――本物のリベラリスト、二度と出ない優れた編集者――寄稿=佐野眞一 田中健五氏の編集者としての才能について最も鋭く見抜いていたのは、二〇〇四年十二月に七十一歳で多臓器不全により死去した本田靖春氏である。本田氏は絶筆となった『我、拗ね者として生涯を閉ず』の巻末で述べている。 「わが国におけるノンフィクションについて語るとき、文春の田中健五さんを抜きにすることはできない。彼は『諸君!』の編集長に就任すると、元文春の編集者だった立花隆氏(評者註:二〇二一年八十歳で死去)を起用して、ノンフィクションの原型ともいうべきものの模索をはじめた」 これがかの有名な「田中角栄研究」(『文藝春秋』)につながっていく。もしわが国ノンフィクションの金字塔ともいうべきこの作品がなければ、日本のノンフィクションは相当貧しいものになっていただろう。 本田氏はつづけて述べている。立花氏だけではない。田中氏の周りには、柳田邦男、沢木耕太郎、澤地久枝といった錚々たるメンバーが集まった――。 「田中さんは、ノンフィクション・ライターたちに対する経済的配慮も怠らなかった。私の場合でいうと『諸君!』から『文藝春秋』に移ったとたん、原稿料が三倍以上に増額された。(中略)ノンフィクションは小説と違って、手間もかかれば時間もかかる――と言い切って社内の反対を押し切った田中さんは前例とかしきたりとかにとらわれない、不言実行の人であった」 田中氏が旧制東京高校、東大独文科を経て文藝春秋(当時は文藝春秋新社)に入社したのは、敗戦からまだ日の浅い一九五三年のことだった。ちなみに読売新聞社主筆の渡邉恒雄氏も東京高校の出身である。 当時の文春本社は現在の千代田区紀尾井町ではなく、銀座五丁目にあった。同期入社には、二〇二一年一月九十歳で死去した半藤一利氏がいた。文春創業者の菊池寛はすでに亡くなっていた。彼らは創業者も知らない新人類たちだといわれた。いまにしてみれば隔世の感がある。 * 田中氏が苦労して創刊した『諸君!』は、最初ほとんど売れなかった。売れ始めたのは、三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊に乱入して自決してから約一か月後の昭和四十六年十二月号から連載が始まった三島の父親の平岡梓が書いた「倅・三島由紀夫」からである。 この本の解説を書いた徳岡孝夫氏は面白いことを書いている。 「いったい全体どういう父親なのか。当時、私は知り合いの『諸君!』編集者に問うてみた。彼が微笑して『倅より文才がある』と答えたのを記憶している」 文豪・三島由紀夫より父親の方が文才がある。こういうことが平気で言えるのも、田中健五氏の非凡さであり、抜群にセンスがあるところだった。 * 私は田中氏を三度ほど見かけたことがある。いずれも文春に近い四谷の小さなバーだった。そこで表沙汰にならなかったのが奇蹟のような話を田中氏本人から聞いた。 田中氏の自宅が右翼から銃撃されたというのである。最初は到底信じられなかったが、田中氏の直弟子というべき花田紀凱氏から話を聞いて深く納得がいった。当時、私は花田氏と一緒によく仕事をやっていた。 その頃、花田氏は『文藝春秋』の編集長として、当時皇后だった美智子妃に対する皇室内の陰湿ないじめ問題を扱っていた。最終的には美智子妃が失語症になって長期間苦しんだ話題だっただけに記憶に残っている方もいるだろう。 この問題に右翼が過敏に反応し、花田氏の親分の田中氏襲撃の挙に出た。それが私の理解だった。 それにしても田中氏はこれほど大切な話をなぜ私ごとき若輩者にしたのだろう。そんな話をしたあと、田中氏はぽつりと言った。 「僕は世間から保守とか右翼と思われているらしいけど、まさか本物の右翼から狙われるとは思ってもいなかった。人生長生きすると、本当に何があるかわからないものだよ」 この話のミソは、花田氏が皇室問題など面倒くさいものをやったから、こんな煩わしいことになったとは口が裂けても言わなかったことである。 そんなとっておきの話をしてくれた田中氏こそ、本物のリベラリストであり、二度と出ない優れた編集者だったと私はいまも思っている。(さの・しんいち=ジャーナリスト・ノンフィクション作家) 田中健五氏(たなか・けんご=文藝春秋元代表取締役会長)二〇二二年五月七日、肺炎により死去(九三歳)。 一九二八年、広島市出身。海軍兵学校から旧制東京高校を経て、東京大学卒業後、一九五三年、文藝春秋新社(現文藝春秋)入社。『諸君!』『文藝春秋』『週刊文春』編集長などを経て、一九八八年、文藝春秋社長に就任。最高顧問を務めた後に退任。