――小説界が突き当たる「型」の問題―― 文芸〈10月〉 栗原悠 三木三奈「消化器」/福永信「同一一一人物」/米田夕歌里「うちの庭」 各誌の創作が充実していた今月は、まず『文學界』掲載の三木三奈「消化器」を読んだ。本作は、「その夏、私は選挙へ行くことにした」というきわめて社会的な決意表明から始まる。しかしこれまでの著作を読んだことがある者ならば、この強い言葉が高邁な公共心などとは無縁なことはすぐに察しがつく。事実、これに続くのは「二十八にして初めての選挙」に参加する「私」が、壊滅的な仕事ぶりゆえに会社から退職を懇願された顚末なのだが、全ての問題を遺伝と解釈し続け、自らの行いを一顧だにしない姿勢は社会との交渉を完全に閉ざしている。あまつさえ、ドキュメンタリーを撮るように己の現況を客観視し得る冷静さを自負している節もあるのだ。従って「私」に内的焦点化された本作の語りは、読者に(外形的には)ピントが外れた「私」との視差に向き合うことを要請する。そこに笑いと一縷の共感を覚えながら付き合っていると、最後に「私」の識外に潜んでいたある客体の視線によって思わぬしっぺ返しを喰らうことになる。小説単体として、こうした構成や作り込まれた細部は魅力的な一方、同時期に今村夏子『とんこつQ&A』を読んだこともあってか、昨今の本質的に周囲とのズレをデフォルメされた人物に焦点を当てた語りの試行の多さは気になった。新しさは絶対の評価軸ではないけれども、その意味ではモチーフとは裏腹に、小説界がある種の「型」の問題に突き当たっているのではないだろうか。 とは言え、小説に新しい何かを求める自分は否定し難い。そんななか読んだ久しぶりの福永信の新作「同一一一人物」(『新潮』)には、読者の勝手な欲望に冷や水を浴びせかけられた。タイトルから強い既視感を覚える本作は、(説明するのもナンセンスだが)内容もまた俺俺詐欺の電話に端を発した不毛な問答が小説を自己生成していくかのように書かれており、「一一一一一」の試行を彷彿とさせる。小説では意味のある対話がなされなければいけないのか、同じことばを繰り返し書くことは許されないのか、あるいはそもそも同じ小説はその後再び書かれるべきではないのか云々。著者は、本当はありもしなかったはずの小説の外骨格を内側からコツコツと脱臼させていく。 ただ、実のところ同じ誌面で(否応なく)最初に目に留まったのは、ページを逆流しながら波状に続く長文と、徹底してカタカナを排した規格外なスタイルの文章だった。大方の読者が感づくだろうが、黒田夏子の新作、「うつつ身」である。カレンダー(もちろん、そんな単語は出てこない)をめぐる思考が、ある踊りの記憶へと連なっていくこの連作は、まだ全くその相貌が見えてこないが、続稿への期待は高まる。 これらアクの強い二作と対照的に小池水音「息」(『新潮』)は、小児喘息を患う姉弟とその家族を淡々とした筆致で描いた一作である。突飛なアイデアはないが、若くして自死を選んだ弟の喪の作業に向き合い、人を悼むこととは何かを問う姉の姿には好感を持った。今や胸が苦しいと言えば、真っ先にコロナが疑われる時代に、気づかれないほどか細い声にこそ耳をそば立たせようとする著者の「わからないままで」以来一貫した志向が窺えた。 『すばる』では、米田夕歌里「うちの庭」にふれておこう。本作の冒頭は「名もなき家事」に忙殺され、幼い息子・蓮に神経を尖らせる「わたし」とその悩みに鈍感な夫というケアに関する一見ステレオタイプな描写が続く。しかし読み進めるうちに蓮が、心身ともに成長が退行していき、最終的にはその存在が消滅してしまう逆転現象という架空の病気(?)を抱えており、一家は日々出来ないことが増えていく彼から目が離せない状況にあるのが分かってくる。病院の薦めから一家はそうした子供たちが集まる施設・「うちの庭」へ蓮を連れていくのだが、そこでの他の家族たちとの交流から蓮の不能性として捉えられてきたことが必ずしも悲観すべきではないものとして捉え直されていく過程は面白く読めた。 一方、『群像』の片瀬チヲル「カプチーノ・コースト」だが、本作の主人公・早柚は、劣悪な職場環境ややりがいのない職務内容に滅入って休職中の身にある。友人からは訴訟や転職といった選択を勧められているものの、そう簡単に決断するほどの勇気もない。ひと月の休職期間中、普段の勤務時間をビーチクリーン活動に充てる早柚は、そこに集まる人たちのさまざまなゴミ観にふれながら自らの汚さ・弱さを直視していく。 最後に、朝比奈秋「植物少女」(『小説トリッパー』)にもふれたい。本作は、出産時に脳に異常をきたし、そのまま寝たきりの状態となった母親が亡くなるまでを、娘である「わたし」の視点から描く。母親は、二四時間体制での看護が必要な状態で、ある親族には半ば死人のように見られているが、母や同じ病室の患者たちとの身体ごとの交流によって「わたし」はそこにたしかな生の脈動を見出す。 紙幅が尽きたので今月は批評などを取り上げることが叶わないが、トリッキーなスタイルのものから一つのモチーフを丁寧に描いたものまでさまざまな志向の小説が揃い踏みとなったひと月と言えるだろう。(くりはら・ゆたか=早稲田大学国際文学館助教・日本文学)