――生きた日本芸能史の魅力――寄稿=田中德一 日本芸能史の第一人者、倉田喜弘氏が今年八月三十一日、九十一歳で亡くなった。新年の賀状を頂けなかったから案じていたところ、この度の訃報に接し、とても残念である。面識を得たのは晩年になってからだが、大分以前から芸能史の著書にいろいろ啓発を受けていた。門外漢ながら、一読者として倉田氏の芸能史の一端に触れ、追悼の言葉としたい。 倉田氏の著書を読むと、はるか昔の出来事なのに、今眼前で目撃しているようなみずみずしさを感じる。なぜか。それは丹念な探索によって掘り起こした当時の直接資料に拠って記述しているからなのだ。ある本の中で「いつのころからか個人の著作に頼らず、一次資料ともいえる新聞情報を大切にするようになった」と述べている。彼はNHK在職中から亡くなるまで、日々、新聞と公文書の探索に情熱を注ぎ続けた。このたゆまざる調査により正史に書かれていない多くの事象が明らかにされた。 日本芸能史に対する倉田氏の関心は、著書『明治大正の民衆娯楽』(一九八〇)によると、軽業、生人形、講談、どどいつ、歌舞伎、落語、手品、壮士芝居、浪花節、琵琶、女義太夫、新劇、洋楽など多岐にわたり、どれも興味深く珍しい話ばかりだが、この著作が倉田氏の芸能研究の原点になったのではないか。基礎資料としてその後の研究を支えたのは、自らの編集になる資料集『明治の演芸』(全八巻、一九八〇-八七)、『芸能』(一九八八)であろう。 倉田氏は近代芸能史を官対民の構図で読み解く。明治維新後、お上は富国強兵の立場で民衆の芸能を「国家に益なき遊芸」と見なしてきたという。事実、例えば役者は舞台で卑猥な演技をし、私生活では色を売って婦女子をだましていると思われていた。こうした芸能差別の体制が変化のきざしを見せるのは、明治十二年、グラント・岩倉具視会談とその後の能楽保護、十九年発足の末松謙澄らの演劇改良会と翌年の井上馨邸での天覧歌舞伎だと倉田氏は考える(『芸能の文明開化』一九九九、『芝居小屋と寄席の近代』二〇〇六)。改良運動は直ちに講談や落語などの演芸へ波及していった。 だがこのような運動が起きたのは、十八年、ロンドン初演の荒唐無稽なオペレッタ『ミカド』の大反響と、その演技や衣装に影響したと言われる同年開場のロンドン日本人村(職人による日本風俗展覧会)の評判が日本に伝わったためで、倉田氏によれば、その真のねらいは「ヨーロッパ人の抱く東洋人劣等論をはねのけ、日本人村と『ミカド』の類似作品を防ぐ」ことにあったというのだ。それにしても倉田氏の『1885年ロンドン日本人村』(一九八三)、凄腕の雇い主が役人を出し抜いて、あの手この手で出稼ぎ希望の職人を国外へ連れ去り、見世物に出演させるなど、日本人村誕生の秘話には驚くことばかりである。 しかし『近代劇のあけぼの~川上音二郎とその周辺~』(一九八一)以来、倉田氏が繰り返し述べてきたことだが、日本の近代芸能の草分けは、団十郎でも菊五郎でもない。川上音二郎なのだと。二十四年、東京・中村座の壮士芝居から始まり、二十八年の歌舞伎座進出、三十六年、欧米巡業の成果を問う明治座の正劇『オセロ』上演、本郷座の『ハムレット』公演で五ヶ条の劇場改革敢行、若手歌舞伎俳優も加えた晩年の革新劇団の活動に至るまで、多くの成功と失敗を重ね、庶民のための演劇改革に邁進してきた。倉田氏は従来の定説を批判して、「演劇改良会をはじめとする東京の改良運動は官僚主義で、いわば〝上からの改良〟である。それに反して〝下からの改良〟で、自由民権の思想を背景に『新演劇』という一分野を確立し」、地殻変動を起こしたのは川上だと、彼の功績を称える(『芸能の文明開化』)。 倉田氏にはその他、『海外公演事始』(一九九四)、『日本レコード文化史』(二〇〇六)など多くの優れた著作があるが、読者はその生きた歴史に魅了され、どこにも書かれていない内容の迫力に圧倒されるだろう。倉田喜弘氏のご冥福を心からお祈りする。(たなか・とくいち=元日本大学教授・比較演劇史)倉田 喜弘氏(くらた・よしひろ=芸能史家)八月三一日、肺がんのため死去した。九一歳だった。 一九三一年大阪府出身。NHK勤務の後、退職後は芸能史研究に専念。著書に「端唄」の名曲を発掘・編さんした『江戸端唄集』、『日本近代思想大系・芸能』、『日本レコード文化史』など。