――迂遠な道程を辿りながら見出されていく歩み―― 文芸〈4月〉 栗原悠 青木淳悟「ファザーコンプレックス」 、早助よう子「アパートメントに口あらば」 著者自身が、初めての私小説を三人称で書いたと面妖なツイートをしているのを目にし、今月の文芸誌のなかで真っ先に読んだのが、青木淳悟の「ファザーコンプレックス」(『新潮』)だった。無論、三人称の私小説に反応したのではなく、自他のさまざまなテクストを織り込みながら創作してきた著者が敢えて私小説と言うからには、まずはその企図に乗ってみたいと思わされたのである。 さて、小説家・合田春吾と父・章三の関係をめぐる本作は、章三が密かに描き溜めていた珍妙なモチーフの絵画に関する挿話などから、たしかに著者自身の履歴を下敷きにしたと察せられる。その父は画風よろしく変わり者で世俗に馴染まない人物なのだが、還暦過ぎに病を得、春吾と妻・しづ子らの「世話(ケア)」(ご丁寧にも原文にルビが振られている)になりながら暮らしていく。ただ、本作の魅力は、世間の家族像に悩みつつも、西武池袋-新宿線間の街道をうねうね往来し、共に吃音を抱える父子が自らの言葉を選び取っていくように、迂遠な道程を辿りながら合田家自身の歩みが見出されていく点にある。それは今日的な負う/負われる人間関係への問いと無縁ではあり得ない一方、別の価値観の模索と見受けた。また、(描かれた人物は似ておらず、文体のリズムも異なるが)青木が先日亡くなった西村賢太の北町貫多のような叙法に馴染んでいたことは、読者としては新鮮な驚きであった。 次に『群像』から金原ひとみ「ヨギー・イン・ザ・ボックス」を取り上げたい。本作は、自らの仕事に悩む若手文芸編集者・三井田、作家の鳥後、かつて鳥後を育て、現在は学術書を担当する大滝の三人が、地震によってエレベーターに閉じ込められた一幕を描く。文芸誌界隈の特殊な雰囲気は、ともすれば楽屋話にとどまりかねないテーマだが、金原の文体を以て、抽象的な言語に馴染めないスポーツマン・三井田の視点から描くことでそうした懸念は軽やかに飛び越えられている。誌面リニューアル以降、さまざまな記事を盛り込み、重厚さを増した『群像』にあって、思考と身体をほぐしてくれる好短篇と言えよう。 また、早助よう子「アパートメントに口あらば」は、同潤会の大塚女子アパートを舞台に、住み込みの管理人・点子と女性運動家の中平兼子ら住居者たちの生活を描く。兼子はおそらく北村兼子がモデルだろうが、小説ではアパートにおける点子とのシスターフッドがクロースアップされていく。作中の二人は一九四五年まで存えることから、(実際には三一年に夭折した)北村の人生とはかけ離れたフィクションではありつつも、そのあり得たかも知れない物語を面白く読んだ。 『文學界』の「アナキズム・ナウ」は、かなりのページ数を割いた大がかりな特集だった一方、個人的に論説にはほとんど興味が持てなかった。先月の本欄で文芸誌のエコシステムについて僅かに言及したが、そのなかでかような特集が組まれることの意味を考えてしまったからだ。ただ、創作のなかにはいくつか印象に残るものもあった。とりわけ王谷晶「AはAのA」は、その鮮烈な内容もあって否応なく記憶にこびりついた。荒唐無稽な筋を敢えてここで説明はしないが、特集のコンセプトを首肯し得ないにもかかわらず、最後に途轍もない力でエンパワメントされてしまったので、フィクションの強さを思わずにはいられない。 一方、『すばる』の特集「「働く」を変えるヒント」は全体的に面白く読んだ。特に町屋良平「私の労働」はある意味でタイトルに対して非常にストレートな内容で、小説家が働かせている者とは誰かを問う小説であった。「働く」といった時に我々が想起するものはさまざまだろうが、そもそも小説家の労働とは小説を書くことにほかならない。あまりに自明なこの事実は、それゆえモチーフとして軽んじられてきたのではないか。狙いすましたように、そこに打ち込んでくる著者の書き手としての反射神経を評価したい。 同様の志向は、かつて親友同士であった四人の男女を描く新連載「恋の幽霊」(『小説トリッパー』)にも見出される。彼/彼女らの現在時における数年ぶりのLINEメッセージのやり取りに第二回以降への期待が高まった。 創作以外では西口想「私たちの「公私」観と、労働と家族をめぐる百年」(『早稲田文学』増刊号)が目に止まった。率直に言えば、「家族」特集自体は既視感が否めず、本論も著者の『なぜオフィスでラブなのか』への補注的なごく短いものに過ぎない。ただ、家族に行政ユニットとしての側面がある以上、問題はその構成員同士の関係性からのみ検討されるのではなく、賃金労働の空間(=職場)にもブリッジして論ずるべきという著者の立場は、特集に貴重な論点を付け加えている。 一方、前篇を期待して読んだ尾崎真理子「『万延元年のフットボール』のなかの『夜明け前』」(『群像』)は、大江の仕事が隈なく博捜されている一方、藤村の方は議論が「夜明け前」以降に集中していた。言及されている問題はもっと早い時期からも見出せるはずで、そのあたりに行論の窮屈さを感じてしまった。(くりはら・ゆたか=早稲田大学国際文学館助教・日本文学) <週刊読書人2022年4月8日号>