――交差する抑圧構造を分析するために―― 論潮〈6月〉 中村葉子 インターセクショナリティ(交差性)という概念が近年話題となっている。私たちの社会をとりまく差別は、人種、ジェンダー、セクシュアリティ、階級、ネイション、アビリティなどの複数の要因が交差することによって行使されている。そのような絡まりあった抑圧構造を分析するツールとしてこの概念が生まれた。抑圧の構造を緻密化し、シングルイシュー運動の中で排除、周縁化されてきた人々を焦点化することにおいて意義あるものである。しかし一方で、日本での昨今の需要のされかたは、それぞれの要素(アイデンティティ)に人々を差異化し、固定化することによって人々を分断し、共闘する基盤を喪失させる契機ともなるのではないか。この概念の危うさと射程の広さをふまえて、いまいちど再考してみたい。 『現代思想』五月号はインターセクショナリティに関する論考が集められている。この概念が意味するところの複合的な抑圧構造を分析する視点はブラックフェミニズム運動において古くから着目されてきたことである。しかしそれを言語化し概念化したのはキンバリー・クレンショーであった。法学者であるクレンショーは一九八〇年代において黒人女性がとりわけ黒人差別と性差別の双方において抑圧を受けているにもかかわらず、差別による法的救済対象から除外されていることを目の当たりにした。当時の司法判断における差別認定は人種差別の適法を巡っては黒人男性のみを対象とし、性差別においては白人女性だけが対象となっていたのである。そのためこのような被差別枠組みの単一化を問題視し、差別は交差している、と明示することによって黒人女性の存在を可視化したのである(萩原弘子「「私たち」のなかの勇気あるもの」)。現にある差別は人種・性別・階級のみに限定されない。インターセクショナリティはそうした様々なカテゴリーにまたがって行使されている権力関係を読み解くのに必要不可欠な分析ツールである(パトリシア・ヒル・コリンズ、スルマ・ビルゲ『インターセクショナリティ』人文書院、二〇二一年)。またそのように複合的な差別構造があるのであれば、社会運動もそれに応じて取り組まなければならないことが要請される。旧来の一枚岩的な運動形態からの脱却である。それはたとえば反レイシズム運動においてこれまで黒人の男性を主な代表として表象し、運動内部の黒人女性に対する黒人男性からのDV被害がうやむやにされてきたことへの批判としてあらわれる(萩原弘子、前掲)。あるいは被差別部落の女性たちは部落差別ゆえに失業する男性たちに代わって、就労率は高いが過酷な低賃金労働に従事してきたが、従来の部落解放運動、女性運動のなかで見落とされてきた(熊本理抄「抵抗する知の創造」『現代思想』、前掲)。新田啓子は一枚岩的な運動のありかたを運動内部に横たわる規範意識から読み解いている点で興味深い。アメリカの反レイシアズム運動はリスペクタビリティ(世間体)とよばれる中産層の市民的規範(家族観)を内面化してきたために、貧困層や性的マイノリティを排除する状況を生んできたという。公民権運動で有名なバス・ボイコットを始めたローザ・パークス以前にも白人に座席を譲らなかったクローデット・コルヴィンがいたが、彼女は一五歳の未婚の妊婦であったがために、運動の「正統性」を保持しようとした指導部に切り捨てられたという(「この生から問う」『現代思想』前掲)。市民的規範に偏重した運動内部のさらなるマイノリティの「切り捨て」問題は、現在においてフェミニズム運動におけるトランス女性排除の問題にもつながっている。 上記の観点からインターセクショナリティは被差別者間の立場の違いや「差異」を認識することで、これまでの運動をより深化させる戦略として重要である。ただ、大枠としての黒人差別問題やフェミニズムという共通基盤が解体されかねないよう、需要のされ方には注意すべきであるとされる(近藤凜太朗「書評:Patricia Hill Collins, Intersectionality as Critical Social Theory, Duke University Press」『女性学』二八号)。この点、「みんなちがってみんないい」(金子みすゞ)というように、「差異」や「多様性」の称揚は、究極的には連帯も団結も見出せない状況に陥りはしないか、危惧すべきことである。根来美和はインターセクショナリティは主体形成に先行するものとしてアイデンティティを固定的なものとして捉えてしまう危険性があり、さらに「差異や差別が議題に上がると、感情的になって敵対や緊張関係が生じることも多く、建設的な対話を持つことが難し」くなるという(「複層的な交差点の時空間として捉える」『現代思想』前掲)。このような側面が石原真衣と下地ローレンス吉孝の対談において前景化している。例えば石原は自らのアイヌとしての出自について語る文脈の中で、アイヌと和人の「クオーター」と言う概念はないと断っているにもかかわらず、自分の75%は「和人」であって、アイヌの「クオーター」という表現を捨てずに、特権を持つ日本人とは「「共に生きる」なんて絶対に言えない」と決別宣言をしている(「インターセクショナルな「ノイズ」を鳴らすために」同書)。もちろんマジョリティ側が自らの「特権性」に意識的であらなければ、被差別の人々とどのような共闘も達成されることはないだろう。ただし誰しも何らかの形でマジョリティ/マイノリティであり抑圧/被抑圧を同時に生きている。そのような複雑な抑圧構造を見抜くことがインターセクショナリティの要素であったはずが、単純な二項対立図式と本質主義的なアイデンティティをもちいることで、「他者」の批判軸に変えてはいないだろうか。加えて自己反省をことさら煽ることで、差別問題に誰も何も言えなくなってしまう状況をうみだす。 堀田義太郎はマイノリティの個別的な差別が、他のものに全く同じ形で経験されずとも、似たような差別を受ける可能性を共有していることが、「#MeTooやBLMの連帯と対抗政治の一つの基盤となっている」と指摘する。その上で、インターセクショナリティは個人のアイデンティティの問題に還元されるのではなく、ふたたび社会の「構造」の解明と分析に力点があることを強調する(「インターセクショナリティと差別論」)。 『創』六月号で取り上げられている技能実習生の女性たちの境遇は日本社会での複合的な抑圧構造を分析する事例として議論される必要がある。熊本県のベトナム人技能実習生のレー・ティ・トゥイ・リンさんは妊娠による雇用主の解雇を恐れて双子の男の子を職場の寮で出産した。「寒い布団の上で子どもを冷たくしてはいけない」と部屋にあった段ボールの底にタオルを敷き部屋の押し入れに入れたという。後日「死体遺棄」の容疑で逮捕・起訴された。リンさんは日頃から職場から差別されていて、妊娠発覚による強制帰国を恐れていたという。月々の給料は親元への送金と借金返済に消えるため土日も休みなしで働いていた(望月衣塑子「望月衣塑子の「現場発」命の重みと心の痛み」)。名古屋出入国在留管理局で亡くなったウィシュマ・サンダマリさんの件も踏まえると、移民や女性をめぐるレイシズム、セクシズム、労働力の搾取、女性に対する暴力と性と生殖に関する権利の侵害、監視と収容を優先する入管体制といった諸権力の行使が浮かび上がる。この権力構造を批判し、より重層的な運動の連携が必要となってくる。インターセクショナリティの概念はこの状況を認識するためにこそ、適切に使用されなければならないだろう。(なかむら・ようこ=大阪公立大学客員研究員・社会学)