いま問い直される核軍縮論と核抑止論 論潮〈7月〉 中村葉子 昨今の論壇誌を見ると核攻撃の危険性やそれに対抗するための核抑止論、核共有など核にまつわる言説が溢れかえっている。率直にいって核が平気で口に出されること自体に恐怖を覚えるが、現在のこの核兵器を含めた軍備増強が声高に叫ばれる中で、「危機」を正確に「危機」として捉えるにはどのような知見や実践が必要となるのか。 「忘れてはならないのは、戦争はある日突然には始まらない。戦争の芽を育てる年月があったから戦争が始まる。平和への努力で戦争を防ぐことはできるし、それ以外に戦争を避ける方法は無い」(梅林宏道「時代錯誤の核共有論」『世界』五月号)。このような原則に立ち返るならば、歴史的な過程において何を見誤り、現在の核の脅威をもたらすことになってしまったのか。梅林宏道は具体的には核不拡散条約(一九七〇年発効。以下、NPTと略す)における核軍縮の不徹底を槍玉にあげている。NPTは核兵器の不拡散、核軍縮の促進、原子力の平和利用を三本柱として条約に盛り込んでいるものであるが、そもそも米国・中国・イギリス・フランス・ロシアの五ヵ国の核兵器の保有を認めてきた。条約草案時にソ連と共有された米国の文書において、「戦時になれば条約はもはや支配しない」と記され、非常時にはNATO加盟国の非核保有国にも核兵器が配備されることが了解されていた。このことが後々ヨーロッパ諸国の核兵器配備につながり現在の緊張関係を招く下地をつくってしまったという(梅林、前掲)。川崎哲もまたNPT体制だけでは核軍縮は不十分であることを強調する。元来、NPT体制の信頼性は核兵器保有国が自らに課せられた義務をしっかり果たすということを前提にしていた。従来の国際的な懸念はNPTの枠外で核保有をしている国々(インド、パキスタン、イスラエル、北朝鮮)であった。しかし、いまやNPTに加盟する核兵器保有国同士の均衡が崩れ、それぞれの論理で核保有を正当化しているのである。そのため、核軍縮に進むための全面的な核禁止条約を締結することが喫緊の課題であるとされる。先月、第一回の締約国会議が開催された核兵器全面禁止条約の意義はこの点にある。核兵器禁止条約はいかなる国の核兵器も容認しないし、核兵器の使用や威嚇はいかなる状況においても許されないと定めている。これはNPTの不備を突いた非常に効果的な条約なのである。しかし米国、ロシアをはじめ日本もオブザーバーとしても参加していないことを鑑みると、条約の有効姓は不確かである。それでも、今後加盟国が国際的に圧倒的多数になれば核保有国への圧力となりうるのであって、締約国を増やす事は極めて重要であるとされる(「核兵器禁止条約という現実的選択」『世界』六月号)。 中満泉もまた上記に連なる形で軍事力に頼らない条約にもとづく抑止論を唱えている。「軍事力のみで持続的に安全保障が成り立つ事はあり得ず、軍縮・軍備管理を交渉し強い規範が制度化されることによって構築されていく国際秩序は平和と安全に欠かせないものである。」(「核軍縮の必要と必然」『世界』六月号)。ここで言われる抑止論は核兵器を削減し、脅威そのものを取り除くことに力点が置かれている。この条約は机上の空論だとの意見もあるが本気で取り組まなければ、非核国の不信感は増幅し、核のリスクは増幅していくだろう。 しかしながら、昨今の参議院選挙に向けた各党の軍拡路線のなかで軍事(核)による抑止力についての議論が活発化している。議論の前提となるのはたとえば 「ウクライナは核兵器を放棄したから侵略された」のであって核武装を手放してはいけない、という論調である。安倍晋三元首相もこの延長線上で核抑止論について発言することが増えている。彼は核の抑止力は安全保障上の戦略において重要であるとし、日本もNATOの核共有を手本として、米国と共同で核兵器を率先して使用せねばならないと説く。その中で日本は攻撃を受けた場合の反撃能力は米国に委ねられているので、日本がより積極的に「核兵器使用のプロセスに深くコミット」して決定権を持つべきだという。こうした核共有が最大の抑止力になるとする(安倍晋三「「核共有」の議論から逃げるな」『文藝春秋』五月号)。仮に日本がNATOに加盟し、核共有体制をとることになった場合、自衛隊基地に米国の核爆弾を配備し、自衛隊の戦闘機がそれを投下する任務を実行することになる。非核三原則や憲法の問題をすっ飛ばして日本は実質、核保有国となることを意味する。度々指摘されるように、ウクライナは核兵器を放棄したからロシアに攻め込まれたのではなく、NATOの東方拡大がロシアにとって脅威となったからである(朝日新聞デジタル「プーチン氏「レッドラインを越えた」 NATOへ根深い恨み感情」六月三〇日号)。言い換えれば、「冷戦後のヨーロッパがロシアとNATOに共通する安全保障の枠組みを形作れなかったことにある。」(前掲、中満)。こうした視点を踏まえずに、ことさら核武装をちらつかせれば、さらなる戦況の悪化は必至だろう。ウクライナだけでなくアジアでも緊張感が高まる。いまいちど核抑止論の有効性を考えるべき時である。 核抑止とは、核を保有することで敵対する相手に攻撃を思い止まらせ、核戦争につながる全面戦争を回避する戦略のひとつである。けれどもその有効性について、核抑止論は核保有国の指導者同士が合理的な判断を下すと想定して立論されている。だが今回のロシアの核威嚇はこうした想定の危うさを浮き彫りにした(吉田文彦「巨大リスクが可視化した世界」『世界』六月号)。また藤原帰一によると、そもそも今回のロシアのように短期戦で侵攻した場合には、反撃を加える前に目的を達成してしまうため、抑止は通用しないという。また仮に核抑止が効いていても、その力の均衡、安定ゆえに相手が核を使用する可能性を恐れることなく、通常兵器による侵略が生まれるとされる。ロシアはまさに「核によってアメリカの核兵器使用を抑制しながら通常兵器による戦争を継続する、つまり自国の核兵器を盾に使って相手の核攻撃を拒み、NATOの直接介入も阻止するという戦略」を行使してきたのである。ゆえに問題は、核抑止は相手が核を盾に攻撃しようとしてきたのなら、こちらがそれに応戦(核戦争の勃発)しない限り実際には止めることができないことを露呈させた。よって、今後の抑止論にとって重要なのは核への依存を高めるのではなく低下させることが戦争のエスカレートを防ぐことのできる最善の道だとされる(「抑止とその限界」『世界』七月号)。 昨日(六月二十九日)、新たにスウェーデンとフィンランドがNATOに加盟し、バイデン大統領はウクライナへのさらなる軍事支援を約束した。こうした新たに勢力図が書き換えられる時、それぞれが独自の論理で動く〈帝国〉どうしの戦争がより鮮明なものとなってきたことが指摘されている(白井聡「ウクライナ侵攻」『神奈川大学評論』第一〇〇号)。水島一憲もあらためてネグリ=ハートの〈帝国〉をこの戦争から導き出しつつ、「ロシアとウクライナの都市の路上で投獄や死の危険を冒してまでデモを行う人々や、ヨーロッパをはじめ世界中で街頭に立つ何万人もの人々」がいることを強調する(「変移するグローバル混合政体の現在」『中央公論』七月号)こうした〈帝国〉のパワーゲームが日に日に熾烈に展開されるなかで、そこから距離を取り、いかに「下からの」グローバルな反戦運動を展開していけるのか、核がもたらす甚大なる被害を訴えることができるのか、残された課題はいまなお山積しているといえる。(なかむら・ようこ=大阪公立大学客員研究員・社会学)