソウスキーの中でサドはもちろん決定的に重要ですね。「〔イメージが〕尻込みさせるものだからこそ、それにあらがって行動することに意味が付与される」という非常にサド的なロジックを森元さんは見事に描き出されたと思います。ただ、クロソウスキーの中には、それと同時に、松本さんが発表の最後で強調されていたような、労働と遊びの区別がなくなってしまうというフーリエ的なヴィジョンも色濃く存在しています。 このサド的なものとフーリエ的なものがクロソウスキーの中でどのような関係にあって、どう整理されているのかがずっと分からないんです。確かに両者は対立しているようにも思われる。すると、『わが隣人サド』を出したクロソウスキーが、サドを離れフーリエに近づいて行ったという分かりやすい筋道を立てたくもなる。実際、クロソウスキーはサド論を出す前、一九三〇年代の非常に若い段階でフーリエ研究についての構想を持っていました。潜在的に存在していたフーリエ的要素が、サド論を乗り越える形で現れたと言って言えないことはない。けれどもそれは単純すぎる。クロソウスキーにおけるサド的なものとフーリエ的なものの関係をどう捉えたらよいでしょうか。 さらに山内先生のお話ではクロソウスキーの驚くほどにカトリックな側面が強調されました。あの歓待論はカトリシズムの三位一体の教義と極めて整合的である、と。そうすると奇妙にも、フーリエ的カトリック、あるいはカトリック的フーリエみたいなものすら見えてくることになる。というのもクロソウスキーの歓待のイメージへのフーリエの影響は明らかだと思われるからです。すると、サドとの関係は更に複雑になります。クロソウスキーにおける歓待を考えているとどうしてもここに行き着くことになるのです。もしどなたかからお考えを伺えれば大変ありがたく思います。 須田 確かにその二つの関係はクロソウスキーにおいて非常に重要だと思います。「サドとフーリエ」の中でも、サドはあくまで産業社会における欲望のあり方の予言者として引かれる一方で、フーリエの方はその制度化をポジティヴに志向した人物として語られている。おそらくここには思想的な明晰さと政治的な実践というものの鋭い対立が見え隠れしているように思われるのですが、クロソウスキーを政治的実践との関わりで考えておられる松本さんはどう思われますか。 松本 そうですね。難問なので印象めいたことしか言えませんが、クロソウスキーにはサドを読み込んでいた時期があり、サドに親近感を抱く面はあったでしょう。裏付けはありませんが彼のテクストを読むとそういう印象があります。他方で自分の中の暗い情念というか、それを言わば善用できないかと考える途上でフーリエに出会ったのではないか。フーリエは、放置しておくと危うい方向に行きかねない情念も、制度設計や養成法によっては善用できるかもしれないというユートピア的ヴィジョンを考えていましたね。フーリエを読んで自分の中のサド的な面を「この方向に展開できるかもしれない」と思ったのかもしれません。サドがネガだとしてフーリエをポジとすると、しかしそれは同じものの両面というか、彼自身はそんな単純な図式化をしていませんけれど、あえて図式化すればそう考えています。だからフーリエを選ぶことでサドを裏切った、切り捨てたといった話ではないと思います。 クロソウスキーの「倒錯」、ニーチェ解釈と価値転換、力のせめぎ合いと宙吊り 須田 ありがとうございます。ちょうど今クロソウスキーの社会的なヴィジョンとも関わるような質問を頂いています。〈全体の発表を通じて、クロソウスキーにおける「矛盾」、「悪循環」、「分裂」の概念がおおきなキーワードになっていたように思います。この点に関して、基礎的な質問ですが、クロソウスキーにおけるそれらの概念が、ヘーゲル的な労働概念における矛盾(労働は主体を現実化させるが、同時に労働は主体を疎外する)からどこまで遠いものだと言えるでしょうか。ある意味では、クロソウスキーの「悪循環」、「矛盾」概念は、コジェーヴ的な主と奴の弁証法を解消不能な状態に宙吊りにしてしまっているようにも見えるのではないでしょうか。〉 松本 それはクロソウスキーのニーチェの読み方、特に永遠回帰を通した価値転換、あるいは新たな価値の創造という問題に関わります。今回の報告では、彼が自分の倒錯的な面を価値創造とつなげていると考えました。先ほどのご質問にも、労働は一方で疎外的でありつつ、他方で主体を現実化するという、矛盾した状態にあるというご指摘がありました。そういう引き裂かれて矛盾した状態の中で複数の力がせめぎ合って一種のゼロ地点、宙吊り状態というか力のゼロ地帯みたいなもの、そこに留まるというのがクロソウスキーの資質としてある気がします。 これは〈永遠回帰の解釈にはクロソウスキー自身の生理も含まれる〉という大森さんの話にもつながることです。それから千葉先生が精力的に考え続けておられる〈イメージ〉の問題も、クロソウスキーにおいては、やはり複数の力がぶつかって発生する或る種の力のゼロ地点に入り込んでいくという、宙吊り状態の緊張に関わっていると思います。力のせめぎ合いが無力状態を相殺的に生みだすということに引きつけて、彼自身がサドを読んでいる気もします。これはクロソウスキーにおける倒錯という問題に帰着するのですが。 須田 確かにそのせめぎ合いや矛盾をどう解釈するかは非常に重要な点だと思います。これは矛盾とも言えるし宙吊りとも言える。そもそも対立する二項のどちらかを取る必要があるのか。かりに無いとしても対立する二項を並べて等閑視する立場に緊張感は無いわけですよね。ではせめぎ合いや矛盾というものを緊張感を保ったまま書くにはどうすればよいのか。この問いがクロソウスキーの文章を難しくしているのではないかと私は思っています。先ほどお名前の上がった大森さんはどうお考えでしょう。 大森 そうですね、先ほどの話とダイレクトにつながってくるのですが、松本さんが提示されたような宙吊り、ゼロ地点というところは、確かにあるとは思っていて、今回自分の発表動画を出した後に松本さんの発表を伺って、自分があれこれ立ち止まっていたところを結構、松本さんが易々乗り越えてしまったようなところもあるのかなと、恥ずかしく感じてもいます。二項の間で宙吊り状態になるという図式はたくさんクロソウスキーに見出せるんですが、ひとつ松本さんの発表に即して言うと、労働と遊戯というものをフーリエ的に並列させて、どちらか一方ではない形になるのはまさにそうだなと思った一方で、おそらくクロソウスキーが慎重に考えているのが、どちらかになってしまった時点で、結局それは既存の社会制度に取り込まれてしまう、つまり例えば労働は遊戯ですよねと言うふうになってしまった時点で、結局はまた新たな搾取が生まれてしまうというふうにクロソウスキーは危惧しているようなところもあるかなと思うんですね。だから、どちらかに解消しないというのはそこにもあるのかもしれないと聞いていて思いました。 その上で、松本さんの応答を伺ってからでもいいんですが、國分さんにも伺いたいのが、ご発表の中でクロソウスキーは正義/不正義を乗り越えたあとのことを考えている、というとても興味深い論点を提示して下さって、これは今回本当に色々なところで出されている悪の問題、また善悪の彼岸ということにも関わってくると思うのですが、それではクロソウスキーは一体どういう社会が望ましいと考えていたのかについては、私自身も見えてこない部分があって、自分の発表でも最後のほうに何かちょっと将来的、未来的なことを考えていたみたいなことを言いかけましたけれど、やはりまだわからないんですね。そのため、社会思想の観点から見た時にどうなのかということも含めて、松本さんや國分さんのご意見を伺いたいと思います。 社会観、二項対立と否定性を超えたところ 松本 その問題は確かに難しい。アガンベン風に言うと〈瀆神〉というか、神を汚すためには神が前提されるというかたちで二重化された社会を考えているのではないでしょうか。ニーチェだと神が死ねば人間も死ぬということで〈超人〉が召喚されますが、アガンベン(そしてベンヤミン)もクロソウスキーもそうは考えない。アガンベンは『瀆神』で、ベンヤミンの「宗教としての資本主義」を意識しつつ、労働と遊戯という対立の超克を考えますが、この問題はクロソウスキーの『生きた貨幣』でも扱われています。クロソウスキーの場合、労働と遊戯は互いのシミュラークルであって、どちらかを消去しようという話にはならず、たしかに神が退隠すれば人間も消えるかもしれないにせよ、その場合は人間的な神々が回帰する。他方、『瀆神』は神に罪を着せる行為として労働を捉えるベンヤミンに引きずられて、遊戯との対立に囚われています。この問題については、ランシエールが研究している感性的なものと労働者の関係をもふまえて、考える必要があります。(『芸術と労働』白川昌生・杉田敦編、水声社所収の清水知子さんと毛利嘉孝さんの論文も示唆的です。)ともあれ難しい問題です。 兼子 少しいいでしょうか。おもてとか裏とか倒錯とか、色々ありますよね。でも、クロソウスキーは二項対立っていうのは表面的に作っていますけれども、そんなことは考えていないと思いますよ。二項対立を超えたところにどういうロジックが展開できるかということ、それだけをひたすら考えていたので二重性とかはない、そんなものは。今コジェーヴの話が質問にありましたけれども、僕が好きな箇所があって、ちょうど須田さんが引用されていた「ジョルジュ・バタイユのミサ」という文章の中で、侵犯に関連して、サドとバタイユの違いを言っているところがあります。そこにさりげなくすごいことが書いてある。「一世紀以上にわたるヘーゲル流の省察によって、サドの明白な合理主義から隔たっているバタイユにあっては」。つまり、サドとバタイユを隔てているのはヘーゲル、ヘーゲル的な否定性だということです。サドはヘーゲルを免れている。そのあとにヘーゲルの世紀があった。バタイユはヘーゲルの世紀に属しているということですね。否定性があるかないか、この一点でバタイユは、クロソウスキーにとっては一時活動を共にしていた相手ではあるけれども、袂を分かつことになったと言っていい。だからAあるいはB、その間にこれが正しい、これが悪いというような二項性があったらそれはヘーゲルであって、クロソウスキーではない。 話を始めたついでに少しだけ、色々と聞いたその感想を申し上げます。山内先生のお話は大変興味深く伺いました。若干安定し過ぎているかもしれないというようなことを森元さんがおっしゃってましたけれども、逆に言うと、森元さんの倒錯のAあるいはBという方は若干もつれ過ぎているみたいな感じがあって、このお二人の間の、クロソウスキーのヴィジョンの間のニュアンスのどの辺に自分を定位するかというのが、わりと面白いポイントなのかなというふうに思いますね。私は今言ったように否定性に呪われていたような一九世紀から二〇世紀前半の100年、150年があって、それを超える問題として共同体を考え、コミュニカシオン、コミュニケーションを考え、欲望を考え、展開していったのがクロソウスキーだというふうに思っていて、國分さんがいらっしゃるのでついでに話を振りますけれども、あのドゥルーズもそういうところがあるわけですね。否定性を欠いてどうやって論理を構築させることができるかみたいなね。そういう方向に話が展開すると面白いなあと思って聞いておりました。 國分 先ほど大森さんから話を振っていただいたので少しだけお答えします。クロソウスキーは社会全体ということを別に考えていないと思います。そういう全体そのものがもうとっくに疑われているのではないでしょうか。だから今の兼子先生のお話を受けると、サドとフーリエはもう混ざっちゃっているのかもしれない。本当は混ざらない論理のはずなんだけれども、クロソウスキーはそういう論理の全体性みたいなものも前提していないのではないか。それを敢えて全体の視点から記述するなら、サド的な予言が実現してしまった社会の余白でフーリエ的な実践が可能であるというまとめはできるのかもしれない。実際、松本さんのお話はそういう観点からなされているのかもしれないとも思いました。 ここには『生きた貨幣』を翻訳された兼子先生がいらっしゃいますが、この本の話もできればもう少し話を展開できるかもしれないとも思います。この本はまさしく「サドとフーリエ」という論文が元になっていて、それを大幅に改稿、増補することで書かれたものです。僕はこの本に大変強い影響を受けたのですが、失礼ながら最近ではあまり読まれていない感じがします。しかし、資本主義が極限まで進んでいる今こそ読まれるべき本がこの『生きた貨幣』だろうと思っています。 侵犯と検閲の相補性、固定した禁止とタブローにおける禁止の不在 須田 兼子先生のお話しされていた二項対立の問題とも関わると思うのですけれども、クロソウスキーには初期のサド論から一貫して侵犯と検閲が常に相補的なものであるという認識が見られるように思います。私はクロソウスキーを読んでいてこの認識がいったいどこに由来しているのかとずっと考えていて、もしかするとバタイユなのかなと思っていたんです。侵犯が一回きりで終わってしまうのを防ぐために、侵犯と検閲が交互に生起する。こうしたヴィジョンの源泉としてのバタイユという考えについて、酒井先生にご意見を伺ってみたいと思います。 酒井 こんにちは、酒井です。侵犯の問題は、クロソウスキーにとってどれほど最後まで続いていたのかという点は逆に大森さんにお伺いしたいです。つまりタブローに奔(はし)ってしまいますよね。言語世界から離れていく。侵犯の根本の原理である、言語の禁止事項とかステレオタイプ的表現とかそういったものの縛りから離れていってしまうようなところがあるんじゃないかなという気がします。それが一点。もう一つ、どうしても先ほどの兼子さんの話について私はちょっと違う印象を持っていて、例えば禁止に対してクロソウスキーは動かない考え方を持っていたんじゃないか、ステレオタイプ的なものに対する執着もそうなんですけれども、そういった動かない、フーコーの上手い言い方だと、砂浜に引かれた線があってそれが禁止だとすると侵犯が押し寄せてくるとその線は消えてしまうと。それでまた別のところに禁止の線が引かれて、また別なふうな侵犯が押し寄せてくるという表現をしています。そういったその動きの中にバタイユの侵犯があるとすると、クロソウスキーの場合はその禁止の線が固定していたような気がするんですよ。それでアナクロニックとか言われたりするんですけれど。で、あるときタブローに移ってしまって、その線も希薄になってしまったような気がしています。ちょっと曖昧な言い方で申し訳ないのですけれど。 須田 いえ、すごく面白い質問ですし、大きな問いだとおもいます。では大森先生から、そのタブローにおける禁止の不在について伺ってもよろしいですか。 大森 難しいですね。確かに、酒井先生は以前もお書きになっていらっしゃいましたけれど、言語の世界、エクリチュールの世界から離れることで、拘束とそれからの解放のせめぎ合いのようなものから、よく言えば解き放たれたと言えるかもしれないし、場合によっては逃げたとみることもできなくもないわけですね。もちろんタブローにはタブローの約束事、拘束性というものがあるわけなので、その約束事の中で、侵犯なり逸脱というのがなされるということに、舞台としては移った状態でそうなったという見方もできるわけですが、ただ言語とタブローとの違いというのは明らかですので、彼なりのヴィジョンの強烈さみたいなものをやはり言葉ではない形で示したい、という方向に行ったのは事実だと思います。禁止の線が固定されているというのは、私も面白いと思ったんですが、もうちょっと具体的に教えていただけますか。 酒井 例えば、キリスト教の信仰の問題などです。それがもっと動きがあっていいんじゃないかなっていう気がします。それともっと卑近な言い方ですけれども、とても決めつけ的な言い方をしてくるんですよ。例えば、もうバタイユは、あなたは信者なんだよとか、キリスト教徒なんだよとか、カトリックなんだよとか、そういう固い言い方をしてくる。それで、その性格というのはあまり後期もその後に変わっていないような気がするんですよね。ですから非常に強い見なし方をするクロソウスキーというのが私のイメージにあって、ちょっとそこが動かないクロソウスキーというイメージがあるんですけれど。 大森 そういうことですね。やはりバタイユの語り口とはかなり違うところがあるわけですよね。クロソウスキーの場合は、もしかしたらバタイユ以上に意識的にやはりキリスト教というものを一つの参照軸にして色々とものを考えている。でも同時にやはり同時代的なものもあるとは思うんですけれど、キリスト教的ではないものを思い出さなければいけないというのもニーチェとかサドを読んでいてあるので、そことのせめぎ合いがまた彼の中で起こっていて、どこに着地点を定めていくかというところについて、色々と彼なりに悩んでいたと思っています。その一つの表れがもしかするとタブローへの排他的移行ということになるのかもしれませんけれども、ちょっと私の中でまだなかなか見えていないところですね。私が神にこだわる方がちょっとおかしいのかもしれませんが、やはりクロソウスキーの中ではやはりどこかそれがずっとあると思っています。とくに今日の山内先生や森元先生のお話からすごく浮き彫りになったと思うのが、従来以上にキリスト教神学との関わりとそこから一生懸命逸脱しようとしているクロソウスキーの姿で、私自身大変興味深く感じました。お答えになっていませんけれど、ひとまずこんなところです。 正統的なカトリックとの距離、「悪循環」の意味、思想史のデパート 國分 神学との関係でまさしく素人的な質問をさせてください。いま大森さんはクロソウスキーが神学から逸脱しようとしていたと仰いました。ところが、山内先生が明晰に示されたように、『歓待の掟』みたいなパッと読んだら変な話が、実は三位一体説と整合的に読めるという事実もあるわけですね。しかも、小説と言ったらいいのか、いずれにせよ論文ではない形であれを世に出した。今日の山内先生のお話は当然のごとくいつものように大変勉強になったんですけれども、しかし同時に、たとえば、聖ヴィクトワールのリシャールのことを知らなくても、ロンバルドゥスのことを知らなくても『歓待の掟』は読めるという点も気になるのです。すると、カトリック的な神学のロジックが、もうカトリシズムの枠を取り外しても妥当するという認識の境地にクロソウスキーは到達していたということでしょうか。そういう意味で、逆説的に神学から逸脱しようとしていたとも言えるかもしれない。これは彼の著述活動の位置付けそのものと関わることだと思うのですが、山内先生はどうお考えでしょうか。 山内 私は最初、クロソウスキーの『歓待の掟』を読んだら最初は全く歯が立たなかったんですけれども、ただその三位一体のモティーフとか、もしかするとこういうことを言っているのかなとか思うと、少し解きほぐされてきました。その場合やはりペトルス・ロンバルドゥスの枠組みや聖ヴィクトワールのリシャールとか、フランスでもやイタリアでもそれほど皆熟知している枠組みでもありませんので、明示していないし、何かどうもエックハルトのモティーフもさらっと使うけれど、本当に彼が心から賛意を表して、というか取り込みたいと思って使っているのかというと少し怪しく、その場で見つけた材料をちょっと使ってみたのではないかと。つまり彼自身のモティーフがはっきりあって、そこで使えるパーツをブリコラージュ、寄せ集めて使っているような気がいたしました。どうも正統的なカトリックから外れてはいるんですけれども、これまでの中世とか古代に無かったのかというと、時々突然変異的に現れてくるようなものを、クロソウスキーは感じ取って取り込んでいるという気がしました。だから正統的なキリスト教では全くないんですけれども、非常に突出して逸脱しているわけではないと思います。 今日色々お話を聞いていて、「悪循環」という言葉にひとつの鍵があるのかなと思いました。兼子先生が哲学書房で『ニーチェと悪循環』を翻訳された時に、編集者の中野幹隆さんが「こういう本が出たんですよ」と本をいただきましたが、なかなか私も歯が立たなかった記憶を持っております。circulus vitiosus悪循環っていうのは、要するにvicious circleですけれど、vitioususの元の言葉がvitium悪徳なんですね。virtusが美徳で反対がvitium悪徳になります。そのvitiumの形容詞がvitiosusですから、circulus vitiosusの反対概念としてcirculus virtualisと言うんでしょうかね、美徳的な円環、もちろんそんなものは無いんですけれども、またcirculus vitiosusという概念は中世では使われていなくて、近世になってから使われ始めた言葉なんでしょうけれども、私から見てこのcirculus vitiosusとはどういうことかというと、悪徳ではなくて役に立たない円環なんですね。悪いということではなく、意味を全然生成しない。私が思い浮かべるのは、お酒を飲もうと思っておちょこでこうキュッと、林家正蔵彦六じゃありませんけれども全部こぼしちゃうんですね、飲もうと思っても飲めないようなものが悪循環ではないかなと思ってるわけです。つまり飲むたびごとに全部こぼれてしまうような感じで、全然上手く行かない、でも飲みたいと思う欲望だけはずっと続いていく。その辺がファンスタスムとシミュラークルの図式と重なっているので、兼子先生の『ニーチェと悪循環』を読み直してやはりなかなかすごい人だなと思えました。 やはりドゥルーズへの影響が大きかったというのがよくわかったのですが、そういう意味で見ると、彼が語る悪循環の悪というのは、いわゆる善と悪という二項対立の中での悪を肯定しているのじゃなくて、そもそも悪徳と徳という対立を壊そうとしていた。今日皆さんのお話を聞いてわかったのは、一九世紀が持っていた近代的なパラダイム壊れていくとき、精神分析、無意識の審級が入ることによって、いわばヘーゲルにおいて半ば歩み始めていた意識の進級からの離脱というのが、精神分析によって完全に別なフェーズに変わっていった。そういったものをカトリックの聖霊論や古代とくっつけているところが新しさと古さを混在させている、思想史のデパートみたいな広がりがあるので、クロソウスキーはとんでもない人だな、だからもっともっと読まれるべきじゃないかと思います。皆さんにお聞きしたいのはcirculus vitiosus悪循環の悪っていう場合、悪がどういうconstellation、というかconfiguration配置のもとで作られているのか、おそらく唯物論の話なんかとも重なってくると思うので一つの手がかりなのかなと思って聞いてみました。 循環論法、永遠回帰、一と多の同時生起 須田 ありがとうございます。兼子先生にぜひ悪の話を伺いたいですね。 兼子 僕は特に何も考えてないんですけれども。今日僕がお話しした「悪はありやなしや」とは実は全く関係がなくて、悪循環は要するに大森さんが今日引用されたニーチェの文章がありますよね、あれに尽きると思うんですよね。要するに、今というこの瞬間に自己同一性を失ったこの私が無限に反復される。もうどうしようもなく還ってくる。どうしようもない、手のつけようがないということなんじゃないですか。だから悪循環が善と対比されることは一回もないですよね。ただの循環、これがもうどうしようもないというようなニュアンスで悪ということをつけて言われるので、今日のお話の悪とはちょっと違うと僕は思います。 大森 私も善悪の意味での悪ではない、ということは全くその通りだと思います。一方でcercle vicieuxというのは「循環論法」という意味もありますよね、論点先取という。これはどれだけ関わるのかといいうのはわからなかったので発表には入れなかったんですけれど、ハイデガーの『ニーチェ』の英訳書では、訳者が訳註で元のニーチェのcirculus vitiosus deusに循環論法の意味を入れている可能性があると言っています。それが本当にそうなのかというのは私はわからないんですけれど、循環論法とは何かというと、辞書には次のような説明が載っています。「彼の彼の言ったことは信用していい。なぜなら彼はいい人だからだ。彼がいい人だということは、彼の言うことが信用していいということからわかる」。前提の中にあらかじめ結論が入っている、そういう論法ですね。ここはあまり関係ないのかもしれないんですけれど、ちょっといろんな角度から考えた方がいいかなとは思っていました。いずれにしても先ほど兼子先生がおっしゃったように『ニーチェと悪循環』に関しては、善悪という二項対立の中での悪ということではないと言えるのかもしれないと思いました。 須田 私はその循環論法の話に興味があって、大森先生や兼子先生にぜひお伺いしたいのですが、例えば永遠回帰をニーチェが科学的に説明しようとするプロセスにクロソウスキーはかなり付き合いますよね。そこでニーチェは色々な根拠を持ち出して永遠回帰の正当性を論証しようとするのだけれども、結局そこで持ち出されるのは、永遠回帰が起こったという事実に過ぎない。だからこそ永遠回帰は「啓示」とも呼ばれるわけですが、ここでなされているのはまさしく循環論法だと思うのです。この点についてクロソウスキーはどの程度意識していたと思われますか。 兼子 永劫回帰はすぐ感覚的にわかるんですけれども、要するに同一性が壊れるという考え方で説明しますよね。同一性が壊れたら何になるか。ゼロになるのか、一になるのか、多になるのか。全部なんですよね、多分。それを記述するときに、一でも説明できない、多でも説明できない。それでは何で説明するのか。同じ瞬間って言えば一ですよね。同じ瞬間が永遠に回帰するというのは多ですよね。同じ瞬間が永遠に回帰する、多と一が同時に生起するような、そういう説明の仕方をニーチェがしたし、それをクロソウスキーは比較的実感して書いていて、その実感に基づいて『ニーチェと悪循環』全体を組み立てているというふうに僕は思いますね。 須田 主体が一でもあり、多でもあるというのは基本的に思弁的にしか導かれないものかなと思っていて感覚的にはちょっと分からないのですが、クロソウスキーはやはり感覚的にわかっていたのでしょうか。 兼子 それは言われてもちょっとわかんない。 須田 そうですよね。視聴している方から質問が来ているので読み上げます。〈兼子先生や山内先生の二項対立を超えた地点での思考にこそクロソウスキーの特質があるのだ、というお話ですが、その地点において仮構されているものはやはりサドとフーリエについての思考ではないか、というようにも思えます。ただし、この点には留保が必要で、サドとフーリエがそれぞれ想定する二項的に分類されるエネルギーの拮抗状態(あるいは、それを超えた状態)には明らかに差異があるからです。サドにおいてはアパシー、フーリエにおいては空想社会主義的な理想状態がそれにあたるのだと思いますが、ここにはエネルギーの拮抗というものが、不活発な不動の状態を作りだすのか(サド)、活発な充溢の状態を作りだすのか(フーリエ)、という差異が見いだせるでしょう。長くなってしまいましたが、要するに、クロソウスキーに見いだせるようなエネルギーの拮抗という状態が、彼の思考のなかですでに二重化してしまっているように見えるというのが主旨になります。このことに関して、たとえば大森先生や松本先生はいかにお考えになられるでしょうか。〉松本先生、いかがでしょうか。 言語的なものと非言語的なもの、資本主義の作動原理、拘束・ストレスとエネルギー 松本 先ほどの悪循環のお話、非常に興味深く聴いていました。クロソウスキーはヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』のフランス語訳もしていましたね。『論考』で初期ヴィトゲンシュタインは、言語で言えることは言語で言えることでしかないというトートロジカルなところまで突き進んでいきましたが、そこにも先ほどの悪循環、言葉そのものにそういう構造があるということに、クロソウスキーは敏感だったと思います。 しかし完全に言語から離れて、欲動や欲望、情念に身を任せればよいということではないので、ご質問にあった論点につなげると、やはり両方がないとどちらもうまくいかないという関係になっています。ドゥルーズ+ガタリは『アンチ・オイディプス』で資本主義の作動原理を論じていますが、そこで彼らはクロソウスキーの思考に強く触発されて、資本主義は調子が悪ければ悪いほどうまく作動すると言う。このテーゼは『ニーチェと悪循環』と『生きた貨幣』の読解なくして立てられなかったと思います。勿論この読解の成果を『資本論』で論じられている〈限界〉を〈制限〉へと読み替える資本の仕組みと接合した点が『アンチ・オイディプス』のたいへんな独創ですが、ともあれ拘束があるから爆発的ポテンシャルも生まれる。両者が代わる代わる前に出て資本主義を牽引するという議論は、クロソウスキーから汲み取られています。ですからやはりどちらかを捨てればよいという話にはならない。ロゴスとパトスが非弁証法的に絡まり合うわけです。その辺りに、私たちが捉えようとしているものがあるのではないでしょうか。クロソウスキーの核心はそこにあります。 須田 大森さんは何かおありですか。 大森 私も本質的な質問だと思いますが、なかなか難しいと思っています。エネルギーということですけれど、クロソウスキーにはやはり、このエネルギーの前提としてストレスによって生じる爆発力のようなものがあるのかなと思いました。先ほどエクリチュールではなくて絵の方に行ったという話が出ましたけれど、絵の方に行きながら、おそらくまた新たな記号体系に移ったという方が正確かなと私は前から思っています。言語による記号体系ではなくて絵画という記号体系に行ったと。やはり「シミュラークルとしての絵画」と彼が言った時にそれを何らかの記号として見ている。記号であるからにはそのものではない。これは私が博論とか著書で少しだけ触れたんですけれど、ここでの議論はたとえばアウグスティヌスの記号概念「あるものが別のあるものの代わりに」をずっとひきずっていて、「あるもの」でないからこそストレスみたいなものがあって、やはりエネルギーもそこで貯まり、その拮抗というものが無いと生まれない。悪循環に関しても終始一貫してクロソウスキーは記号と言っているんですよね。なのでそのことも併せて考えると、やはりせめぎ合いの話になってしまうんですけれど。 國分 お二人の話、大変興味深くお伺いしました。ただ、フーリエ的なものとサド的なものが両方ないと両方作動しないというのは、それ自体がサド的な論理である感じがします。「ストレスがあるとエネルギーが出る」というのは非常にサド的ですよね。やはりクロソウスキーの思想を一つの全体を描こうとするとうまくいかない気がするんです。 じゃあ、どう解釈すればいいかということですけれども、さっきの山内先生の話を伺っていて思ったのは、クロソウスキーはどこか「不真面目」ではないかということです。不真面目に色んな物が混ざっている。だから全体を描くことが難しいのではないか。 不真面目さ、『バフォメット』、ファルスと絵画 國分 「不真面目」というのをキーワードにして、僕がクロソウスキーのご専門の方にお伺いしたいのは、本を書いていた人が絵を描き始めたというのはどういうことかという問題です。すごく漠然とした質問なんですけれど、これはぜひ千葉先生にお伺いしたいです。 千葉先生のご発表の最後の方に、片足を上げている人物像の話がありました。あれも全く安定していない、ある種の不真面目さにつながる姿勢ではないでしょうか。不真面目であり、ある意味ではふしだらな格好でもある。 クロソウスキーの「不真面目さ」というのは、皆さんとお話しをしていて思いついた挑発的なテーゼであって、少しでも話のネタになればいいというか、後で否定されても構いません。ただ不真面目さというところから考えると、クロソウスキーがあっさりと書くことよりもタブローを描くことを選択するようになるというこのキャリアそのものも、このキーワードから考えられないか。「キャリア」という言い方自体が一つの全体性を想定してしまいますから、よくない言い方かもしれませんが。ただ、クロソウスキーにとってのタブローをどう考えたらいいかというのはずっと気になっていることなんです。何かヒントをいただければうれしく思います。 千葉 先ほどの山内先生のデパートみたいだという話から、兼子さんはどうしようもなく回帰する、そういった循環の話になってきて、だんだんそうだという気がしてきました。そしてこういう話がどこで出てくるのかと待っていたんですが、要するに「デパートみたいだ」というところにすでに「不真面目だ」ということの伏線が張られてたような気がするんですね。それを見事に國分さんが出して下さって、僕もクロソウスキーに対する興味というのは思想家云々よりも、何かわけわからない、ちょっと怪しい、そして大変色々な知識があり、驚くべき文章力を持って、それを悪用して何かをやっているんじゃないかというところにあります。そして彼の中には、トマス・アクィナスとかアウグスティヌスとか色々なものがあり、例えばtraficという言葉が出てくる。麻薬とかを不正に流通させるみたいな。だから引用というものではなくて、何か自分のやりたいことがあって、それで使っているみたいな。驚くべき技量があってそういうことになるというのが一つあって、だんだんそのあたりのイメージが僕の考えているクロソウスキーに近づいてきたという感じが一つはしたんです。 今回久しぶりに『バフォメット』という本を読んでいました。これは少し前に大森さんと電話でお話ししましたが『バフォメット』は自分は少し敬遠するきらいがありました。今回よく読んでみてよくわかったんですけれども、これもある意味では、どうしようもないものが色々循環して、それが非常にパロディ的になっていって、どんどんファルス的になっていく。これが一九六五年に書かれ、一方では兼子さんが訳されたニーチェ論〔『ニーチェと悪循環』〕が書かれているわけですよね。以前東京藝術大学でシンポジウムをやった時に、そこに来ていた人が兼子さんへ向かってこの本を出して「これ僕ボロボロになるぐらいに読みました」といって聖書みたいに扱っていました。そのニーチェがここにも登場するんですけれども、これはニーチェそのものじゃなくてオオアリクイという動物として登場するわけです。地べたを這い回って、涎をたらして、それにオジェが鎖をつけて。オジェがいなくなったと思ったら、そのオオアリクイを引っ張って出てくるわけです。そしてオオアリクイが喋るんだけれども、それは実はオジェが腹話術を使って喋っているんじゃないかと、こんなどうでもいいような感じの伏線がどんどん貼られている。これもデパート的ですよね。何でこんな屈折したことをやるのかと思いますが、まあ完全にパロディーでしょうし、そこで永遠回帰みたいな話が出てきて、そうするとオオアリクイがグルグルグルグル高速で回転し始めるというようなことが書かれていたりする。要するに、これが聖典みたいに扱われるニーチェ論と同時並行的に出てくるというのが、まさにクロソウスキーじゃないかなという感じがするんですよね。だからもちろんコンセプトとして色んなものが引っかかって、そこに向かって我々は論理を詰めていくようなあり方でアプローチしようとするんだけれども、それだとこの変な嘘つきの爺さんみたいなものが捕らえられないんじゃないかという気もするわけです。だからfarceur〔ファルスを書く人〕みたいな側面は絶対あるんだけれども、ただそればかりで行くこともできない。一方でサド論なんか読むと、非常に理知的・論理的な世界で、破壊力があるわけですよね。その辺が同居しているのが自分としては不思議です。 あともう一つは、絵についてはいろんな人の話を聴いたり、いろんな展覧会もあって、いろんな材料が出てきましたから、それを見るとかなり早い段階から絵を描いていたことがわかります。そうすると絵も同時並行的にやってきたんだろうと。確かに一九六五年に『バフォメット』を書いて、あれで本の世界は終わりにして、あとは自註みたいな感じに入っていく。それと並行して絵が出てくるということはあるんですが、何かを終えてこっちに移るというよりも、どうしようもなく色々とやりたいことをその都度やっているというだけなんじゃないのかなという気がしますよね。 一九八〇年にポンピドゥー・センターで『ガリヴァーの最近の仕事』というクロソウスキーの催しがありました。その記録は無いと思うんだけれどすごく面白かったのね。その時に直感的にはこの人はfarceurだと思って、その刷り込みで僕は今ここまで来てるんだけれども。そこでは皆さんが今日やってくれたようにスライドを映しているんですよ。どういうスライドかというと、例えばジルスマリアにクロソウスキーが行くんですよ、家族と一緒に、今のジルスマリアで避暑旅行のような形で。ジルスマリアが何かということを知らなければ何とも思わないですよね、なんか箱根の山に登るみたい感じで。ところがジルスマリアはニーチェが永遠回帰の体験をしたというところです。そこに行って、そこもリフトがあってそれを登っていくみたいな、そういうスライドをパチパチパチパチとやって、バックでドゥルーズとリオタールがテュトワイエで喋っているんですよ。ある程度真面目な話だった。記憶がそこまで正確じゃないけれども、もっとモンタージュがされていてなぜか知らないけれど女たちのキャッキャッという笑い声が入ったりする。これは何だろうと思うわけです。なんか同居しているんですよ。一方では崇高という表現がふさわしいかどうかは別として、非常に知的なもの、真剣なものがあって、他方では徹底的にそれを脱臼させるようなものがある。ただジルスマリアというレフェランスはそこに入っていて、それが全然別の所に来ている。こういう人はちょっと僕はほかに思いつかないですね。だから、フランス文学ではバタイユやブランショなどの色々な研究会がありますが、例えばクロソウスキー研究会というのはそういう形で成立するのかな。つまりそっちのファルスの側面を取り入れないとやはりアプローチできないんじゃないかな、ということは思っていました。 女性たちのアプローチの仕方、女性たちとの付き合い方 千葉 あともう一つ付け加えると、そこにやはり女性たちの役割というのがあって、大森さんの発言があって僕はちょっとそれを考えたわけで、大森さんは今の論集ではだいたい女性の書き手が入っているから、これは標準的におかしくて、なんか修道院の僧侶たちが集まって議論しているみたいな感じになってしまったということでもあるんだと思います。そして僕はやはりクロソウスキーのことを思うと、女性たちの言っていることに刺激されたということがあるんですよ。一つはやはりオマージュを捧げるという意味でも出しておきたい名前が与謝野文子さんです。与謝野さんは『カイエ・プール・アン・タン』〔一九八五年〕と『ユリイカ』〔一九九四年七月号〕の二つで書かれているけれども、それは自分の発想には全然ないアプローチで、スリリングだったんです。それから話の中で出したサラ・ウィルソンというコートールド〔美術〕研究所の人だけれども、この人はクロソウスキーに何度も会っていて、やはりすごく詳しい。懐に入りこんでいるような形ね。女性がああいったロベルトの世界へどうやってアプローチするのかと、こっちは覗き見しちゃうんだけれど、そういう懐にするっと入っていく女性たちがいて、非常に知的でエレガントで、そういう人たちが入っていく。あともう一人ね、僕が大昔にフランスに留学していた時にベラヴァル先生のゼミにいたんだけれども、そこにユディット・ミレールという人がいた。それはラカンの娘でジャック=アラン・ミレールの奥さんなんだけれども、その人が一九八六年に『ラーヌ』〔L’Âne〕という雑誌でクロソウスキーのインタヴューをやっているんですよ。これが面白い。だからああいった女性たちがうまくかわしながらすっと懐に入っていくようなあり方というのは、一般的にはもちろん書き手で女性・男性を区別するのはおかしいと僕もそう思ってますよ、ただ、クロソウスキー場合に女性との付き合い方の中で非常に特徴的な、これがなければ成立しない何かがあるんじゃないかという気がしています。 あともう一つだけ例を出すと、そのユディット・ミレールという人が〔インタヴューの〕話の初めに、アンヌ・マリー・ルガン=ダルディーニャという研究者が一九八〇年に出したLe châteaux d’Eros〔『エロスの城』〕という本の話を出して、これはフェミニズムの見地から完璧にクロソウスキーをやっつけている本なんですよ。ほかにバタイユとかロブ=グリエとかも入ってるんだけども。その六年後に今度はクロソウスキーになびいて理解者になって、クロソウスキーに特化した本〔L’Homme aux simulacres〕を書いたんです。こういうケースはあまり無いでしょう。ある意味ではmodifier〔心変わり〕しちゃったんですよ。この引力っていうか、こういった繋がり方は何かなということは感じます。だから大森さんの考えていた女性の書き手がいなかったということとは別な反応だと思うんだけど、そんな思いで『バフォメット』を読んだということはありました。 須田 補足をしますと、アンヌ・マリー・ルガン=ダルディーニャは最初Le châteaux d’Erosという本を書いて、現代作家の男性中心主義的な眼差しを徹底的に批判しています。クロソウスキーについていえばロベルトがほとんど全裸にならず、たびたび仮装をして登場するのは、女性の身体への恐怖の表れであると言っている。私はこれはすごく鋭い読みだと思います。ところがその後に出したL’Homme aux simulacresでは一転クロソウスキーに手紙を送り、それも引用しながら、特に『歓待の掟』についてすごく詳しく、しかも肯定的に語っていて、男女の性差といった対立すらも超える可能性をクロソウスキー作品に見出すようになる。読んでいるこっちの方がまごつくというか、それでいいのか、みたいなことを私は感じました。私も今回のイベントの登壇者に男性しかいないとふと気づいた時、このダルディーニャの「ケース」について真剣に考える必要があるのではないかと思っていたので、名前を出してくださってありがたかったです。farceurとしての側面について千葉先生にもう少しお伺いしたいのですけれども、そのポンピドゥー・センターでのプロジェクションはクロソウスキー自身が演出したものなのですか。 千葉 ちょっとそれは調べてみないとわかんない。でも基本的にクロソウスキーが作っていたんじゃないかと思うんだけれども、色んな雑多要素がそこで組み合わされていて、最近亡くなったミシェル・ロンスダールという俳優がいて、とっても声がいい人だけども、彼がクロソウスキーのテクストを朗読したりね。断片的にしか覚えていないけれど非常に興味深いものでしたね。 須田 ありがとうございます。 ヘーゲルとの関係、négationとdénégationとの違い 兼子 チャットにヘーゲルとの関係についての質問が来ていたので答えてもよいでしょうか。質問された方が聞いておられるかどうかわかりませんが、今日発表したところにこういうスライドがあります(発表資料はhttps://mkaneko.jimdofree.com/archive-1/ 以下に収録)。この辺、全部すっ飛ばしてしまって申し訳ありませんけれども、バタイユとかクロソウスキーの周辺をやっている人間にとっては、この辺の年表はだいたい頭に入っているんですね。真ん中にシュールレアリスムが書いてあります。水色のところはラカンとシュールレアリスムの連中が一緒になって、バタイユもちょっと入って、『ミノトール』という雑誌があって云々という、相関図みたいなものです。一番左側にコジェーヴという名が書いてあります。これはこの時期のフランスを知る上ではほぼ必須の人で、アレクサンドル・コジェーヴという人が『精神現象学入門』を書いて、この時期に高等研究実習院〔École pratique des hautes études〕でずっと講義をしていたんですね。もちろんフランスでへーゲルの導入というのは随分前からされているわけですけれど、一九世紀のヘーゲル導入っていうのを見ると相当ひどいものです。で、この辺からまともになったということはよく言われます。 このコジェーヴのヘーゲル講義には、この表に出ている連中は皆顔を出しています。サルトル、ラカン、それからバタイユ、クロソウスキーはまだ若かったのでいたかわかりませんけれど、いた可能性があります。当然、現象学的な学問構築であるとか、例えばラカンの否定性に基づいて言語がその事物を否定するとか、それからバタイユが否定性を介在させて神的なものにつながるとか、それぞれの人がそれぞれのことを考えていく過程で、そういうコジェーヴの影響があったんじゃないかということがよく言われます。どの程度かは僕はよくわかりません。第二次大戦以降になると、新しい世代の人たち、例えばジル・ドゥルーズのような人たちは、戦前にあった現象学的学問構築、まず私があって、私が外の世界を私じゃないものとして否定性を通して認識するという、そういう否定性を介して世界につながるというような論理構築みたいなものをいかに乗り越えるか、ということをやっていく。というわけで、クロソウスキーの方はコジェーヴ的な、ヘーゲル的な否定性を介した循環ということをほぼ考えていない。むしろそれをどうやって乗り越えるか、ということを考えたというふうに考えていただければと思います。 須田 今の兼子先生の否定性のお話とも関わると思うんですけれど、森元先生はご発表の中で、クロソウスキーが拒絶の身振りを解釈する際に用いるdénégationという言葉を「否定」と訳されていましたが、あれは精神分析の「否認」とも訳せるものですね。 森元 おっしゃるとおりです。ぼんやりしていました。また、本来は精神分析との関係を考えねばなりませんでした。拒絶は承認であるという分析における「否認」の基本的なロジックがたしかにあります。ただ、今日はみなさんのお話をうかがっていたいので、それ以上いうことはありません(笑)。 支配・使用・享受、homo privatus 記号ともの、神と人間 國分 山内先生のご発表では「享受」の概念も非常におもしろかったです。山内先生は「享受」を差異化するための用語として、「使用」に言及されていましたよね。自己目的的なのが享受で、使用は他に目的がある。最近、山内先生は朝日カルチャーセンターでアガンベンについて講義をなさっていましたが、アガンベンはまさしく『身体の使用』という本の中で使用の概念を重視しながら、これを支配と区別しています。すると、支配、使用、享受の三つを比べてみることができます。 支配というのは主客が分かれている。使用というのは主客が分かれていなくて、使用の中で使用する者が発生する。更に、使用には外側に目的があるけれども、享受というのは享受することの外側には目的はない。享受することそのものが目的である。こんな風に整理できるかもしれません。 ただ、享受も重要ですけれども、『歓待の掟』の中には使用というモメントもあると思うんです。アガンベンの『身体の使用』は奴隷の話から説き起こされている本ですが、妻を差し出すというのは、あの本で描かれている使用の概念に通じるところがないでしょうか。そこでお伺いしたいのは、今日の享受の話に使用の概念を肯定的に接続することで何か言えることはないだろうかということです。僕は使用にとても関心があるので、この点をちょっとお伺いしたいです。 山内 二つだけ、私も今の奴隷の話がちょっと気になっているので触れます。ひとつはprivate man、というかhomo privatus「私的な人」という概念がありますが、これは実は公的な権力や裁判をする権力のない人で、homo privatusというのは「奪われた人」という意味です。公的な権利を奪われた人もそうですが、市民としての権利を奪われた人もhomo privatusで奴隷なんですよね。これはアガンベンが語るホモ・サケルと重なってくると思うので、ホモ・サケルとこのprivacyの問題という、内面というのをどのように公共圏の中に位置付けるのかということを調べていたんですが、なかなか思ったほどは出てこなかったので、これは宿題です。 もうひとつは使用の話なんですが、ぜひお読みいただきたいなと思うのがアウグスティヌスの『キリスト教の教え』です。その冒頭の枠組みでは、使用と享受、ある他の目的に秩序付けられたものとしての使用とそれ自体で楽しむこととしての享受が分かれるんですが、もう一つ大事な図式が、記号と〈もの〉なんですね。signumとres。res 、〈もの〉というのは享受の対象のことなんです。つまり、このsignumというのは記号ですが、もちろん聖書を意味していると同時に、この世界も一つの神の摂理の記号なんですよね。〈もの〉というのは世界なんですけれど、世界を〈もの〉として見るのか記号として見るのか、という問題が出てくるわけです。さらに、隣人愛とはこの世において愛すべきものが何なのかということですが、一見すると神様だけがものであって被造物はすべて神様を表現するための記号でしかないということになってしまうと、この世の中に愛すべきもの、享受すべきものがなくなってしまうんですね。だからアウグスティヌスのポイントは神様こそ本当に享受すべきものなんだけれど、隣人も享受すべきですよ、どうやって享受しましょうか、ということで神を通して享受するんですね。ですから第三項が必ず要るんです。つまり神様だけが愛すべきものとすると人間は記号でしかなくなってしまうんですよ。ところがアウグスティヌスは、もちろん記号なんだけれど、でも〈もの〉なんですよ、享受していいんですよ、人間というのは使用すると同時に享受すべきものですよ、そしてそれが実は自分自身に対しても適用され、最終的には自己愛にも行ってしまうんですけれども。だから使用というのは相手を精神として見るのか肉体としてみるのかという、ものの見方とも関わってきます。 使用と享受の枠組みは中世においてはすごく使い勝手があるんですけれども、近代になってくると英語にしてもフランス語にしても享受というと世俗的なイメージ、神聖さを失ってすごく日常的なものに転化していきます。そういった享受概念というものの世俗化がいつなのかというのを本当は追求すべきなのかなという気がしています。実際『命題集』は一五世紀まで註釈が多く書かれるんですけれど、一五世紀になると神学教育のカリキュラムの変化が起こってきて、『命題集』なんかやめるべきという感じで、実際やめてしまうんですよ。で、イエズス会の教科書をトマス・アクィナスの『神学大全』に代えてしまうなど、色々なカリキュラム改革の流れの中で、実は享受というのも徐々に忘れ去られていって宗教改革につながるという面があります。ですから使用概念と享受と宗教改革というのはくっついている可能性がありますね。ただ、これを明らかにするには途方もない作業が必要になり、一人ではやりきれないので、ぜひ若い人にやっていただきたいですね。 あと松本さんもいらっしゃるので付け加えると、中世のフランシスコ会というのは共産主義なんですよ。ですからマルクスは『聖家族』の中でドゥンス・スコトゥスは唯物論者であるとか言っているんです。ドゥンス・スコトゥスが唯物論者というのは言い過ぎなんですけれども、中世のフランスシスコ会が共産主義であるということははっきりしていて、フィオーレのヨアキムという人は革命論も出しているし、マルクスも実際かなり関心を持っていたといいます。思ったよりも聖霊主義が唯物論につながっていって革命論につながっていく路線は面白いし、実際に異端の運動でカタリ派や、一四世紀のウィクリフ〔John Wycliffe〕の運動、フス〔Jan Hus〕の運動に繋がっていくので、なかなかドキドキするようなテーマがある。佐藤優さんもやっていらっしゃいますけれど、掘るとまだまだ埋もれているものがあると思っています。 カントとマルクス、フーコーとのつながり 松本 山内先生のお話は大変面白いです。私からhomo privatumの問題について指摘できることは二点あります。一つがカントで、彼は人間を手段ではなく目的として扱うというかたちで近代の倫理を定式化した。そこには人権思想も流れも含まれていて、後の倫理学へと続いていったと思います。もう一つは、マルクスが考察した資本主義下の労働者です。一見したところ、資本家と雇用契約を結ぶわけなので、労働者は奴隷ではない。しかし実質的には、特に現在、労働者はほぼ奴隷と変わらない。そこに近代の歪みをマルクスは見ていたと思います。そのことと、山内先生が示された「使用」概念の世俗化という視点は、近代においてつながっている。重要なテーマです。 それからコミュニズムの思想と実践も、もちろんマルクスの独創ではありません。西欧においてしいたげられてきた民衆の解放への願望が連綿と続いていたわけで、その一つの現れとして教会もあった。そういう面があると思います。そういうヨーロッパの伝統をマルクスとエンゲルスが汲みとった。そこが重要です。クロソウスキーのユートピア思想を考えるうえで触発されました。ありがとうございます。 須田 ありがとうございます。最後に一つ質問が来ているのでそれにお答えしていただいてこの会を締めくくろうと思います。〈午前中の國分先生のお話を伺っていて「寛容の否定から歓待の掟へ」というフレーズは一聴してフーコー的であると感じましたが、フーコー思想との類似性について伺えることがあれば是非お聞きしたく思いました。〉 國分 フーコーがクロソウスキーに強く共感していたということは発表でご紹介した通りです。クロソウスキーとフーコーの関係については僕にはそれ以外のことはちょっと分かりません。ただ発表の時も言いましたが、クロソウスキーはやはり結論の人ですよね。彼は一足飛びに結論に辿り着きそれをずばっと書いた。それに対して、フーコーはその手前で、どうして今の社会がこんな風になってしまったのかを徹底的に考えた人です。両者は発想としては非常に近いところがあるかもしれません。けれどもその違いも明確だと思います。 先ほど山内さんと松本さんのお話の中に、共産主義への言及がありましたが、フランシスコ会が共産主義だというのは最高に面白いテーゼですね。神学の強烈な影響を受けたクロソウスキーが、フーリエを通じて──僕はやはりフーリエにこだわりますが──社会主義的なヴィジョンに辿り着くというのはそれほどおかしなことではなかったという気が改めてしてきました。とはいえ、それをクソ真面目に考えて全体的体系を構成したわけでもない。クロソウスキーは真面目なのか不真面目なのか分からない人というのが、今日僕が抱いた仮説です。 須田 ありがとうございます。ご質問への応答になるかわからないのですけれども、フーコーとのつながりの中で私自身ひとつ気になっているのが、クロソウスキーがタブローとモデルとの関係を語るときに用いるressemblance〔類似〕という言葉です。フーコーも古典主義より前のエピステーメーの思考をressemblanceに基づくと言っていますが、クロソウスキーは後期のタブロー論の中でタブローとモデルとの関係をそうしたものとして語っている。つまり形態的に同一だから似ているという単純なものではなく、類似関係の有無が我々の認識に先行し、どちらにしてもその根拠は後からしか見出せないような関係として捉えている。クロソウスキーは実際にフーコーを読んでいたので、そのつながりは実は彼のコミュニケーション論においても重要なのではないかと思っています。みなさん、本日はどうもありがとうございました。(ターブル・ロンドおわり)