座談=酒井隆史・水嶋一憲・佐藤嘉幸・箱田徹・飯村祥之 「『〈帝国〉』から『アセンブリ』へ、ネグリ=ハートの軌跡」トークイベント載録(丸善ジュンク堂書店オンライン/2022年3月25日) アセンブリ 新たな民主主義の編成 著 者:アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート 出版社:岩波書店 岩波書店より、アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート『アセンブリ 新たな民主主義の編成』(水嶋一憲・佐藤嘉幸・箱田徹・飯村祥之訳)が刊行された。2022年3月25日、丸善ジュンク堂書店オンラインで、刊行を記念したトークイベントが開かれた。登壇者はネグリ=ハート『〈帝国〉』の訳者の一人である酒井隆史氏と、『アセンブリ』の訳者の四氏。この20年の著者の軌跡と本書の新たな概念の射程などについて豊富な議論が展開された。紙面ではその模様の一部を載録させてもらった(「週刊読書人」2022年4月8日号)。その完全版を「読書人ウエブ」でお届けいたします。(編集部) 第1部 〈帝国〉三部作から現在までの知的推移とその時代的文脈 酒井 今回は、お招きいただきありがとうございます。せっかくそれぞれ、みずからの領域ですぐれた研究をなさっている訳者の4人がいらっしゃるので、ここでは、わたしのほうからは3点ほど質問させていただきたいとおもいます。 まず、〈帝国〉3部作から現在までの知的推移とその時代的文脈、そしてそれにたいするコメントをおうかがいできればとおもいます。 若干の基本的情報をここで示しておくと、まず〈帝国〉3部作の第1弾のEmpire(『〈帝国〉』が2000年に公刊されています。Multitude: War and Democracy in the Age of Empire(『マルチチュード』)が2004年、Commonwealth(『コモンウェルス』)が2009年。これで三部作は完結するわけですが、2012年に時局的パンフレットというおもむきのDeclaration(『叛逆』)が公刊され、それをへて今回の『アセンブリ』が2017年ということになります。 1990年代にサパティスタ蜂起からシアトルの反乱をへて勢いづいていたグローバル・ジャスティス運動とともに書き継がれていき、イラク戦争の直前に公刊された第1作目、ネオリベラルな国際秩序に対して、運動的刷新をくり返しながら目を見張る成果をあげつづけていたこのグローバル・ジャスティス運動へのまるで反動であるかのように「テロとの戦い」を掲げ日常的戦争状態を演出し、運動に沈滞をもたらしたイラク戦争の余波のなかで公刊された『マルチチュード』、そしてネオリベラリズムの正当性を崩壊させたリーマン・ショックから金融危機のなかで公刊された『コモンウェルス』と、これら3部作は大きな闘争のサイクルと歩みをともにしています。そしてネオリベラリズムの正当性の最終的解体のなかで、2011年のアラブの春からオキュパイにいたる国際的な民衆反乱の波がおとずれます。ここにいたってはっきりと、世界の民衆運動が「アセンブリ」形態をとるというパターンが可視化されました。そのなかで『叛逆』が緊急に書かれ、そしてそのうねりがいったん沈静化するなかで『アセンブリ』が公刊されています。『アセンブリ』はしたがって、この2010年代の国際的闘争のサイクルのかれらなりの総括という意味をもっています。 第1作目の『〈帝国〉』は国際的にも、そして日本でも大きな話題となり、アカデミズムサークルを超えて読まれました。わたしも実は水嶋さんをはじめとした翻訳陣にくわえてもらっていました。とはいえ、『マルチチュード』まではかろうじて読んでいたのですが、それからもちゃんと追っていたとはいえません。 それもあって、以下の質問をまずしたいのです。とりわけ、第1作で提示された、ポスト冷戦の世界秩序としての〈帝国〉というヴィジョンは、この歴史的展開のなかで保持されているのでしょうか、あるいは修正がくわえられているのでしょうか。まさにいまロシアによるウクライナ侵略という戦争が進行中の状況下で、ますますその点は気になります。 『アセンブリ』を可能にしている知的姿勢と「正真正銘の〈陛下〉」 酒井 次に、『アセンブリ』の内容についてです。当初翻訳をざっと斜め読みしたときに、若干落胆したというか、まず民主主義の「起業家」ですし……。もちろん、ポストオペライズモの系譜がネオリベラリズムの「下から」の分析を展開するなかで、こうしたネオリベラリズムの概念系に属するものがいかに闘争による発明物の奪取か、ないし換骨奪胎かをあきらかにし、そのアンビヴァレントのなかに位置づけるという方法をあみだしたことはよく知っています。そういうかれらの影響をわたしも強く受けましたし、その意図はすぐわかったのですが、あいかわらずか、という気分にもなったのです。しかし、読んでいくとかなり印象は変わりました。むしろ、かれらが運動のなかからもさまざまな批判をこうむりながら、世界のあたらしい運動の展開をみつめ、そこで論じられている争点をじぶんたちのものとし、それに対してじぶんたちなりにパースペクティヴを与え、さらにみずからをも批判的に刷新していこうという姿勢にはちょっと感動すらしました。具体的論点に立ち入るならばたくさん論ずべき点はありますが、時間もかぎられていますし、また研究者どうしの研究会とか書評会でもないので、ここでは『アセンブリ』を可能にしているかれらの知的姿勢にふれてみました。 すこしそれを本の内容から裏づけておくと、まさに本書の冒頭におかれたみじかい文章、「最も優れた陛下に」というテキストです。これはかつての古典的著述家がみずからの作品を君主への捧げ物として提示したという伝統にならったものです。ここでの「陛下」はしかし君主ではありません。「どんな困難にも怯まず立ち向かい、自由を求めて戦い続ける人々、たとえ敗北を喫しても不屈の精神で再び立ち上がり、支配の諸力に闘いを挑む人々に、あなたたちこそ正真正銘の〈陛下〉なのだ」。四部構成の本書は第四部が「新しい〈君主〉」です。ここではもちろん、マキアヴェッリ、そしてかれに独自の解釈を与えた20世紀のコミュニスト、アントニオ・グラムシの系譜が意図されています。グラムシはひとつのマキアヴェッリ解釈、『君主論』を、実は君主に忠言を捧げるいっぽうで、民衆に君主のありようを暴露してみせたという共和主義者マキアヴェッリの解釈の線上で、みずからの「君主論」を書きつらねました。そこで君主とは党、すなわち共産党でした。グラムシは党が民衆と一体であるべきであり、そうなりうることを信じていました。しかし、党への信憑はそれ以降の歴史のなかで崩壊しました。それを決定的に崩壊させたのが、みずから組織化する民衆だった。そういう展望のなかで、かれらの本のなかでは君主はついに民衆自身となるわけです。 そこで二番目の質問をしたいとおもいます。四名の訳者の方々は先ほども述べましたが独自の領域をおもちの研究者であり、かつ世代もすこしずつちがっています。そうした方々がそれぞれ、訳出の過程で、どの点をとくにおもしろい、重要であるとお考えか、あるいはなぜそれを読者のかたがたに強調したいと感じられるのか、それを教えてください。 『〈帝国〉』の指針と仮説、「空位期間」(グラムシ)の解釈 水嶋 まず、このような機会を設けてくださった皆様、ご参加くださっている皆様に感謝申し上げます。酒井さんのとても重要なお話しをお伺いしているうちに、2008年の洞爺湖サミットへの抗議活動に参加するために、マイケル・ハートとデヴィッド・グレーバーが来日したときの記憶が蘇りました。以下の考察が、酒井さんの刺激的な呼びかけ(コール)に対する一つの応答(レスポンス)になるとともに、その呼びかけと共振する、次の新たな呼びかけになることを願っております。 2000年に出版された『〈帝国〉』でネグリ=ハートは、冷戦終結後のグローバル化の過程で形成されつつある新たな権力形態を〈帝国〉と呼びました――いまや〈帝国〉が形成されつつあり、そこではグローバルな政治的諸関係が再編され、その軸足が国民国家の主権から別のものへ移されようとしている、と。そのさい、一つの指針となったのは、ソ連崩壊と中国社会主義の変容と同時に、超大国としてのアメリカ合州国の位置も変化しつつあるというものでした。 この仮説は、ネットワーク状のグローバル権力(〈帝国〉)の形成へと向かう流れに逆らって企てられた合州国のクーデタ(「単独行動主義」や「アメリカ帝国主義」)が、軍事的にも経済的にも無残な失敗に終わった(イラク戦争の惨憺たる結末とリーマン・ショック以降の世界金融危機が示すように)という事実によって一部「実証」されたと言えるかもしれません。 また、合州国の衰退と中国の台頭に伴い顕著となった「抗争的多極化」の動きも、この仮説を裏付けるものでしょう。中国の「一帯一路」構想(中国流の多極化/全球化のプロジェクト)と合州国の「インド太平洋戦略」の抗争は、そうした新たな多極化の動きを表しています。 もう一つの指針となったのは、かつて国内資本が集合的利益の長期的な保証人として国民国家を必要としていたのと同じように、今日のグローバル資本も複合的なグローバル・ガバナンスの構造を必要としているという仮説です。 これらの仮説にもとづきネグリ=ハートは、〈帝国〉の混合政体――より詳しく言えば、諸々の国民国家・超国家的諸機関(IMFや世界銀行といった)・支配的な多国籍企業群・NGO等の非国家的アクター・メディア産業やプラットフォーマー企業その他を含む、不均等な諸権力が混交し、その配役を変化させながら構成する〈帝国〉――の形成を予見したのでした。 『アセンブリ』(2017年)刊行後、新型コロナウイルス感染症によるパンデミックが発生し、ロシアのウクライナ侵攻による新たな戦争が勃発しました。アントニオ・グラムシ――その「ヘゲモニー概念」は『アセンブリ』でも重視されています――の言葉があらためて思い出されます。かつてグラムシは『獄中ノート』にこう書きつけました。「旧いものは死につつあり、新しいものはまだ生まれられない。この空位期間にはこのうえなく多様な病的徴候が現れる」と。通常、この有名なアフォリズムは、〈私たちがいまその中に置かれているのは不安定な過渡期や中間状態ではあるけれども、不安や恐怖で覆われたこの現在も、何かしら希望に満ちたより良い新しいものへの途上にある〉ということを示唆するために、引き合いに出されます。 けれども、疫病・戦争・気候変動危機などが切れ目なく折り重なっていく現在の危機的状況は、そうした楽観的な解釈ではなく、以下のような悲観的な解釈へと私たちを導いているかのように思えます。すなわち、「このうえなく多様な病的徴候」が消え去らないまま、どんどん悪化していくばかりのこの「空位期間」こそが、「ニューノーマル」なのではないか、と。 ここでは、ネグリ=ハートの軌跡を念頭に置き、またウクライナにおける戦争とグローバル・パンデミックという「病的徴候」に焦点を合わせながら、こうした「ニューノーマル」に抵抗するための理論と実践の可能性について、若干の考察を試みたいと思います。 〈帝国〉の混合政体の中でロシアとその戦争をどう位置づけるか 水嶋 ネグリ=ハートは『〈帝国〉』(2000年)で、「グローバリゼーションの時代とは、世界的な感染の時代なのである」と述べ、続く『マルチチュード』(2004年)では、ポスト冷戦の紛争や戦争を「〈帝国〉内での内戦」や「グローバルな内戦」として捉えましたが、現在も続いているパンデミックと戦争については、これまでまとまった発言を行なっておりません。 そこでまず、「ロシア・ウクライナ戦争」について、ネグリ=ハートの軌跡を踏まえた上で、彼らと同じく70年代イタリアのアウトノミア運動の流れを汲むサンドロ・メッザードラとマウリツィオ・ラッツァラートによるこの戦争への介入(ともにウェブ上で読めます)を参照しつつ、簡単な分析を試みたいと思います。[Sandro Mezzadra, “Disertare la Guerra,” EuroNomade, 2022/03/11. とMaurizio Lazzarato, “La guerra in Ucraina, l’Occidente e noi,” Sinistrainrete, 2022/03/07.(メッザードラの論考に関しては、その後、日本語訳が以文社のHPに掲載された。サンドロ・メッザードラ「戦争から脱走する」北川眞也訳、2022年4月14日。)] ロシアとその戦争は、〈帝国〉の混合政体の中でどのように位置づけられるのでしょうか? ソビエト連邦崩壊後、エリツィン政権下での新自由主義的「ショック・ドクトリン」の導入を経て、プーチン時代にロシア連邦特有の「政治的資本主義」が形成されていきました。メッザードラによると、この政治的資本主義は、主に石油・ガス・金属・食料などの原材料に関する輸出レントの独占権を「オリガルヒ」と呼ばれる新興財閥に配分する一方で、レントの一部をロシア住民にも流し込んで「合意」を調達することにより機能するものです。と同時に、この政治的資本主義は、ロシアの諸国境のみならず、シリア・リビア・サヘルへの軍事介入(とくに民間軍事会社「ワグナー・グループ」を使った)に見られるように、特有の軍拡主義を伴うものでもありました。 プーチン時代に形成された政治的資本主義の統合と拡大をその大きな要因の一つとする今回の戦争を、資本主義と共産主義の対立にもとづく「冷戦」への回帰や、民主主義と権威主義の対立にもとづく「新冷戦」の(再)開始として捉えるのは不適切でしょう。ラッツァラートはこう指摘しています。「一般に考えられているのとは異なり、この戦争の背景をなす合州国とロシアの対立は、民主主義と独裁主義の対立ではなく、多くの点で類似した経済寡頭制(オリガーキー)の対立、とくに「レントの寡頭制」の対立である〔ロシアについては先に見たオリガルヒのレント独占企業、合州国については軍産複合体と石油・鉱物・ガス複合体などのレント独占企業が想定されています〕」。 ロシアのウクライナ侵攻後、オリガルヒの海外逃亡が急増し、アルゼンチンで穀物価格が急騰したことがその一端を示すように、この戦争は「グローバル化の終焉」というよりは、金融・デリバティブ・ロジスティクスなどを含み込んだグローバルな相互依存関係の深化をあらためて浮き彫りにしたとも言えるでしょう。ネグリ=ハートの言葉を引いて敷衍すれば、「〈帝国〉とは、和合と抗争のさなかにある、さまざまの国家的および非国家的な諸権能の動的編成(アセンブリッジ)であると言えるかもしれない」(347頁)。 「〈帝国〉を下から解釈する」重要性と新たな「ニューノーマル」の構築 水嶋 少し視点を変えて、プーチンがサミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」論(1996年)の実践者でもあるという見方を付け加えておきます。ハンチントンは、「現に存在する社会主義」の終焉後、グローバルな対立軸は諸「文明」間の争いに転位すると論じました。プーチンによる「アイデンティティ政治」はこのマニフェストを実行に移したものであり、伝統的な家族や宗教、女性嫌悪や同性愛嫌悪からなる価値観を、安定と秩序の防波堤として強迫的に提示し続けることで、神話的なロシア「文明」の輪郭を描き出し、固定化することをその目的としています。もちろん、世界的に見れば、「ハンチントンの弟子」はプーチン一人だけではありません。この間、グローバル右翼のリーダーたちやそのフォロワーたちの国際連携が強化されてきたのでした。そのため、現在の戦争に抗する闘いは、こうした右翼の国際主義に対する闘いとも連結されなければならないと考えます。 これまでロシアとその戦争について、〈帝国〉の混合政体の中でいわば「上から」解釈しようと努めてきましたが、それを「下から」解釈することが決定的に重要です。『アセンブリ』では、「〈帝国〉を下から解釈すること、すなわち、現に存在する抵抗と反乱の諸力能〔=諸権力〕を把握し、育成すること……こうした視点は、国民〔=国家〕資本と国民国家の限界を超えて階級闘争を推進しようとする、プロレタリア国際主義の伝統を部分的に引き継いだものである」(350頁)と述べられています。 ネグリ=ハートが重視する、こうした「下からの」視点は、自由と平等を求めて闘う諸運動と諸力からなる、左翼の国際主義の(再)構築に通じていますが、これらの運動と力について、メッザードラはこう述べています。「今日、戦争に抗する闘いは、主にロシアとウクライナの都市の路上で、投獄や死の危険を冒してデモを行う人々によって推し進められている。またこれは、戦争から脱走し、その論理を拒否し、安全だと思われる場所に逃げ込む人々によっても闘われている。さらにこれは、ヨーロッパをはじめ、世界中で街頭に立つ何万人もの人々によっても闘われているのである」。 プーチンの全体主義体制(過去20年間にわたり、日本を含めた「西側」もこれを大枠で正統化してきました)と侵略戦争に敵対し、戦闘の即時停止とロシア軍のウクライナからの完全撤退を求めることは当然です。と同時に、〈NATOは問題の一部をなすものであって、解決をもたらすものではない〉という認識を手放すべきではありませんし、グローバルな軍拡・再軍備への流れ(および「グリーン・ニューディール」から「軍事ケインズ主義」への転換)も押しとどめなければなりません。 戦争の拡大を阻止するために必要な措置について、メッザードラはこう指摘しています。「交渉の空間が開かれ、増やされなければならない。そしてこの点については、反戦運動そのものが重要な役割を果たしうる――とりわけ、物的支援を送り、援助を提供し、難民の脱出を支え、出会いの空間を拡大することを通じ、「下からの外交」を実践することによって。……今日必須なのは戦争から脱走〔=脱却〕することだが、グローバルな枠組みの中で節合されない限り、そうした脱走〔=脱却〕の実践は実効的なものにはなりえない」と。 メッザードラによるこうした「戦争からの脱走」の提言には、近年、ハートと一緒に進めてきた地中海の移民/難民救助活動や、『アセンブリ』の一節(「移民たちは来るべき共同体であり、貧しくとも言語において豊かであり、疲労に押しつぶされていても、身体的・言語的・社会的な協働へと開かれているのだ」208頁)の反響が聞き取れます。〈逃走の権利〉と〈区別=差別なく迎え入れられる権利〉を求める闘いは、現在、主流メディアによって形づくられている、〈祖国に留まって勇敢に戦う男たちへの称賛〉/〈祖国から逃げて子供をケアする(白人)女性たちへの同情〉というナショナリズム・セクシズム・レイシズムが入り混じったスペクタクルに亀裂を入れることにもつながるでしょう。 そしてまた、メッザードラとラッツァラートがともに、1915年にスイスで反戦社会主義者たちが一堂に会した国際会議の意義を想起している点にも注目したいと思います。むろん、当時とは状況がまったく異なるわけですが、新たなかたちの「ツィンマーヴァルト会議」の開催がいまこそ求められているのかもしれません。とはいえ、今日、新しいインターナショナリズムの構築がきわめて困難な状況にあるということも認めざるをえません。しかしその一方で、「構成された」権力=列強の戦争に抗して、「構成する」平和という野心的な理念をオルター・グローバルな結びつきを通じて育まなければならないということに依然として変わりはないと思います。 以上、ネグリ=ハートの軌跡を踏まえながら、現在の戦争を〈帝国〉の混合政体の中でどのように捉えるのかという争点をめぐって、お話ししてきました。 『アセンブリ』のきわめて重要なポイントの一つは、〈帝国〉を下から解釈することの重要性を強調しながら、「現に存在する抵抗と反乱の諸力能〔=諸権力〕を把握し、育成する」ための共同プロジェクト、言い換えれば、マルチチュードの来るべき集会に向けて、読者をその参加者や協働者として呼び誘っている点だと思います。 酒井さんも引かれていた冒頭の感動的な献辞は、そうしたポイントを予示する呼びかけであり、本文を読み進めるにつれてその触発力が強まり、蔓延する無力感とシニシズムを覆して広がっていくことを願っています。 マルチチュードによる対抗権力構築の戦略/戦術の修正 佐藤 『〈帝国〉』から『アセンブリ』までネグリ=ハートが一貫して用いている概念として、「マルチチュード」があります。この概念について、導入として注解しておきたいと思います。ネグリ=ハートは「〈帝国〉からの20年」(『現代思想』2020年8月号に訳出)で、「マルチチュード」概念を階級概念と比較し、おおむね次のように述べています。新自由主義の深化による新たな労働形態、労働条件、賃金関係の出現に伴って、労働者概念はもはや一枚岩的なものではなくなっており、階級構成の新たな考察が必要となっている。とりわけ有償労働と無償労働、安定雇用と不安定雇用、合法的就労と不法就労のような労働条件の差異は、ジェンダー、人種、国籍(移民か否か)の差異を考慮することなく分析することができない。従って、階級概念は人種、セックス、ジェンダーと相互連関した「交差性(インターセクショナリティ)」として再定義されなければならない、と。ネグリ=ハートはそのような再定義を、マルクスの価値形態論「貨幣−商品−貨幣’(M−C−M’)」という定式を意識して、階級−マルチチュード−階級’(階級プライム)(C−M−C’)と定式化しています。伝統的な階級概念は、階級、人種、セックス、ジェンダーの交差性としてのマルチチュード概念を経由することで、階級プライムとして、すなわち従属的な諸主体性の内在的接合(労働者階級、人種的階級、性的階級の内在的連関)として再定義されるのです。これは、労働者の闘争、フェミニズムの闘争、反人種主義の闘争、LGBTQの闘争を単に外在的に(・・・・)接合するのでなく、それらを内在的に(・・・・)接合することを意味しています(「家父長制、人種的ヒエラルキーの打倒なしに資本主義を打倒することはできない」等々)。このように考えるなら、マルチチュードとは、過去に柄谷行人がいささか揶揄的に述べたような「有象無象」の集団ではなく、むしろドゥルーズ=ガタリ的な「横断性」と、ブラック・フェミニズム的な「交差性」を深く刻印された概念なのです。 『アセンブリ』の重要性は、フーコーの講義『生政治の誕生』における新自由主義解釈を全面的に踏まえた上で、新自由主義に対する対抗戦略を構築しようとする点にあります。そしてそうした観点から『アセンブリ』は、マルチチュードによる対抗権力構築の戦略/戦術の修正を提案しています。 『〈帝国〉』から『叛乱』に至るまでのネグリ=ハートの理論は、ドゥルーズ=ガタリの「主体集団」概念をスピノザ的仕方で再解釈しつつ、マルチチュードの自己組織化、その創造性、横断性、水平性を一貫して称揚してきました。それに対して『アセンブリ』は、「垂直性を追い払って、ただ盲目的に水平性を崇め、耐久性のある社会構造の必要性を無視してしまうの[は]、ひどい誤りである」(2頁)と述べて、マルチチュードの水平性に対する指導(リーダーシップ)の垂直性を再導入しています。しかしそれは、水平性を重視する現代の社会運動に伝統的な指導概念(カリスマ的指導者、指導者評議会、前衛党)を再導入せよ、という意味ではありません。むしろそれは、純粋な群衆性によって社会運動を展開することはできないがゆえに、適切な時期、適切な局面で意思決定を行う主体が必要になる、という意味でしかありません。 もちろん、意思決定を行う主体は複数であることが望ましいでしょうし、その主体はマルチチュードの中から出てくる必要があります。そして、そうした主体は基本戦略ではなくその時々に必要になる個別具体的な戦術を決定することで、社会運動全体に従属しなければなりません。なぜなら、認知労働が資本主義の主たる傾向をなすポストフォーディズム時代の現代において、マルチチュードは自ら労働を自律的に組織しており、それゆえ社会運動の戦略を自律的に立案する能力を持っているからです。 「起業家(アントレプレナー)」という概念をマルチチュードの形象として鍛え直す 佐藤 ここで、『アセンブリ』が提起する「マルチチュードの起業家活動(アントレプレナーシップ)」という概念が重要になります。ネグリ=ハートは、フーコーの新自由主義解釈が重視する「起業家(アントレプレナー)」——すなわち経済人として自己のキャリアを自己管理(セルフ・マネージ)する主体——という概念を戦略的に逆用し、それを新自由主義に対抗するマルチチュードの形象として鍛え直すのです。まずネグリ=ハートは、シュムペーターの「起業家」概念を参照しながら、「起業家」とは既存の諸要素から新たな社会的結合を創造する主体であると定義します。そこから彼らは、マルチチュードを、既存の諸要素の新結合によって自律的に新自由主義への対抗戦略を練り上げ、それを実行する集合的主体として再定義します。ネグリ=ハートのこうした理論化は、最初に述べたように、フーコーの新自由主義分析を踏まえた上で、そこで十全に理論化されていない新自由主義への抵抗戦略を打ち立てようとするものです。 その意味で、「マルチチュードの起業家活動」とは、ドゥルーズが『フーコー』の中で(イタリアのマルクス主義哲学者、マリオ・トロンティを参照しつつ)定式化した「抵抗は権力に先立って存在する」という命題のヴァリアントであると考えることができます。この命題は一見存在論的な命題に見えますが、実際には実践的な命題です。マルチチュードは常に権力に先立って、既存の諸要素の新結合によって新たな抵抗戦略を創造的に(・・・・)構築し、それを実践しています。それに対して、権力は事後的に、新たな統治戦略の展開によって、開かれた抵抗の場を封じようとするのです。例えば、1968年5月は学生運動と労働運動の連帯という「新結合」によって既存の資本主義体制を大きく揺さぶりました。そして、権力によるその後の新自由主義の社会全体に対する展開は、1968年5月によって開かれた新たな抵抗の場を圧殺するための、新たな統治戦略(社会的連帯を封じるための競争と個人化の展開)だったのです。しかし、ネグリ=ハートが述べるように、2011年以後の新たな闘争サイクルにおいて、新自由主義に対する新たな抵抗戦略が、抵抗のための新たな新結合と共に、マルチチュードによって展開されつつあります。そして、その闘争サイクルは現在でも様々な形で持続しているのです。この点については、後に述べます。 ラディカルなフーコー読解と採取主義批判 自由の実践としての起業家精神 箱田 本書は、2018年に始まる気候運動の第三サイクルの高まりを知りません。IPCCの1.5℃特別報告書の刊行、気候ストライキ、未来のための金曜日に代表される気候運動の世界的な盛り上がりの前に刊行されたからです。 しかし、採取-採掘(extraction)、ロジスティクス、金融という現代資本主義を支える三幅対への注目があります。二人の主な参照項のひとつは、二人の友人でポストオペライズモの思想潮流を牽引するサンドロ・メッザードラ&ブレット・ニールソンの近著『オペレーションの政治(Politics of Operations)』(2019年)の枠組みです(『思想』2021年2月号の小特集も参照)。 もちろん採取主義批判は、シアトル以降のうねりから登場したナオミ・クラインの一連の著作とも共鳴しています。他方で、アンドレアス・マルムの『化石資本(Fossil Capital)』(2016年)や、私が翻訳した『パイプライン爆破法』(月曜社、2022年)とも地続きです。 この点で本書は、気候危機と資本主義批判、ラディカルな社会運動との接続という現代的な文脈のなかで読むことができるでしょう。 別の言い方をすれば、この四半世紀あまりの対抗的な社会運動の現場における水平性と垂直性の論理の葛藤から編み出されたさまざまな手法の指摘、また具体的な実践からアセンブリの「理論」を抽出しようとする構えには、二人の一貫した姿勢が現れています。 他方、ネグリ=ハート、またマルチチュード派の議論の重要性は、フーコーをラディカルにどう読むかという、1970年代のアウトノミア派マルクス主義に遡る問題意識にこだわり続けることにもあると思います。フーコーの権力論を、いまある社会の説明原理としてではなく、来るべき社会のオルタナティブな想像力を喚起するものとして読む態度です。 『〈帝国〉』は、生政治と生権力の区別――これはフーコーにはありません――という構図を描き、そこに統治性概念を組み込むことで、マルチチュード対〈帝国〉という大風呂敷を広げてみせました。これは当時すでに強まっていたフーコーの「社会学化」という支配的傾向への強力なアンチテーゼです。解放という問題設定がなければ、こうした立場はありえません。 当時、日本語環境では、欧米の統治性研究を批判的に摂取した成果として、酒井隆史さんの『自由論』(2001年)がありました。冷戦以降の「現代思想」、すなわち批判的な社会理論、左翼の社会哲学をどのように再構成していくのかという問題意識についての同時代的な共振があったことは、今から振り返って強調しておくべきことと考えます。 さて、生政治と生権力についてのネグリ=ハートの議論のもう一つの大事な点は、フーコーの権力論と統治論を集合性の問いへと開いたことです。個人主義的に解釈されがちな「自己」あるいは「主体」の議論を、あくまでマルチチュードという「多数性」へとつなげる試みは、ドゥルーズ派のフーコー読解からは出てこないオリジナルな議論でした。 言い換えれば、新自由主義的な個人主義へと転倒された「自己への配慮」として、現状からの「転落」の恐怖に日々脅かされ、自己管理や自己啓発に励む個人とは異なる主体の形象があることを示し、個人主義的に主体を解釈するのではなく、集合的な実践を通して生成するものとして主体を解釈するのです。フーコーでいう「自由の実践」を営むオルタナティブな主体性や集合性をすでにここにあるものとして、二人は示そうとしています。 起業家という概念の使い方は訳していてなるほどと思いました。フーコー『生政治の誕生』を引いていう「自分自身の起業家」――生そのものが企業化されるので「ひとり企業家」とも表現できます――と対になる概念です。 この概念はフーコー統治性講義では扱いがやっかいです。フーコーがアングロサクソン型の新自由主義にシンパシーを持っていたのかどうかというテーマとかかわるからです。この点については、酒井『完全版 自由論』(河出文庫、2019年)の補章、箱田「真理体制概念からアナーキーな権力分析へ」『フーコー研究』(岩波書店、2021年)所収に言及があります(『フーコー研究』の関連論文も参照)。 ネグリ=ハートは、ここでもフーコーの権力論を正面から適用しています。歴史的に見れば、そもそも私たちは「起業家」になる潜在性がある。だからこそ私たちは、新自由主義的な経済人としての「起業家」にもなりうるのだ、と説くのです。 この観点に立つと、起業家論はいつもとは異なる角度から眺められるでしょう。じじつ、新自由主義のイデオロギーは私たちを日々「教育」しています。あなたがたは水平的に連帯し、結合することで、新たな関係性と自由を発明するような起業家には「なりえない」のだし、そもそも「なってはいけない」のだと。私たちはすべての苦悩を「個人的に」所有し、解決するように迫られ、そうした環境のなかでひとり企業家としてあらゆる「能力」を高めて生きるよう強いられています(ビョンチョル・ハン『疲労社会』横山陸訳(花伝社、2021年)参照)。 我々が資本の隷従や支配から相対的に自律しようと思えば、数々のことを自分でしなければならないのは自明です。ただし、ひとりで、という意味ではありません。 ここで起業家精神が自主管理概念と結びつきます。本文にも「セルフ・マネジメント」という表現があり、「自主管理」とも「自己管理」とも訳せます。しかし個人主義的な営為である自己管理に対し、自主管理は集合的実践を惹起します。この言葉は現代日本ではあまり使われませんが、様々なところで命脈を保っていますし、新たに生まれてもいます。 そうしたオルタナティブな実践なり批判的で解放的な社会運動がさらに広がっていくにはどうすればよいか? ネグリとハートにその指針を求めるのはないものねだりでしょう。二人によれば、むしろすでにその先触れや実例が存在しているわけで、そこからヒントを汲み出していくしかありません。 酒井さんも指摘されたように、社会の主人公とは、現代における君主、〈陛下〉たりうる我々であるという信念こそ、我々が道を切り開く手助けになるのだと思います。 ネグリとハートの哲学の方法 飯村 この『アセンブリ』という本が、いわゆる〈帝国〉三部作で展開されてきた内容に何を新たに付け加えたのかについて、ハートとネグリの哲学の方法という観点を交えながらお話をしたいと思います。まずこの本は2010年代のグローバルな対抗運動の総括から始まります。より明確にいうなら、こうした2010年代の運動の中で生み出された、リーダーがいないという意味で水平的なかたちの組織には、何をなしとげることができて、何をなしとげることができなかったのか。こういった問いがこの本の始まりに置かれています。 この問いがどういうふうに生まれてきたかを知るためには、ひとまず2009年に彼らが発表した『コモンウェルス』という本に戻ってみるのが有益だと思います。ここでハートとネグリは、かつてスピノザが論じた政治体制の定義を明らかに意識しながら、代表制民主主義がその名前とは裏腹に一種の貴族制なのだと指摘して、そうした階層構造に代わる平等者たちによる民主制こそ目指さなければならないと述べています。この代表性批判は、エルネスト・ラクラウやシャンタル・ムフのような人々が提唱する左翼ポピュリズムが代表性民主主義のメカニズムを温存していることに対する批判として展開されていて、こういった批判そのものは納得できるし意義あるものなのですが、彼らの用意した代案が決定的に弱いものだったのは事実です。『コモンウェルス』の中で、ハートとネグリは、階層秩序に基づかない、平等者による民主制について、「その意思決定はどのようにして下されるのか?投票は行われるのか?そうした民主制の構造や機能について、私たちはまだ明確に述べることはできない」と率直に言っています。こうしたところからも明らかなように、この2009年の時点で彼らが手にしていなかったのは、階層構造に基づかない組織はどのようにして民主的に意思決定ができるのか、言い換えるなら、水平的な組織はどのように意思決定するべきかという問いへの答えでした。 もっとも、私たちが読者として注意しなくてはいけないのは、『アセンブリ』への日本語版序文にもあるように、ハートとネグリは「まるですべての答えを知っているかのように、活動家たちに講釈を垂れたり、なすべきことを命じたりするつもりは毛頭ない」ということです。つまり、彼らは民主的な意思決定はどのような形でなされるべきかといった問いに答えを与えようとしているわけではないし、私たちはこうした問いへの答えを彼らの本に見つけ出そうとしても仕方がないということです。ハートとネグリの仕事はむしろ、最も良い意味で哲学に踏みとどまろうとしてきたと思います。ここで哲学という言葉で私が念頭に置いているのは、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリが『哲学とは何か』という本で述べていた、概念を創造することとしての哲学です。ハートとネグリの仕事は、富裕なエリートによる貴族制としての代表制民主主義を批判するかたわらで、それを「良き統治」へと矯正する仕組みをつくろうとか、せめてまともな統治者を選ぶことにしようとか言うのではなくて、代表制民主主義とは全く異質な民主制の概念を創造しようするものです。 平等者による民主制という、あくまでも概念です。かといって、この概念は全く空想的というわけではありません。私たちそれぞれには自律的に集合を形成する能力があるし、しかもそういった能力を実際に使いながら毎日社会生活を営んでいるじゃないか、というのが彼らの民主制概念の根拠になっています。どういうことかといえば、現在の労働では、誰もが多かれ少なかれ、トップダウンで上から降ってくる指令に基づくことなしに、自律的に人間関係を結んで協力して働くことを求められているわけです。そんなの一部のホワイトカラーだけの話じゃないの、と思われるかもしれませんが、経験に引きつけて考えてみると意外にも自律性があらゆる労働に浸透していることに気づくと思います。例えば、私もそこそこの貧乏学生なので、ごく最近まで流通倉庫のパート社員としてブルーカラー的な労働をフルタイムとほぼ同じ時間でやっていたわけですが、こうなるとつねに求められるのが、仕事内容の分担や時間配分を同じようなパート社員同士で相談して決めることです。もちろん時には管理マニアみたいな上司もいるかもしれませんが、そういう人たちは上からも下からもおよそ評判が良くないというのを身近で見ている方も多いと思います。要するに、私たちは労働の中で、自律的な集合形成と意思決定の能力を使うように日々迫られているわけです。 ハートとネグリの民主制概念の基礎には、このように私たちが労働の中で間違いなく発揮しているポテンシャルが、ただの労働の道具というだけではなくて、むしろ新しい民主制を生み出すための素材になるのではないかという洞察があります。彼らの民主制概念が空想的ではないというのは、このように少なくとも私たちがすでに素材を持っているという意味においてです。こう考えると、例えば現在の日本の政治システムを温存したまま、よりまともな統治者を選ぼうという提案の方がよほど空想的であるということがわかります。というのも、選ばれるべきまともな統治者という条件そのものが欠如しているわけですから。 さて、ハートとネグリは概念を創造しますが、それは同時に問いを残します。つまりここでは、私たちが確実に持っているけれど、労働の中で飼い慣らされてしまっているこのポテンシャルを、実際どうやって民主的な意思決定の仕組みへと加工するのかという問いです。でも、こうした理論の空白を埋めるのは哲学者の思弁ではありません。むしろ、ハートとネグリに言わせれば、現実に生きる人々の活動の中こそが空白を埋めてくれます。そして、2009年の『コモンウェルス』では開かれたままにされた問いへの回答を、彼らは2010年代初頭のグローバルな闘争の中に読み取りました。そこでは、リーダーなしの水平的な組織化と意思決定が具体的に行われていたわけです。このように、哲学は概念を問いとして投げかけて、人々の実践がそれに答える、というか少なくともそこに答えを読み取るというコール・アンド・レスポンスの運動が、ハートとネグリの哲学を貫く方法だと言えると思います。そして、それはドゥルーズとガタリが示した、概念創造としての哲学を実践する一つの形でもあると思います。 『アセンブリ』の出発点となる問いと「戦術的指導(リーダーシップ)」の必要性 飯村 さて、2010年代の運動の中でほとんど答えが与えられたようにも思えましたが、このグローバルな闘争の大波は比較的短い期間押し寄せたあと、消滅してしまったわけではないにせよ、沖合に遠ざかってしまいました。そして民主的な意思決定の仕組みもまた、持続的な制度を形成することなく遠くに去ってしまいました。ここでハートとネグリはさらに問いを発展させる必要に迫られたわけです。そうして生まれてきたのが『アセンブリ』の出発点となる問いであり、とりわけ水平的な組織は何をなしとげることができなかったのかという問いです。『アセンブリ』の第一章で強調されるのは、組織は水平的な意思決定だけでは反動的な攻撃から身を守ることができないということです。あるいは序文の表現を使ってより一般化して言うなら、水平的な組織は「その緊急性と技術的な性質ゆえに、さまざまな種類の集権的な意思決定を必要とする問題」に対応できません。要するに、水平的な組織はより緩やかな時間性を持った戦略的なことがらについて意思決定することができるにしても、こうした差し迫った脅威に対処する「戦術的行動」をになうことができないということです。 そこでハートとネグリが新たに提示する概念、おそらく『アセンブリ』の中で最も重要な問いを提起する概念が「戦術的指導(リーダーシップ)」です。とはいえ、私たち読者が注意しなくてはいけないのは、これもまたあくまで概念だということです。彼らは「戦術的指導(リーダーシップ)」の必要性を概念的に導き出していますが、それをどのように発明するかという問いに『アセンブリ』の中で答えが与えられるわけではありません。それというのも、頭の中で作り出された解決を実践に押しつけるのではなく、解決は実践の中でのみ与えられるというのが彼らの唯物論だからです。本の中で手頃な答えが与えられて、私たちはそれをただ遂行してやればよいというのではなく、この『アセンブリ』という本の読者として、私たちが読み取らなければならないのは、むしろ問いであり、また彼らが問いをどのように発展させているかです。私たち読者はハートとネグリが提起した概念を、あるいは問いを引き受け、実践の中で理論的解決を見出すように駆り立てられているのではないでしょうか。このあたりの読者を協働へと誘っていくスタイル=文体というのが、この本をはじめとしてハートとネグリのこれまでの仕事にも共通する最も重要な部分なのではないかな、というのが訳しながら考えていたところです。 第2部 『アセンブリ』をどうわたしたちのものにしていくのか 酒井 ありがとうございました。どれもとても重要な論点だとおもいます。結局、『アセンブリ』も分厚いですし、ここで90分かそこらで全体像を提示することはむずかしいわけですが、4名の方々のそれぞれの視点から、その一端がみえてきたとおもいます。 ネグリ=ハートが哲学に踏みとどまろうとしているという飯村さんのお話はなるほどなと思います。そのことを私たちがどのように受け止めて考えていくか、ということもこれからの重要な問いになるでしょう。 そのうえで最後の質問です。この本を日本語圏でどうするか、というポイントです。 この本は2010年代の経験のあるパースペクティヴからの凝縮という特徴をもっているわけですが、とはいえ、時代的条件を世界と共有していたとはいえ、ここで交わされる争点の多くが、それほど日本語圏では共有されているとはいいがたいものがあります。とくに、2010年代にはむしろ、日本では福島第一原発事故のあとに沸き起こった反原発運動の爆発が、とりわけ一部の東京中心のメディアとそれと親和的な知的階層の言説のなかで、ときに敵対的にいわば「アセンブリ」的モメントが排除されていきました。日本でも現存の秩序のありように批判的な人々のなかで、たとえほとんど自動的な「ブルジョワ民主主義」批判にとどまっていた場合にせよ、いま民主主義とされているものに疑義を呈し、本当の民主的である社会とはどのようなものかを課題とする気風が支配的だったのは遠い昔のことではありません。運動は代表制政治に現実的にはどこかでつながるにせよ、そうした政治に回収されることを拒み、自律的であろうとしていました。そういう機運からわたし自身、おおきなものを学んできたのです。世界的にはそうした感覚がより発展させられ「アセンブリ」というひとつの強力なイメージがあらたなかたちで提出されました。「われわれは未来のイメージである」という長年のスローガンが世界で実質化されていったようにみえました。たとえそのあとに本書で検討されている課題を残したとはいえ、まさにその課題を残したことこそに意味があるとおもいます。 ところが、日本語圏では、2010年代を通して、民主主義といえば、もはやあらゆる領域において代表制(しかもかくも非民主主義的な小選挙区制の現存代表制)と等しいものと観念されるようになったようにみえます。もしこのようなもはや機能しないイデオロギーでしか民主主義が把握されていなければ、この本で論じられているほとんどの主題が世界のさまざまな場所で熱く議論されている論点であることもみえなくなり、アカデミックに「理解」されるべきセオリーとされてしまうかもしれません。 そこで3番目の問いですが、そうしたなかで、この本をどうわたしたちのものにしていくのか、あるいはそうした問い自体が成立しないのか、この点についてどうお考えでしょうか? 世界史的な観点での議論の意義 箱田 難しい問いです。本書を理論的に学ぶべきものとして捉えることもできますが、日本でも現在、たとえば移民や移住者の問題で、難民申請者や仮放免者、技能実習生や非正規滞在者などの当事者運動がいくつも起きています。そこで提起されている問題や取り組まれている実践は、他の国と共通するものだし、本質的なところを突いています。そこで提示されているような課題や問題にたいして、理論の側がどう応答するのか、また通時的かつ共時的な他の問題へとつなげていくかを考える上で、『アセンブリ』のような世界史的な観点での議論は重要なステップになると思います。 気候運動でも、高校生の原有穂さんや大学生の酒井功雄さんが、2021年のグラスゴーCOP26(気候変動枠組み条約第26回締約国会議)の報告会で発表された内容を聞いたのですが、とても素晴らしいものでした(https://www.kikonet.org/event/2021-12-11)。お二人は自分たちの体験と実践を直接的に世界に接続しています。なぜ日本ではこうではないのか、私たちはもっと怒っていいのではないか、という疑問を、身をもって感じて日本に持ち帰ってきてくれています。もちろんグローバルサウス、インターセクショナリティ、植民地主義批判といった課題や認識は当然のことです。そうした話を聞くにつけ、もちろん大いに励まされるわけですけれども、それと同時に、日本における社会思想史や社会哲学の議論は、なんというかずいぶん世界の趨勢と悪い意味でズレまくっているなと身につまされるものがあります。 どのような道筋で議論を作っていくのか、また運動に応答していくのかという点で、本書が貢献できることはいくつもあるのではないかと思います。 水平的、横断的に結びつく周縁=マイノリティの運動 佐藤 確かに、日本における2011年以後の闘争のサイクルは、東京=中央における反原発運動や、反安保運動に見られるように、最終的に垂直主義=議会主義に収斂した部分があります。原発再稼働阻止も安保法制の成立阻止も明確な議会内の政策イシューであり、運動が政党への働きかけを通じて自己の主張を実現しようとしたことはむしろ自然な流れとも言えますが、そのような流れの延長線上で、「中道の過激主義」(『アセンブリ』第13章を参照)、つまり中道リベラルイデオロギーの支配的言説化が起こっていることは事実でしょう。その結果として、「下からの民主主義」と脱原発を掲げて結党された立憲民主党は、いつの間にか(電力総連、電機連合によって主導された)連合による「上からの指導」と原発推進路線に飲み込まれて、政党としての存在理由(レゾン・デートル)を自ら喪失しつつあります。このような日本の社会運動の流れを、M15運動やオキュパイ運動(反資本主義運動)、アラブの春や香港の雨傘運動(体制変革運動)、Black Lives MatterやNi Una Menos(マイノリティの社会変革運動)のような2011年以後の世界的な社会運動の流れと比較するなら、2011年以降の日本の社会運動が、議会主義を超える予示的政治と体制変革運動を引き起こすことに失敗したことは残念だと言わざるを得ません。そのような意味で、日本の運動においては水平主義のさらなる展開が必要である、という点には完全に同意します。 ただその上で付け加えたいことは、日本における2011年以後の闘争サイクルは、決して終わってはいない、ということです。例えば反原発運動を例に取ってみれば、確かに、原発再稼働に対する東京住民の運動、すなわち中央=マジョリティの運動は、福島原発事故後はじめて原発再稼働を主導した野田民主党政権の終焉に伴って終息してしまったように見えます。しかし、それは単に運動の主体が見えやすい舞台から不可視化されただけであって、福島の原発事故被害者、避難者らの運動、すなわち周縁=マイノリティの運動は、現在もさまざまな形で継続しています。加害者である国と東京電力に対する訴訟や、行政に対する様々な抵抗の実践を通じて、多くの運動が水平的、横断的に結びつき、国家によって奪われた人権を取り戻すために今も執拗な抵抗運動を続けているのです(ひだんれん[原発事故被害者団体連絡会]、生業訴訟などを参照)。原発事故被害者、避難者らの運動は、コスト=ベネフィット分析に基づいて被曝限度量を年間20ミリシーベルトに引き上げ、それを通じて福島住民の人権を20分の1に縮減しようとする新自由主義権力に対する闘いであり、日本各地の強制避難者、区域外避難者、福島への残留者、帰還者らが、その立場の差異を超えて連帯する横断的、水平的な闘いです。また、各原発立地地域の再稼働反対運動も、やはり周縁=マイノリティの運動として、様々に異なった立場を超えた横断性、水平性を実現しつつ、執拗に展開されています(各原発立地地域で展開される、原発差し止め訴訟や住民投票運動を参照)。中央=マジョリティの運動とは異なったリアリティを持つ周縁=マイノリティの運動を考慮することで、2011年以後の社会運動と「アセンブリ」に関するもう一つの側面が見えてくるのではないでしょうか。 「選挙論的転回」をめぐる議論 飯村 世界的な議論の日本語圏での共有の立ち遅れについては、まさにその通りだと思います。もちろん、海外の重要な議論の日本への紹介は活発になされていて、例えば、政治理論、社会組織論が専門のキア・ミルバーン『ジェネレーション・レフト』の邦訳が刊行されましたが、これはとても重要な論点を含んでいると思います。日本でもかなりの反響がありましたが、一方で、日本での受容のされ方については読んでいて思うところもあります。例えば、同書の第4章で、2010年代の運動を総括し「選挙論的転回」を迎えたという議論がなされています。先ほど佐藤さんが日本についておっしゃったように、こうしたグローバルな運動の一部は、代議制民主主義、議会主義に収斂しました。そして、このように2011年に頂点を迎えた運動の波は、2014年から2016年にかけて、選挙政治に突破口を見出すことで生き延びたのだというのが「選挙論的転回」という見方です。 この「選挙論的転回」という分析、あるいはこの現象そのものの評価については、ひとまず措くことにします。しかし果たして、日本で「選挙論的転回」が問題になりうるのか、という疑問があります。というのも、世界での「転回」との同時性ということで、私はとりわけ特定秘密保護法や安保法制をめぐる2014年頃から始まった決定的に重要な動きを念頭に置いていますが、ここでのデモというスペクタクルへのメディアやその他の言説における注目は、議会というもう一つのスペクタクルへの注目と密接に結びついたものであり、背後にどのような脈流があるにせよ、こうした運動はつねに「選挙論的」にのみ理解されてきたのではないかと思うからです。こうした、そもそも議会主義に閉じ込められている日本の民主主義への想像力を考えたときに、選挙政治への「転回」は問題となりえるのでしょうか。一方、この極めて「選挙論的」な日本の文脈で、草の根的な潜勢力に目を向けることは民主主義の可能性を拡げることになると思いますし、そのための手がかりが『アセンブリ』には含まれていると思います。ハートとネグリの概念に触発されつつ、まずは代表性民主主義の中にリジッドに制限されてしまった私たちの民主主義概念を拡張してゆくことこそ、この本を私たちのものにするということなのだと思います。 「二重生権力」と結びついた〈コモンのケア〉 水嶋 酒井さんから提起された「この本を日本語圏でどうするか」という重大な問いへの直接的な応答とはならないかもしれませんが、新たな「〈帝国〉内での内戦」へと続いていったグローバルなパンデミック状況下において、「下からのニューノーマル」をどう構成していくのかという視点から、先ほどの続きをお話しさせていただきます。 いまや主流メディアの焦点は、疫病から戦争にすっかり移り変わってしまったように見えますが、いうまでもなく現在もパンデミックは続いています。 新型コロナウイルス禍は、それなしでは私たちの「共にある生(ライフ・イン・コモン)」が成り立たない共有・共通の基盤、換言すれば、「コモン」に対する脅威にほかならない、と指摘できるでしょう。逆にいえば、いまなお進行中の疫病は、そうしたコモンの脆弱性や不安定性を露わにするとともに、それに対する「ケア」の必要性を改めて浮き彫りにするものとしても捉えられるわけです。 こうした〈コモンのケア〉は、スピリチュアルな癒しなどではなく、「二重生権力(デュアル・バイオパワー)」という概念と結びついたものです。この点について考えるために、マルチチュードの「武器」をめぐり、ブラックパンサーとロジャヴァ(シリアのクルド人自治区)についてふれられている、『アセンブリ』の該当箇所を引いておきます。 「〈政治権力は銃身から生まれる〉という有名な格言は、順序と優先順位を取り違えている。真の武器は、社会的・政治的な力、換言すれば、私たちの集団的主体性の力から生まれ、成長していくものなのだ。……ブラックパンサー党員たちの力は、銃の誇示にではなく、無料朝食プログラムや無料ヘルスクリニックといった社会プログラムの構築に存していたのである。……ロジャヴァのクルド人コミュニティもまた、戦争の真っ最中に、新しい社会的諸関係を創出し、「民主的自律性」の形態を発明しながら、例えば、各ポストに男女一名ずつ二人の代表者を置くといったかたちの統治評議会を設立しているのである。このように混沌と暴力の極端なケースにおいてさえも、真の力は、古い社会秩序を変革し、新しい民主的な生の諸形態を創造するコミュニティの能力に存するのだ」(354-356頁)。 ネグリの英訳者でもあるアルベルト・トスカーノは、そのパンデミック論の中で、同じくブラックパンサーのコミュニティ実践を高く評価しつつ、「私たちの集合的な健康・衛生への欲求を国家への欲望から切り離す」ような「二重生権力(デュアル・バイオパワー)」の重要性を提起しています。二重生権力とは、「国家と資本が放棄してきた、あるいは耐えられないほど排他的〔=排除的〕なものとしてきた社会的再生産の諸側面を、住宅から医療まで、政治的に領有する集合的な試みなのだ」 と[Alberto Toscano, “The State of the Pandemic,” Historical Materialism 28 (4):3-23 (2020)]。 このように〈コモンのケア〉は、〈社会的再生産の諸側面を政治的に領有する集合的な試み〉とも〈下からの民主的生政治〉とも言い換えられるものです。 さまざまな闘争のあいだの交差性を織り上げていく戦略 水嶋 コロナ禍の最中に再起動したBLM(ブラック・ライヴズ・マター)運動も、「ブラックパンサー党員たちの力」を新たな情勢の中で受け継ぎつつ、「古い社会秩序を変革し、新しい民主的な生の諸形態を創造するコミュニティの能力」を更新する実験のための道筋を開くものでした。 BLM運動がもたらした重要なレッスンの一つは、労働者階級の闘争+フェミニストの闘争+反人種差別闘争+LGBTQの闘争+……というふうに、それぞれ別個の闘争を外的なやり方で付け加えていく戦略よりも、さまざまな闘争のあいだのインターセクショナリティ(交差性)すなわち内的な連帯を織り上げていく戦略の方がはるかに重要であるというものです。しかも後者の戦略は、階級概念の練り直しにも通じています。 ネグリ=ハートは――佐藤さんも言及されていた、『〈帝国〉』刊行20周年を記念して書かれた論考の中で――、多数多様な闘争や運動が内的に連帯して結びつく、そうしたインターセクショナリティのプロセスのただ中で変容させられ、増強された階級のことを、「階級プライム」と呼び直していますが、階級概念のこうした再考は重要な示唆に富むものと思われます。 個々のアイデンティティ政治をたんに足し算していくのでもなければ、ある状況において支配的な役割を演じるアイデンティティが他の諸々のアイデンティを媒介・包摂していくのでもなく、諸闘争間の交差と連帯を通じて節合された新しい階級政治、言い換えれば、「マルチチュード的階級」による「多数多様性の政治」を創出しなければならないのです。 これまでお話ししてきましたように、「上からのニューノーマル」(戦争・終わりなきパンデミック・差し迫った気候変動危機などからなるもの)に抗して、「下からのニューノーマル」を構成していくこと(ネグリ=ハートの言葉を引けば、「下からの〈共(コモン)〉の自律的組織化」を実現・拡大していくこと)が、『アセンブリ』を私たちの本にしていく上での一つの重大な課題になるのではないかと考えています。 酒井 皆さんとこういう話をしたかったので、時間があれば一つ一つの議論を掘り下げていきたいところです。たんに海外で話題になっている本を、翻訳して流通させただけでおしまいにせずに、その議論を私たちの欲求・欲望やパースペクティヴに、批判的でも、多少ぶつかってでも、導入するにはどうすればいいかということを考えていきたいですね。どうしても翻訳をやっていると、本を刊行したらそれで終わり、ということも多いです。翻訳者としていつも悩むところですね。しかし、ネグリ=ハートの本はそういう類の本ではないでしょう。いま議論を作るために単純化している論点がありますが、皆さんのお話にもあったように、日本語圏の議論も複雑で、国内外のいろいろなところで、私たちの欲求・欲望、希望が共鳴していると思います。『ジェネレーション・レフト』ではジェネレーションの「爆発(ファイアー)」が起きるという話もしています。そういう出来事をどういうふうに語るかは別にしても、その根っこを探ると、資本主義経済の末期的状況の中で、形にならないけれどもいろいろな欲求・欲望が蠢いています。今日の皆さんのお話は、日本語に翻訳して日本語圏で議論や運動を作っていくことを考える上でとても参考になりました。 [司会:押川淳氏(岩波書店)](完全版おわり) ★アントニオ・ネグリ=イタリアのマルクス主義哲学者、元パドヴァ大学教授。1933年生まれ。 ★マイケル・ハート=アメリカの政治哲学者、比較文学者。デューク大学教授。1960年生まれ。 ★さかい・たかし=大阪公立大学教授、社会思想・都市史。著書に『通天閣』など。1965年生まれ。 ★みずしま・かずのり=大阪産業大学教授、メディア文化研究・社会思想史。著書に『コミュニケーション資本主義と〈コモン〉の探求』(共著)など。1960年生まれ。 ★さとう・よしゆき=筑波大学准教授、哲学/思想史。著書に『三つの革命』(共著)など。1971年生まれ。 ★はこだ・てつ=天理大学准教授、思想史。著書に『フーコーの闘争』。1976年生まれ。 ★いいむら・よしゆき=筑波大学特任研究員、思想史。1991年生まれ。