――この船路、危ぶむなかれ――寄稿=玉袋筋太郎 ガキの頃に魅せられてから五五歳のこの年齢まで、一日たりともアントニオ猪木のことを考えない日がなかった。「いまごろ猪木はなにやってるんだろう……」「猪木だったらこんな時どう動くだろうか?」。いい歳になってもオレの様な生き方をしているであろう猪木信者にとって不朽の超大作である『アントニオ猪木物語』のエンディングから受ける絶望感、虚無感たるやない。ちなみに『アントニオ猪木物語』は世に溢れる「なんたら物語」とつく作品なんかとは比べ物にならない物語でなのある。 『猪木物語』にエンディングがあるという事はオープニングがある。そのオープニングシーンは猪木の人生を決定してしまう重要な場面だ。それは一三歳の時に「サントス丸」に乗船し夢を求め猪木一族が新天地ブラジルに渡るシーンである。目的地がいきなり「地球の裏っかわ」という、どんな旅行会社でも、飲み屋のトイレの扉に貼ってある怪しげな船旅のポスターもビックリの船旅であるからして度肝を抜くオープニングである。 猪木一族の夢を乗せたサントス丸の船内でアントニオ猪木という生物に多大すぎる影響を与えた祖父が、毒っぽい青いバナナを食して死んでしまい一族は大海原に祖父の亡骸を涙で葬る。生前、祖父は常々、少年だった猪木に語る。「世界一になれ、たとえ乞食になったとしても、世界一の乞食になれ!」と。 ちなみに最近、孫に恵まれたオレだが、どこの誰が自分の孫にこんな言葉を語りかけるだろうか。この祖父の気の狂った教えがその後の猪木の人生の「人としての尺度」というものを取っ払うのであるから、オレも孫に伝えよう。 そして夢を持って渡ったブラジルで待ち構えていたのはコーヒー農園での奴隷同然の重労働の日々。そこでブラジルに来た日本のスーパースターである力道山に見出され日本に連れ帰されるという運命の帰国事業に巻き込まれプロレスラーになる。同期入門は元読売巨人軍の巨人ジャイアント馬場。いや〜もう凄すぎる! ブラジルのアゴの出た青年と巨人という見た目にもユニークすぎる素材を同時に入門させる力道山のセンスが凄すぎ。ってここまでで「猪木物語」の第1章で、物語はエンディングまで果てしなく続いていくんだが、文字数がたりねぇですよ。 ならば、私事の猪木の思い出である。中学時代にあまりに猪木に熱中するオレを見たオヤジが「おい、プロレスなんてものは〜」と冷や水をぶっかけてきて「ジャイアント馬場はそうかもしれないけども、猪木は違う!」と口論になり、それからオヤジとは五年間、口をきかなくなった。親子関係までも闘いに展開させてしまう、これぞ「猪木イズム」の凄さ。 「猪木イズム」とは人それぞれ受け取り方が違うと思うけど、オレが感じる猪木イズムとは、己の闘いや生き様を通して、あっちを向いている人間の首根っこ摑んでもこっちに振り向かせることが猪木イズムであるということ。人がやらない突拍子もないことを猪木は実現してきた。モハメド・アリとの対戦、イラク人質解放、北朝鮮での平和の祭典、数えきれない。それら猪木の行動総てが人々を振り向かせてきたのだけれど、その裏で泣いている人も沢山居たのも事実。不可能を可能にする為に金銭面で人間関係がおかしくなりトラブルになったり、怪しいビジネスに手を突っ込んで借財背負ってスキャンダルに発展したことも数多く起きる(多分、死後も出てきそう)。そんな毀誉褒貶なども含めて「どうってことねぇですよ」とどこ吹く風、しまいには「スキャンダルを興行に結びつけない奴は経営者として失格である!」とこれまた常人では考えられないことまで言い放つ。これぞ人間としての尺度を取っ払ってしまっている猪木イズムであり、気狂い祖父の教えを実践している猪木。最期まで病と闘い、その姿を世間に発していたことが「猪木イズム」の真骨頂だった。「一日たりとも〜」、それはこれからも変わらない。それがオレに注入された「猪木イズム」。 同期入門でライバルであったジャイアント馬場が率いた全日本プロレスが、潤沢な資金と豪華な外国人選手を揃える団体の体の「豪華客船」で、一方、猪木率いる新日本プロレスは資金も外国人選手も揃えられないので、無人島で筏を作って大海原に出る。と喩えた人がいた。優雅なクルーズよりもドラマチックでサバイバーな筏の船出。その、凪はなく、嵐や大波に揺られ、漂流し続け、座礁しようとも、沈まずオールを漕ぎ続け進み続ける人生だった『アントニオ猪木物語』。 ふと、考える。確かに猪木の人生は、筏の喩えでオレを魅了してくれた。だが、もしかしたら、猪木自身の人生は、あの頃、一族で夢を抱き乗船した、あの「サントス丸」の、旅の続きではなかったのかと……。(たまぶくろ・すじたろう=お笑い芸人) アントニオ猪木(あんとにお・いのき=プロレスラー)一〇月一日、心不全のため死去した。七九歳だった。本名猪木寛至。 一九四三年神奈川県生まれ。六〇年、力道山に見出されプロレスラーとなる。七二年、新日本プロレスを旗揚げ。燃える闘魂の異名で愛された。引退後も数々の団体や興行に関わり、マット界の重鎮として君臨した。