――奇跡のような美しさをたたえた世界―― 文芸〈6月〉 栗原悠 平沢逸「点滅するものの革命」、青野暦「夢と灰」 毎年この時期になると多摩川の河口に釣りへ出かける。好んで足を運ぶのは、そこが手頃な釣り場だからだが、轟音を立てて離着陸するジェット機、群生する工場、少し遠くに聳えるタワーマンションなどが緩やかな川の流れと同居するジャンクな景観に惹かれているからでもある。「ソレイユのこどもたち」や「東京干潟」といったドキュメンタリー映画は、文字通りその岸辺に暮らす人々の生活史から巨大都市・東京のミクロコスモスを描き出しているが、そうした創作の一つに新たに加わったのが、今回の群像新人文学賞受賞作「点滅するものの革命」(平沢逸)だ。 本作では、この多摩川の河川敷に集まった人々の俗物極まりない会話が宛先も曖昧なままに、何の意味も結ばずにただ繰り広げられていく。酩酊時の居酒屋における大人同士のコミュニケーションのようなそのさまをひとり醒めた視点から眺めるのが、「父ちゃん」に連れられた未就学児の「わたし」である。この落差によって時折奇跡のような美しさをたたえた世界が映される。ただ、選考委員の間でも評価が割れたとされる、豊富なボキャブラリーながら年齢相応の感覚を持つ「わたし」という創造的な語りの位相は、個人的にはあまり奏功していると思えなかった。たとえば、「わたし」は五、六歳の子供の常として数年前の記憶を「思いだす、という行為にまだ慣れていない」し、また数字の概念も一〇を越えると途端に覚束なくなる。一方、地の文には「正午」という言葉が何度か使われているが、それが右のような感覚者の認識とオーバーラップするならば、この言葉の選択は時計的な時間概念とは切り離されたものとしてあるのだろうか。実体を伴った人物の視点を設定する以上、そうした引っ掛かりを全く気にせずには読めなかった。 同時受賞の小砂川チト「家庭用安心坑夫」は、家庭環境にトラウマを抱える女性・小波が郷里のテーマパーク化された廃坑内のツトムというマネキンを父と思い込んでそれに妄執するさまを眺めていく。そもそもそんな暗所にマネキンがあるのはどうかしているが(小説の設定と思いきや本当にそういうテーマパークになっているらしい)、洞窟的空間に沈潜して戻ってくるという古典的な無意識劇の形式を借りながら、帰還自体が主人公を醒ます契機とはなっていない点を面白く読んだ。一方、小波が夫に難詰される場面で彼女の過去がいくらか垣間見えるものの、父や母、当の夫との関係はさほど深掘りされない。この点はせっかくの奥行きある空間や小波の動向に挿し挟まれたツトムの人生を平板にしてしまっており、もったいないと感じた。 さて、新型コロナ感染症が全世界的に流行し始めて二年余、小説にはマスク姿の人々が自然と現れるようになり、以って読者は同時代に設定されたテクストだと了解するくらいにはその景色が自明のものとなってきた。しかしいまだ私にはマスクを通して発するくぐもった声がふと自分のそれではないように感じてしまう瞬間がある。青野暦「夢と灰」(『文學界』)には、言葉が即興的に出てこず、用意したスマホのメモを読みつつ声を発する青年・眞澄が登場するが、彼が友人の絵未に電話越しに伝えるノーマスクの野見という男性の饒舌な語りは、まさに自らの発した言葉がそうと信じられることのたしかさを揺すぶってくる。ほとんど切れ目のない言葉の連なりが自在に登場人物たちの思考を往還していくうち、静謐な夜に賑やかな声が溢れてくるような気にさせられた。他ならぬロベール・ブレッソン版の「白夜」も物語に相応しい。 『すばる』には久しぶりに古谷田奈月の小説(「フィールダー」)が掲載されていた(短期集中連載とのこと)。初回は、 小児性愛者(ペドフイリア)と疑われた児童福祉の専門家・黒岩文子から人権雑誌の担当編集者・橘に送られてきた周囲を弾劾する文書ファイルが物語内容の大半を構成しており、今のところそれを相対化する視点も乏しく、評価が難しい。ただ、精妙なモチーフを操るのが得意な書き手だけに、橘がのめり込んでいるスマホゲーム『リンドグランド』や黒岩の夫で絵本作家の宮田が溺愛する猫が今後の展開にどのように干渉してくるのか気になった。 『新潮』は読み切りが一作もなく、町屋良平の連載小説「生活」が始まった。ふた月前の時評で取り上げた「恋の幽霊」の記憶が新しいので、並行連載という旺盛な筆力には驚くばかりだが、今作でもまた淡々と描かれるルーティン的な営み(今回は主人公がひたすら書道に打ち込んでいる)に律されながら小説はストイックに進んでいく。 創作以外では、阿部公彦の連載「事務に狂う人々」(『群像』)は著者らしいユニークな視角の評論だ。我々は事務を創造的な営為とは遠くかけ離れたものだと決めつけがちだ。本論にもあるように、独創的な批評家として知られるロラン・バルトが学内事務においても有能であったと聞いた時に感じてしまう意外性とはどこから来るものなのか。行政にいた時代、文字通り事務に狂わされていた身としても目が離せない。(くりはら・ゆたか=早稲田大学国際文学館助教・日本文学)