――平等の原則に立ち返り再考すること―― 論潮〈5月〉 中村葉子 学校が塾化する。従来の公教育と民間の教育産業との壁が、急速なICT化(情報通信技術の導入)によってとっぱらわれようとしている。この迫りくる市場化=民営化による構造転換を受けて、公教育における教育格差が拡がるのではと危惧する声が上がっている。 私事になるが、筆者は大阪市在住で小学生を持つ保護者であり、これからのICT化によって子どもたちが平等に教育を受けられないのではないかと危機感を募らせている。というのも昨年、コロナ禍で発せられた松井一郎大阪市長による一斉オンライン授業の実施要請は、小中学生の子どもを持つ保護者、学校現場に大混乱をもたらした。なにしろ小学一年生でもタブレット端末で双方向のプラットフォームにログインし授業を受けろというのである。そうなると横につきっきりになり仕事を休まざるを得なくなるわけだが、すぐに休めない保護者も多く、また休校措置では無いので仕事を休んでも休業手当は出ない。結局オンライン環境が整った一部の学校以外は、10分ほどで終わるプリントを配布されただけだったので、学校や家庭の事情によって教育格差が生じてしまうのでは、と感じた。また、実際のタブレット端末の普及・運用率などつゆ知らず、教育委員会に事前に諮ることなくトップダウン的な指令で教育現場に介入していく政治のあり方も問題である。 『世界』(三月号)には、この件で松井市長宛に提出された大阪市立木川南小学校の久保敬校長の提言文書が掲載され、対談も行われている。久保校長は通信環境が未だ不整備なまま場当たり的に計画が進められていることが保護者や生徒に大きな負担となっており、学校現場も市長や教育委員会から丸投げ状態なので混乱を極めている、と実情を訴える(久保敬「資料 豊かな学校文化を取り戻し、学び合う学校にするために」)。もちろん学校側は以前からオンライン授業に向けて準備を整えてきたという。しかしそもそもWifiがなく安定的なネット環境にない家庭や、きょうだいが多くいて「音がうるさい」といって喧嘩になってしまう家庭など、一筋縄ではいかない事情が述べられている(久保敬、名田正廣、斉加尚代「子どもがいて、地域があって、学校がある」)。 現在の教育のICT化は安倍政権下の国家戦略を受けて、文科省の「GIGAスクール構想」や経産省の「未来の教室」事業のもと、自治体間で分け隔てなく享受できるよう進められている。しかしパソコンが一人一台支給されたとしても、それを運用するにあたって各自治体や学校現場は整備資金不足や家庭環境ゆえにつまずきが生じる可能性がある。多喜弘文によると、今回のコロナ禍でオンライン教育を受けた割合は大都市圏で家庭の収入が高いものほど受講率が高く、収入の低い非三大都市圏はその半分の割合にとどまっているという。こうした個人をとりまく環境差が学校単位で反映されてくると、これまであまり差がなかった公立小中学校の間で教育格差が生じると指摘される。また日本の先をいくアメリカでは市場を通した多様な教育オプションが提供されているが、「出身階層や地域の影響」を受けて教育格差が生まれるメカニズムが徐々に明らかになっているのだそうだ(「ICT導入で格差拡大 日本の学校がアメリカ化する日」『中央公論』二〇二一年一月号)。 教育環境が整備され、学びの多様性が提供されることは確かに魅力的である。子どもや保護者もそうした教育の向上を望むであろう。しかしすでに多様な教育や高度な学力支援は公教育の外部で広範囲に形成されてきた。児美川孝一郎は、こうした公教育がカバーしきれなかった民間の教育産業の歴史をとらえかえす。一九六〇年代以降、塾産業が公教育の外部で莫大な領野を形成してきた。エリート層だけでなく学力競争に勝ち抜く為に、広範囲な階層がそれにアクセスしてきた。一九八〇年代の中曽根政権になって、新自由主義的教育改革が起こり、公教育の分野にも市場化の波が押し寄せたが、二〇〇〇年代の公教育と塾・予備校との連携が到来するまでは、その境界がいまだ明確にあったという。「戦後ある時期までの学校教育は、日本型の学力競争システムに対応した、競争原理や自己責任に基づく「教育」の展開を学校外へと可能な限り押し出すことで、公教育の内部については、それを機会均等や平等を原則とする空間にとどめることができていたのである」「〈市場化する教育〉の現在地」『現代思想』(四月号)。つまり公教育は外部の教育産業と棲み分けを行うことによって、過度な競争原理によって子どもがふるい落とされないよう防波堤としての役割を担ってきたというわけである。そうした境界がとっぱらわれることで、過度な競争原理が進むおそれがあるが、しかし現在の民間IT企業と大手学習塾が開発するAIドリルなどは、学習者に応じて「個別最適化」を謳っている。エリート層にだけ照準が合わされるのではなく、個々のニーズにあわせた学習計画が立てられるなら全員を取りこぼすことなく対応しうるようにも見える。それはまた不登校の子どもにも自宅からオンライン授業を受けられるため、教育機会の確保ともなると言われている(井上義和、藤村達也「教育とテクノロジー」『教育社会学研究』第一〇七号)。 ただそこにも落とし穴があって「個別最適化」された学習はそもそも個々人が学びを進めていくために学習意欲のある子とそうでない子とのあいだで学力格差が生じてしまう場合もあるとされる(児美川孝一郎「GIGAスクールと教育の未来」『教育』九一〇号)。また究極的にはネット検索をとおして答えを導き出せるため、教師や仲間、教室を必要としない。それゆえ集団の中での意見の異なる他者と交わる、共同の学びの機会が失われるのではないかという意見もある(金馬国晴「通信端末による授業の場面展開」同誌)。共同の学びの場があることは特別支援学級の子どもたちにとっても仲間と触れ合うことができ、親も多様な支えの中で子どもを育てることができるがゆえに重要である。それに比べて急激なICT化は「コンテンツを短時間かつ個人で効率よく学ぶ個人を前提としているのではないか」、「安心できる場所で、安心できる仲間と学ぶという学級の機能を軽視している」と批判的に述べられている(川地亜弥子「特別支援教育の動向と課題」同誌)。こうした意見から子どもの置かれた多様な背景を考慮した上で、一つのツール(ICT化)が学びの場を奪わないよう注意深く検討していかなければならないだろう。 さらに公教育の市場化においてICT化とともに問題になっているのは昨今の英語教育のあり方である。二〇二〇年度からの学習指導要領にもとづいて一気に難易度が上がり授業についていけない生徒が続出しているのだそうだ。この英語教育の転換の背景には、自民党の「成長戦略に資するグローバル人材育成部会提言」と経団連の人材要求があり、英語教育はトップ・エリート育成へと舵を切ったとされる。また二〇二三年からはじまる都立高校入試のスピーキングテストは、民間業者に委託された試験となり、タブレットから一方的に流れる音声に応答するのだそうだ。ここでもIT機器への対応力や英会話に通えるかどうかなど、経済的、地域的格差の問題が露呈している(江利川春雄「官邸主導の英語教育政策」『現代思想』四月号)。子どもたちがどのような境遇にあっても、平等に教育を受ける場が与えられ、受ける権利があるという原則に立ち返り、いまいちど公教育のあり方を再考する必要がある。(なかむら・ようこ=大阪公立大学客員研究員・社会学) <週刊読書人2022年5月6日号>