――緊急事態条項をめぐって―― 論潮〈4月〉 中村葉子 三月二三日に行われたウクライナのゼレンスキー大統領の国会演説に対して、自民党の山東昭子議員は、祖国のために戦う勇気に感動したという発言をして問題となった。「お国のために戦う」ことを賛美することは、現職の議員であるにもかかわらず、愛国心を煽り、平和主義を逸脱する発言となるからだ。過去に自民党の片山さつき議員は憲法改正にむけた自身の思いとして、「国があなたに何をしてくれるかではなくて国を維持するには自分に何ができるか」を考えようとTwitterに投稿している。国家存続のためには「国民」は耐え忍び、諸権利を放棄せよと言わんばかりである。このような発言は、いま自民党が改憲によって新設しようとしている緊急事態条項の危険性を想起させる。緊急事態条項はまさに国家の存続と「国民」の人権を秤にかけて、前者を優先させるものだからである。現在、憲法審査会が開かれ本格的に審議に入っており、また夏の参院選で改憲勢力が三分の二に達する勢いの今、九条改憲、緊急事態条項創設が大きな政治的イシューとなっている。 昨今の改憲派の論調は「危機」をことさら強調することで改憲を正当化する。たとえば『中央公論』(4月号)の対談「「危機対応」への喫緊の課題」を読むと、日本は縦割り行政のために「危機対応能力」が低いので、「危機」への迅速な対応のための中央集権化が必要であると言う(御厨貴)。感染症対応の遅れは厚労省と都道府県知事との連携がないことが要因であり、「司令塔が強い権限を持って現場を動かす体制に切り替えることが不可欠である」、とされる(鈴木亘「医療崩壊の原因を「国会事故調」で総括せよ」同誌)。感染症や災害を巡っては迅速な対応をとる必要があろうが、この点をもってして、なぜ憲法改正に踏み切る必要があるのか。しかし次に展開される論議を見ると、なるほど改憲の意図がすけて見える。例えばコロナ禍でなされた飲食店への休業要請などの「私権制限」は感染予防対策としてあったはずだが、それが「社会秩序の維持」、「公共の利益」を守るために必要であるという文脈にすり替えられることで、有事に備えて憲法を改正することにまで拡大解釈されているからである(松川るい、鈴木一人)。自民党憲法改正草案にもある「公益及び公の秩序」はまさに使い勝手の良いマジックワードである。このようなさまざまな次元の「危機」を煽ることによって改憲を進めようとする姿勢は、これまでの有事法制の成立過程に通ずる常套手段である。小林節は国民には改憲アレルギーがあるので、コロナ禍に乗じて緊急事態条項という変えやすいところから改憲していこうとしている、と分析する。しかしこの緊急事態条項がことさら危険な理由は、総理大臣の行政権に加えて立法権、財政処分権、地方自治体や国民に対する命令権を持っていることから、ナチスの全権委任法のように独裁に向かう可能性があるものだからだという(「ナチスの全権委任法と同じ自民党の緊急事態条項」『マスコミ市民』(3月号)。あらためてこの条項はいかなるものか参照しておきたい。緊急事態条項は戦争・内乱・自然災害など平常時の統治機構をもってしては対処しえない非常事態において、国家の存立を維持するために憲法の効力を一時停止して、非常措置をとる権限をいう。しかし一時的に政府に強度の権力集中と、人権の制限を図るものであるから、権力の濫用の危険性が高く、基本的人権の尊重と権力分立を旨とする立憲主義体制を根底から否定するものであるとされる(永井幸寿『憲法に緊急事態条項は必要か』岩波ブックレット、二〇一六年)。 『現代思想』(4月号)の憲法特集において、石川健治は昨今の改憲論議が立憲主義の原則であるところの国家の権限を制約し、人権保障、権力分立を根底から覆すものだと批判する。「憲法規定を新設すればするほど、我々の自由は窒息していく。こうしたコンテクストのもとで、目の粗い日本国憲法を批判し、規定を増やすことで立憲主義を実現できると考えるのは、倒錯としか言いようがない。」立憲主義はそもそも国家に権力を与えるものではなく、それを縛るものなのである。(「例外のないルールはない、が」)。さらに同憲法特集の石田勇治と木村草太の対談では、ドイツの民主的であるとされたワイマール憲法が緊急事態条項を組み入れたことでナチズム体制へと傾斜した歴史過程を振り返る。ワイマール憲法はそもそも大統領と国会の権力分立を前提としていた。しかし国会における左右各党派間の対立ゆえに国会では法律が制定されず、大統領が緊急令(緊急事態条項にあたるもの)を乱発し法令が定められていく。時の大統領ヒンデンベルグはいまだ第一党ではなかったヒトラー率いるナチ党と他の保守党派とともに連立政権を承認し、ヒトラーを首相に任命。そこに議事堂炎上事件をきっかけとしてまたも大統領緊急令が出され、ヒトラー政権に立法権をあたえる全権委任法(授権法)が制定される。こうして立法を意のままにできる権利をえたことで、その後のナチズム体制が確立されていく。この歴史から鑑みるに緊急事態条項は、国会が立法機関として機能しなくなること、また政府が立法権を行使できてしまう点に最大の問題があるというわけだ(「歴史に学ぶ緊急事態条項の危険性」)。さらに戦後になってもなおドイツは東西冷戦を理由にワイマール憲法と同様の国家緊急権が定められた。その際にシュレーダー内相は「例外状況は執行権の秋である」として、緊急事態には執行権が前面に出る時だと訴えた。しかし同時に過去の反省から、権力の濫用を防ぐ「抵抗権」もともに規定された。ひるがえって日本の場合は、これまで緊急事態条項は明記されてこなかったが、大日本帝国憲法下での統治権限の大半が軍に移行した戒厳大権や、天皇一己の判断であらゆる権利や自由を停止できた非常大権へと通ずるものである。それゆえ緊急事態と称される状況で執行される権力は、それ自体が憲法秩序(遵守されるべき人権)を丸ごと奪い、転覆していく暴力を持っているのである。長谷部恭男はカール・シュミットの『独裁』における分類に則ってこのような転覆的な権力について述べている。「危機に対応するための「委任独裁」として設定されていたはずのワイマール憲法第四八条を根拠に発せられた緊急令がいつの間にか憲法制定権力として振る舞うヒトラーの「主権独裁」へとすり替えられていた」(『ナチスの「手口」と緊急事態条項』集英社、二〇一七年)。つまり一時的な権力であったものが、いつの間にか自らが新たに憲法を制定するものとして台頭してくると言うことだ。このような抜本的な憲法改正を行う恐れのある緊急事態条項は、震災や感染症を機に導入されようとしている。多くの識者が指摘するように、それらの「危機」は既存の憲法や法律(参議院の緊急集会、災害対策基本法など)で対処できるにもかかわらず、である。この点を踏まえると現政権はより強い権力の発動を企図していると考えられるのである。佐藤嘉幸は、アガンベンの「例外状態」を参照しつつ思想史の範疇で長谷部と同様の視座を提起している。「政治を戦争から、すなわち例外状態から定義することによって、平和憲法を基礎とした立憲デモクラシーのシステムを停止し、そこに全く別のシステム、つまり対外戦争を可能にするシステムを構築すること、これが東日本大震災と福島第一原発事故以後の日本における立憲デモクラシーの危機の本質である」(「立憲デモクラシーの危機と例外状態」、『思想』二〇一四年一二月)。「危機」=「例外状態」を盾に現れ出る権力に、立憲主義的規範は介在しないのである。(なかむら・ようこ=大阪公立大学客員研究員・社会学) <週刊読書人2022年4月8日号>