――どうしようもなしに続いていく生活―― 文芸〈5月〉 栗原悠 座談会「幻想はあらがう」、山下紘加「あくてえ」、温又柔「祝宴」 この「文芸」欄では、連載開始時から基本的にその月の最も印象に残った創作(つまり、小説)を冒頭に取り上げ、以下文芸誌ごとに面白く読んだ創作に言及し、紙幅が許せばそれ以外の文章にも言及するという方針を採っていた。これはまずもって構成に悩むのをなるべく避けたい評者自身の怠惰ゆえであったが、一方で文芸誌の定型による要請だとも考えてきた。しかし、今回は敢えてこれを破り、「「文學界」初の大型短歌特集」と謳う「幻想の短歌」にまずふれたい。 さて、一〇〇頁余の特集には実作、批評など一通り並んでいるが、特に面白く読んだのは大森静佳、川野芽生、平岡直子による座談会「幻想はあらがう」であった。そもそも「初の大型短歌特集」のテーマがなぜ「幻想」なのか。座談会の三者にとっても「幻想」の理解は一様でないものの、リアリズム的に現前する情景を詠む(それこそが短歌だ)とするオブセッションに対して三十一文字の定型のなかで世界をいかに幻視し得るかという各々の苦闘が対話のうちから浮かび上がる。そこに短歌表現史における普遍的な問いの現在地を確かめた。個人的に昨年は、現代詩の作り手によるいくつかの優れた小説が印象に残っているのだが、短詩形文学からもそうした型破りの試みがなされていくのだろうか。 『文學界』の特集に言及したので同誌の新人賞受賞作、年森瑛(としもりあきら)「N/A」にもふれておこう。同性愛者の教育実習生うみちゃんと付き合うことになった女子高生まどかは、自らあずかり知らぬSNSでの相手の投稿によって友人に関係を察せられてしまう。「かけがえのない他人」を求めていたはずが、うみちゃんの欲望に彩られたSNS上の二人は、祝福さるべき対象であり、まどかは「LGBTの人で固定されてしま」うことを拒否し、別れを突き付ける。本来、一つの鋳型に嵌まり得ないセクシュアリティのスペクトラムな面を丁寧に描きながら、結末でうみちゃんと再会するところで関係が反転する点には、満場一致で受賞に推されたという構成の妙をたしかに感じた。一方、(まどかに焦点化したテクストの要請の面もあるが)まるで無駄がない叙述のために、その構成がかえって浮き出過ぎているようにも思えた。 『文藝』もまた「フォークナー没後60年・中上健次没後30年」特集の充実ぶりに惹かれつつ、彼らの小説に登場する人物のようにヴァナキュラーな甲州弁の話者「ばばあ」が登場する山下紘加「あくてえ」は出色の出来だった。「ばばあ」呼ばわりされているのは、孫の「あたし」と義理の娘に介護される九〇歳の祖母だ。共働きだった「あたし」の両親に代わり、上京して孫の面倒も見てきた彼女に、妻子を置いて別の家庭を築いた実の息子は、ほとんど顔も見せに来ない。半ば見捨てられてもなお息子への執着を見せつつ、義理の娘と孫には悪態をつく。老いながらも食い気だけは衰えず、「歯がなくたって食える」と息巻く「ばばあ」に「楢山節考」のような死の気配は微塵もない。ここに紋切り型の小説的な終わりは訪れず、どうしようもなしに続いていく生活がはっきりと予感されている。ありがちなテーマに見えて、これまで読んだどの小説とも似つかない。 『新潮』も特集(?)「川端康成没後50年」の新出資料などにふれたい欲求に駆られる(読者にはぜひ目を通してほしい)けれども、温又柔の「祝宴」を取り上げよう。これまでの温の小説同様、日・中・台を舞台に、異なる言語や民族が登場するが、本作は経済的に成功した明虎と同性愛者の瑜瑜の父娘関係が話の中心だ。娘の一番の理解者を自負しつつ、カミングアウトに動揺する父の人物像は型を外れてはいない一方、家族の折り重なるアイデンティティの問題に逡巡した末に瑜瑜のパートナーと顔を合わせる経緯は、ご都合主義ではない真摯さを描こうとしている。 ところで先月にきわめて慎ましやかにリニューアルしたかに見えた『すばる』の今月号の目次には目を疑う一篇があった。金石範「地の疼き(前編)」だ。本作は一九八八年の金自身の済州島訪問などを下敷きにしつつ、「火山島」の作者Kに仮託して、今再び四・三事件に迫っていく。三島由紀夫と同じ一九二五年に生まれ、南北問題に生涯を文字通り引き裂かれ続けてきた著者は、歴史的な対北宥和姿勢を見せた文在寅政権の終わりを見届け、新たな保守政権の誕生を前にして何を書き残すのか。 最後に石沢麻依「月の三相」(『群像』)。これは住民のほとんどが自らの顔を象った肖像面(マスク)を持つ旧東独の小さな町・南マインケロートを舞台にした架空の物語である一方、石沢流「面とペルソナ」として読むことも許されるだろう。二月の時評では、コロナ禍における小説のマスク描写のナイーヴさを再考させる大山顕の論を紹介したが、本作(現在時では感染症の流行下)でアジア系人物たちが直面する状況はまさにそうした問題への批評性を持つ。「面を見れば、人はそれを剝ぎたくなるものだ、とグエットは思っていたが、逆に相手に被せて嘲笑したくなるらしかった」という一文など全編が面をめぐる洞察に満ちている。(くりはら・ゆたか=早稲田大学国際文学館助教・日本文学) <週刊読書人2022年5月6日号>