修復的司法による対話のプロセス 論潮〈8月〉 中村葉子 白昼堂々と行われた安倍元首相への銃撃は、社会に大きな波紋を広げている。山上徹氏の逮捕とそれに続く犯行動機が日毎に政治と宗教の癒着を暴露するものとなってきている。一方、安倍元首相の「国葬」の実施決定と美談化は、これまでの彼の戦争ができる国づくりや政治とカネの問題をめぐる官僚組織を使っての隠ぺい改ざん問題の罪をまるでなかったかのように取り繕うものである。安倍氏によって自死を強いられる人まで出たにもかかわらず、である。もちろん殺害することの是非をめぐる意見があり、死んでしまってはこれまでのその責任追及ができないとの声もある。が、私はこの加害行為が山上氏の「私怨」によってなされたものであっても、社会的な境遇(旧統一教会への母親の献金、自己破産、父と兄の自死、就職難)に起因しているがゆえに、加害者の蛮行と言って切って捨てるわけにはいかない。小出裕章が山上氏の犯行後に出した声明には、次のような指摘があった。「多くの人が「民主主義社会では許されない蛮行」と言うが、私はその意見に与しない。すべての行為、出来事は歴史の大河の中で生まれる。歴史と切り離して、個々の行為を評価することはもともと誤っている。そもそも日本というこの国が民主主義的であると本気で思っている人がいるとすれば、それこそ不思議である。」(「アベさんに対する銃撃について思うこと」レイバーネット、七月二四日)。 こうした状況を踏まえて、『現代思想』七月号の「特集「加害者」を考える」というテーマはまさにタイムリーなテーマで興味を惹かれた。加害者臨床に関わる中村正は、「加害者」の動機を社会的な構造から把握することを重要視する。たとえばDV加害者たちの多くは、女性に対して「愛のムチ」や「暴力は絆を強くする」などの理由づけによって行為を正当化してしまう。これらは相手を所有したい、コントロールしたいと思うこと、権力志向といった「男性性ジェンダー」にまつわる社会的な「暴力の文化」を体現したものとして規定される(「加害行為研究の視界」『現代思想』七月号)。社会の規範をまず問題にしなければ「暴力」は無くならないのである。DV防止法が制定されてもなお、加害者に対しては警察は及び腰で、逮捕するのではなくあくまで被害者の保護と予防措置にとどまっている現状がある。犯罪化されずに私的領域における夫婦の痴話喧嘩程度にしかDVが捉えられていないことに危機感を募らせる識者もいる(信田さよ子「DV加害者プログラムの実践経験から」同書)。 よって、いかに加害者がその暴力に気づき再発しないように取り組むことができるかが問われる。この問いにたいして、たんに正義を振りかざして断罪するのではなく、的確な加害者のケアや更生プログラムが組まれなければならないとされるが、この点、興味深いものとして加害者もまた、虐待の被害者であることが多いのだそうだ。加害者臨床の現場に関わる野坂裕子は加害者の被害体験(トラウマ)に着目し、過去の傷つきや喪失に加害の根本を見ようとする。そして、いかなる場合も、被害体験は加害行為の「免罪符」にはならないと断った上で、被害をもたらした相手に正当な怒りをぶつけられなかったことがより弱い立場の相手への暴力へと転嫁する。怒りの矛先をトラウマの根本に向け返すこと、他者の痛みを自分の痛みとして認識すること。このプロセスを通して初めて被害者の境遇が理解でき、再犯防止と加害責任を果たすことができるのだという(「加害者臨床における責任の所在とトラウマインフォームドケア」同書)。では日本の現在の刑事司法制度ははたして加害者の責任とトラウマへのケア、さらに被害者のケアも含めて十全なものとなっているのか。 日本の刑事司法制度は国家と加害者との関係だけで判決を下し、被害者やコミュニティーのニーズや役割は重視されてこなかった。そのため被害者は加害者に対して発言する機会が限られており、時に怒りや憎しみが解消されないままに置かれる。そこで、昨今注目を集めている「修復的司法(Restorative Justice)」は加害者の罪にたんに応報的に罰を与えるのではなく、犯罪の当事者たちや周囲の人たちの人間関係を修復することで更生を目指すものだ。被害者が望めば加害者との対話も実現する。この新たな司法のアプローチについて小松原織香は自身の性暴力の被害体験とともに紹介している。著書『当事者は嘘をつく』(二〇二二年)において自身の被害体験が果たして暴力だったのかという出発点から始まり、意を決して加害者に直接物申しにいくのである。そして加害者は謝りの言葉を述べ、小松原も条件反射的に〈赦し〉を与えてしまう。しかしそれは満足のいく〈赦し〉のプロセスではなかった。「加害者には死んで欲しいと思う日もあれば、平和に暮らしているらしいことを知ってよかったなと思う日もあります。それは被害を受けた人が抱え込まざるをえない葛藤で、苦しんで欲しいという気持ちと、加害者にも生を生ききってほしいという気持ち、矛盾した様々な感情が渦巻いて、それはどうやっても割り切ることができない」。そして修復的司法はこのような日々変化する被害者のニーズとして、対話したければ会えるし、様々な償いの形を求めることができるものなのだと評価する(小松原織香「〝血塗られた〟場所からの言葉と思考」、前掲『現代思想』)。 広瀬一隆著『誰も加害者を裁けない』(二〇二二年)は、無免許運転で娘と孫を轢き殺された遺族を一〇年にわたって取材したものだ。裁判で遺族は厳罰化を求めたがそれは聞き入れられず、加害少年からの謝罪はただ減刑のために心証を良くするだけの表面的なものにしか受け取れなかった。結局遺族は司法の判断に満足はできないままに終わり、少年も刑期を終えて出所する。一〇年の間にある遺族は絶対に許せないという思いをもちつつも、他の事件で加害者となった息子の母親や、別事件の加害者との交流を通じて、元受刑者たちの出所後の生活を支える団体を立ち上げていく。もし修復的司法などの十分な対話があれば、許せない心情はそのままでも、何がしかの対話の糸口が摑めるのかもしれない。あるいは加害者には「まっとうに生きてもらわないと困る」と語る別の遺族もいる。被害者の求めるものとは何か。加害者に必要な償いのプロセスは何か。それはたんに厳罰化や「赦し」かの二分法では切り分けられないものである。長い時間と周囲との関係性によって被害者の認識も変化する。修復的司法は、こうした長期的スパンで対話が可能であるため、被害者の深いトラウマが回復してから加害者と向き合うこともできる。 一方で日本の死刑制度は、こうした対話的なプロセスに逆行している。一四年前に東京・秋葉原で一七人を殺傷した加藤智大死刑囚の死刑が七月二六日に執行された。これに対して報道された記事には加害者が就職氷河期の煽りを受けていたことや、社会の中で孤立を深めていたことなどが語られていた。ただ、目を引いたのはこの事件のある被害者の思いである。「「なぜ無差別の犯行を」という疑問への本人からの答えが聞きたかった」と。さらにこの被害者への加藤死刑囚からの手紙には「どうしたらいいのか、まだわかりません。いずれお会いしなくてはいけないとも考えております」とあった(伊藤大地「死刑執行、願いかなわず」朝日新聞デジタル、七月二六日)。死刑となってしまっては、真に当事者どうしが摑みたかった動機が明らかになることはないし、それゆえ償いも、〈赦し〉も生起することはないだろう。それらを無に帰す国家権力の暴力に対して、わたしたちは加害の根本にあるものを解決していなくてはならない(なかむら・ようこ=大阪公立大学客員研究員・社会学)