大衆と党派の「暴力」の差異について 論潮〈9月〉 中村葉子 新左翼系雑誌の終刊、休刊が近年相次いでいる。『インパクション』や『情況』、『ピープルズ・プラン』などである。それらを通じて、筆者はイラク反戦ごろから旧来の新左翼運動の経験を知り、現在の運動状況を省みることができた。今年に入って『情況』は、あさま山荘事件、リッダ闘争から五十年の節目を迎えるということで、連合赤軍に代表される武装闘争路線を再検証している。編集部の意図は明確である。すなわち過去の凄惨な内ゲバが、現在の運動の局面においても現れてしまっている(反ヘイト運動内部のリンチ事件など)。そうした暴力でもって対立する意見を排除することを批判するために、いま過去の経験から学ぶことがあるだろう、と。この部分を乗り越えなければ今後も大衆的な運動のひろがりは望めない。アラブに飛んだ日本赤軍は武装闘争によって民間人の犠牲を招き日本の一般社会からの支持を失っていった反面で、国際主義的連帯の闘争として支持もされてきた。こうしたことから今後の運動を考える上で引き継ぐべき側面と何を見誤ったかを正当に評価すべきではないだろうか。 『情況』(二〇二二年冬号)の特集で六〇年安保闘争から連合赤軍に至る過程を振り返って対談が行われている。そこで三上治(第二次ブント加入、元叛旗派)は、六〇年安保闘争時の国会突入を経験してきた経緯を踏まえて大衆の実力行動と、党の「暴力」とを切り分けて考えている。安保闘争はあくまで国家権力の暴力に対して大衆の不服従、抵抗の次元であった、と。しかしブントの方向性ははじめから国家権力を打倒し権力を奪取することを目的とした暴力であり、そのためには「人を殺してもやむなしとする政治的暴力」が現出する。この「抵抗」と「革命的暴力」の質的な差異があるにもかかわらずうまく切り分けできないできたことを吐露している。さらに六八年の新宿騒乱と東大闘争を境に大衆的な反乱が後退戦に向かっていたにもかかわらず、武装闘争路線を選択したことで大衆の後ろ盾のない観念的なものになってしまったという。また金廣志(赤軍派)は自然発生的な大衆運動を党が否定し、党=軍が大衆の武装闘争を指導するというあり方自体がマズかったという。結局は自分たちの主張に固執していた、と。青砥幹夫(元連合赤軍)もまた、党を守ることを考えてしまい、闘いのやり方に無検討なままだったと反省する。彼らの言葉で印象的なのは後退局面になおも突き進んだことを戦中の「玉砕主義」(三上)、あるいは「退路を断つ」(青砥)といったように、決死の形相を呈していることだ。そこで疑問なのはなぜ後退戦をうまく立ち回れなかったのか、ということである。その理由は党の権威主義的統治によって転向批判への恐れと逃げるという発想がなかったというのである。他方で三上は全共闘運動でのバリケードのなかで経験したクラスやサークル、あるいは小集団においてなされた民主主義的な討議と統治のあり方にも触れている。(「何が間違っていて、どうしてああなったのか」『情況』二〇二二年冬号)彼らの話から安保闘争や全共闘運動の初期の頃にはあった民主主義的経験が次第に軍的な統治を選んでいったことがわかる。そこには大衆運動が退潮期にありながらも突き進もうとしたがゆえの、武装闘争路線への傾斜であった。 また同誌で重信房子(元日本赤軍)は赤軍派の過ちについて触れている。自他の個人的な弱さやみじめさを認めようとせず、そもそも「撤退」や「離脱」という発想がなかった。そして森恒夫の独裁的な組織づくりと仲間同士の不信感などを挙げている(「赤軍派の崩壊と連合赤軍――私が森指導部と決別した頃」)。 以上踏まえて、先に三上の発言にもあったように、内ゲバや同士ごろしにいたるセクト主義の「暴力」と大衆運動の「暴力」との位相の違いとは何か。整理が必要だろう。たとえば酒井隆史は一九七〇年代の運動における三里塚闘争が学生以上に武装しラディカルであったことを前提として、セクト主義の暴力との決定的な違いを次のように述べる。「それらの違いは、民衆世界の「防御」によって規定されて武器の面でも生活の面でも人間関係の面でも土着的要素を離れようとしない――つまり軍事が自律しない――現実的敵対関係と、土地や繁留する環境を失って抽象的にどこまでも上昇する絶対的敵対関係との違いとも言えるだろう。〔セクト主義の〕「せん滅」と言う言葉が簡単に乱舞するのも、このような「大地喪失」の表現であり、敵対党派同志の死への感覚のマヒも、このような世界とのつながりの希薄さが他者(とみずから)の死を軽くしていたのも一因であるように思われる」(「『追想にあらず』に寄せて――エキストリームなものとラディカルなもの」『追想にあらず』講談社エディトリアル、二〇一九年)。三里塚の竹槍闘争や糞尿爆弾の例を挙げるまでもなく、農民は機動隊を前にして学生と同等に、いやそれ以上に攻撃的であることを小川プロの映画から知ることができる。土着的な武器は殺傷能力の高い武器にはならないし、現実的な敵は一般の人々への「テロ」とはならないのであって、セクト主義の暴力のエスカレーションとは決定的に違うものなのではないか。 谷川雁はかつて三池争議を明確に「軍隊」として記述していた。この「軍隊」とは「最高潮時には二万人の第一線戦闘要員と家族を含む一万人の補給要因が組織され、炊事から衛生に至るまで、この三万人の戦時編成師団はほとんど想像もできないなめらかさで活動した。これは私たちの「赤軍」であるのだろうか。「前衛」党はこの武装にある種の法律解釈のほか何の積極的方針も出さず、赤旗売りに浮き身をやつし〔後略〕」(「定型の超克」『民主主義の神話』、初出一九六〇年)と記述している。いま読むと軍事と生活とが一丸となって闘争を繰り広げていた時代があったことがわかる。このような生活とともにある武装を記述しうる視点をどれだけ持ちうるかで今後の運動の内実も変わってくる。このイメージを豊かにしなければ、デモや座り込み、占拠などの直接行動でさえも批判されたり、他方で排除の暴力のエスカレーションに極端に振れてしまうのではないか。ザパティスタ民族解放軍やクルド人民防衛隊のような非国家的で反権威主義的闘争とも並行して武装とは何かをあらためて考察する必要がある。 今年五月に元日本赤軍の重信房子が出所し、その手記『戦士たちの記録』(幻冬舎、二〇二二年)が刊行された。その書評対談で小杉亮子は、国際主義の地平から日本革命を行うという、外側からの革命プロセスを評価する。ただその場合にもなぜ武装闘争なのか、他の戦術戦略はなかったのかという問いを投げている(「負の遺産として当時を知る」『週刊読書人』七月十五日号)。早尾貴紀はパレスチナの自爆テロやロケット攻撃も実はファタハがイスラエルと妥協案を結ぶときに、政治的に対立するPFLPが自爆テロを行うといった、パレスチナ内部のセクト間の争いによる「暴力」の側面があるという。そして関係のない人々が報復攻撃にあってしまう。ここでも「暴力」というものを民衆の発露なのか党派の戦略なのかで様相が変わってくる。さらに早尾によるとリッダ闘争は、京大パルチザンの奥平剛士らが担っていて、赤軍とは縁が切れていたにもかかわらず、日本赤軍の功績として神聖化されたことも批判する(同誌)。そうした政治的プロパガンダとして闘争を利用したのではないかという点は和光晴夫(元日本赤軍)からも提起されている(和光晴夫「一九七二年5・30リッダ(テルアビブ)空港銃撃決死作戦総括の進化に向けて」『情況』、二〇二二年夏号)。民衆の「抵抗」と党の「暴力」(あるいは政治的戦略)との狭間でどのような武装闘争が取り組まれてきたのか、民衆の「抵抗」と党の「暴力」(あるいは政治的戦略)との狭間でどのような武装闘争が取り組まれてきたのか、あるいは大衆と党との関係性はいかにあるべきか。今後の運動を展開していくためには、この過去の経験を抜きにしてなにも語れないだろう。(なかむら・ようこ=大阪公立大学客員研究員・社会学)