――「小文字」の肉声を引き出すノンフィクションの送り手――寄稿=新井 信 ノンフィクションの黄金時代といわれた一九八〇年代に『性の王国』(八一年一二月刊)で単行本デビューして現在に至るまで、じつに四〇年以上にわたって休むことなく第一線でノンフィクション作品を発表し続け、次なる企画についても熱をこめて語っていた佐野眞一さんが七五歳で亡くなった。 ノンフィクション界は大宅壮一グループを第一世代として、新聞テレビ出身の柳田邦男、本田靖春、上前淳一郎らの第二世代を経て、出版社系週刊誌や業界紙を舞台に初めからフリーのライターとして活躍したのが第三世代であり、いわゆる団塊の世代だった。その中核にいたのが佐野さんである。ちょうど高度成長期でもあり、大学紛争が激しい時でもあった。佐野さんは早稲田ではシナリオ研究会に属した映画青年だった。後に「誰がいつどこで」という脚本書きが、ノンフィクション執筆の基礎を形ずくったと語っている。 経済成長期といっても週刊誌のフリーライターや業界紙記者の生活はかなり苦しかった。仕事の相談に喫茶店へ入る金もなく、打合せをしながら新橋から京橋までの大通りを何往復も歩いたことがあったというエピソードを、苦笑いしながら語るのを聞いたことがある。注文があればどんな埋め草原稿でも安い稿料で引き受けざるを得ない日々が長かった。 やがて週刊誌でフリーライターの力量が徐々に認識され、戦力として重用されるようになり、連載企画まで任せられるようになった。佐野さんのデビュー作『性の王国』も「ドキュメント・ニッポンの性」という週刊誌連載をまとめたものである。フリー仲間の先陣を切って自著が出た。当時、フリーライターたちは情報交換と親睦を兼ね、一晩居酒屋を借り切り定期的に集まっていた。佐野さんの初出版後に開かれた酒場は、みんないつもより声高に喋り異様な熱気に満ちていた。私は「性の王国」の担当編集者として現場にいて、佐野さんの紅潮した顔をはじめて見た。後に名を成すライターたちも素直に羨望と野心をのぞかせていたのだ。 ノンフィクション作品の王道は人物評伝である。佐野さんは人物評伝を得意とし、いずれも書評に取り上げられ話題に上った。作者自身が高度経済成長五部作として挙げているのは、『遠い「山びこ」』『カリスマ』『巨怪伝』『旅する巨人』『あんぽん』である。取り上げられた主人公たちはいずれも、常識を超える強烈な衝動を内面に抱えた人物たちである。テーマとしてその内面の過剰さに惹かれたという。 佐野さんには人物評論を書く鉄則があった。「テーマとする人物の思考や言動はもちろん、生まれ育った環境や文化的、歴史的背景を取材しルーツを探り、その成果を書き込む」ということだ。家族の歴史を過去にさかのぼり、両親や祖父母の時代まで取材して主人公を等身大に描くのである。そのため、週刊誌連載が第一回で中止に追い込まれたこともあった。 がっしりした体つきで顔の造作も大きかった。見ようによっては怖い感じを与える。しかし取材相手に話かける声はやさしく丁寧で、相手の反応にいちいち大きくうなずいてみせた。ノンフィクションは「大文字」ではなく「小文字」の肉声を引き出すことだとはいつも口にしていたことだ。佐野さんが敬愛していたのは民俗学者・宮本常一である。生涯一六万キロ、地球を四周する距離を自分の足だけで歩き、人々から話を聞き、それを詳細に記録し続けたという。佐野さんは常にそのことを心に意識していたはずである。 現場に何度も足を運び未知の情報を探し当てる、事実を重ね合わせひとつの物語を編む、佐野さんはこの能力に抜きんでた。晩年、気のゆるみからか「現場から足が遠ざかるようになっていた」結果、作家として致命的ミスを犯し世間や仲間から激しいバッシングを浴びた。以来「初心に戻れ」と自らをムチ打ち、独り新しい作品構想を頭に描く日々だったと思う。(あらい・まこと=元文藝春秋編集者)佐野 眞一氏(さの・しんいち=ノンフィクション作家)九月二六日、肺がんのため死去した。七五歳だった。 一九四七年東京都生まれ。早稲田大学卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。九七年に『旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三』で大宅壮一ノンフィクション賞、二〇〇九年に『甘粕正彦 乱心の曠野』で講談社ノンフィクション賞を受賞した。他の著書に『遠い「山びこ」 無着成恭と教え子たちの四十年』『カリスマ 中内功とダイエーの「戦後」』『東電OL殺人事件』『だれが「本」を殺すのか』『巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの一世紀』『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』『あんぽん 孫正義伝』『津波と原発』など。