――膨大な問いと答えの選択から浮かび上がる人生―― 文芸〈7月〉 栗原悠 古川真人「ギフトライフ」、小川哲「君のクイズ」 この連載も今月の回でようやく折り返し地点を過ぎた。批評活動などで鳴らしてきたわけでもない無名研究者の時評を誰が興味を持つのかと思っていたものの、ありがたいことにこれまで何度か感想をもらう機会があった。当初想像していた以上にタフな仕事だが、そのような読者の声を励みに残りを乗り切ろう、そう思った矢先に送られてきた『新潮』の古川真人の初長篇(四〇〇枚)「ギフトライフ」は、率直に言って毎ページ読み進めていくうちにグロッキーになっていった。 枚数よりも問題だったのは、その細部まで作り込まれたディストピア的な小説世界だ。国家と一体化した『企業』によって、芝麻信用のようなスコアリングが人々の生活を統御している日本が舞台なのだが、それを成り立たせているのは、ドローン監視など多くが既に実用化出来そうな(あるいは出来ている)技術なのである。そしてそうした施策の中心に据えられているのが「重度不適性者」たちの「生体贈与(ギフトライフ)」なる人口管理システムである。これはありていに言えば、社会において有用ではないと判断された人々の身体を活用するための法的措置なのだが、テクストに横溢する「生体贈与」をめぐる陰謀論や公式見解もまた、いずれも今日のネット言説などとほとんど変わらない。人口や国際情勢といった設定はやや現実離れしているとは言え、飛躍を欠いた想像力の「いやな感じ」が小説の根底にあるのだ。そうした現実との距離の短さゆえ、小説の結末における主人公の選択にも暗い感情を抱かされた。ただ、同時に政府=『企業』の統治思想はあまりにもクリシェ的に読めてしまい、フィクションとしてそうしたモチーフを描いていくことの意味をも考えさせられた。 一方、『小説トリッパー』の小川哲「君のクイズ」は、それ自体がクイズという営みに身を投じることの愉楽を体現したかのような小説だ。三島玲央は、テレビ番組のクイズ大会決勝で対戦相手の本庄絆が問題文を一切聞かないまま「ママ、クリーニング小野寺よ」という正答を導き出したことを訝しむ。確定ポイントも何もありはしない、無限の選択肢から番組側のヤラセとしか思えない(しかも何のことやら分からない)答えが見出されたことの謎を追う三島の思考に伴走するうちに膨大な問いと答えの選択が血肉化したプレイヤーの人生が浮かび上がってくる。 次に『文學界』の杉本裕孝「グッバイ、メルティ」を取り上げる。本作では、己の余命が僅かなことを悟った猪熊寧が、自らの死とともに彼がデザインした人気キャラクター・メルティの葬式を行おうとするのを、寧に可愛がられ、メルティと一緒に育ってきた甥の努視点から描く。物語が進行するにつれて明かされていく二人の家族たちとの関係にさほど意外性はないが、メルティやそれと対照的に鳴かず飛ばずのナマケモノのモフオといったキャラが個人の生とどのように交差してくるのかは面白く読めた。 『群像』の井戸川射子「この世の喜びよ」は、二人の娘を育て上げた中年女性と彼女が勤める喪服売り場のあるショッピングコートにいつものようにやってくる少女の交流を描く。「ここはとても速い川」における蟠っていた感情が言葉としてどっと流れ出すその瞬間の描写が強く印象に残っている井戸川だが、今作でもまたある場面で感情的に大声が発せられるところに惹かれた。この作家は、小説の「声」をいかに反響させるかを自家薬籠中の物としている。 『すばる』は先月取り上げた古谷田奈月の「フィールダー」の話の輪郭が少しずつ見えてきた。今回は、前回はまだオンライン上の存在でしかなかった『リンドグランド』のパーティーのメンバーの生活がクロースアップされており、それが実世界での橘のポジションともオーバーラップしてくる。これからまだ黒岩文子のエピソードも広がっていくだろうが、ようやく物語が加速し始めた。 さて、小説以外では『文學界』の特集「西村賢太 私小説になった男」が面白かった。生前懇意にしていた古書店主や、葛山久子を名乗る人物(遺作『雨滴は続く』の登場人物)のエッセイ、阿部公彦と田中慎弥の対談のいずれもが、故人の奇特なエピソードに終始しており、デビュー以来、私小説を主張して憚らない西村の企み通りといった格好だ。まがりなりにも言語表現の変遷として近代文学史を学んできた身としては、一つの表現にとどまり続けんとする試行を不思議に思いながら眺めてきたが、死してさらに「私小説(・・・)」作家となっていく(・・・・・・・・)姿に興味は尽きない。 『群像』では、誌面リニューアル後の七月号恒例特集「論の遠近法」(2022)が掲載されている。さながら今日の批評見本市の趣があるが、異色なのは瀬戸夏子の「我々は既にエミリー・ディキンソンではない」だろう。歌人としても知られる瀬戸は、「ワナビ」として感情に溢れた「私」を前景化させ、批評が「棚上げ」してきたものを探っていく。ある意味で同じ企画内のベンジャミン・クリッツァー「「感情」と「理性」:けっきょくどちらが大切なのか?」への応答とも言える。(くりはら・ゆたか=早稲田大学国際文学館助教・日本文学)