――円楽さんとあの頃の青学(の)学生運動――寄稿=高橋順一 円楽さんが亡くなった後意外なことが起こった。何人かの知人から、円楽さんと青学大の学生運動との関わりについて教えてくれと問い合わせがきたのだった。正直言って困惑した。たしかに円楽さんが青学大時代に学生運動にかかわっていたらしいということは聞いていた。また円楽さんが、当時青学大文化団体連合本部長だった私の名前をしっているらしいという話も知人から聞いたことがあった。だが円楽さんと会ったことはないし、確実なことは何も知らなかった。知人の問い合わせに、ほとんど何も知らないと答える他なかった。そこへ今回読書人から追悼文の依頼が来るという予想外の事態になってしまった。私は、先日ある集まりで再会した青学大の先輩で活動家だったGさんに電話をかけ円楽さんについて知っていることがあったら教えてほしいと頼んだ。 先にちょっと説明しておくと、青学大では一九六八年から学生運動が始まっていた。当時国際勝共連合(あの旧統一教会の政治団体)の日本におけるボスで青学大の理事長をしていた大木金次郎の独裁体制に対する反発から起こった運動であった。青学大全共闘が結成され、議長には現在演劇団を主宰する流山児祥(藤岡さん)とともに演劇団を創設した白石さん(演劇団では新白石)が就任した。その過程で円楽さんも全共闘の運動にシンパシーを持ったようだった。青学大ではこの運動の展開のなかで共産主義者同盟/社会主義学生同盟(ブント)系の力が強くなり、その後ブントが党内闘争を経て赤軍派・関西派・理論戦線派・さらぎ派・神奈川左派・情況派などに分裂する中で、青学大は中大と並び叛旗派の拠点となっていった。私が青学大に入学した一九七〇年、理論戦線派を中心とする戦旗派と叛旗派の分裂が決定的となり、私なども叛旗派のメンバーとして活動するようになっていった。この年の秋、一年生のくせに文連の本部長になったのも叛旗派内の事情によっていた。ちなみに先代の本部長は、写真批評の世界で荒木経惟を最初に紹介したことで知られる長谷川明さん(故人)だった。話を聞いたGさんは、こうした全共闘運動が党派運動へと変質していく過程―そこには激烈な内ゲバが伴った―に嫌気がさして運動から遠ざかっていったといっていたが、どうやら円楽さんが先代円楽のかばん持ちになって落語の世界へと進もうと決意したのにも、同じような事情がからんでいたようだった。さてGさんは、運動の時代から同級生だった円楽さんと親しかったこと、その後も楽太郎の襲名披露に招待されたこと、ずっと口演会への参加や年賀状のやり取りを続けていたこと、円楽さんから最後に手紙をもらったのが今年の八月だったこと、そこで高座への復帰を語っていたこと、さらには当時青学大叛旗派のキャップだったYさん―Gさんと再会したのは亡くなったYさんを追悼する集まりでだった―も円楽さんの口演会へいったことがあったことなどを話してくれた。私は驚きで呆然となってしまった。こうした人間的な関わりが円楽さんと青学大全共闘の運動、さらには青学大叛旗派とのあいだにあったとは! 私は七〇年の四月に青学大へ入学したので、運動をやめて落語家への道を歩み始める円楽さんとちょうどすれ違いになったのだった。 私もその後叛旗派の運動を離れ、叛旗派は消滅し、ブントの党内闘争も、六〇年代から七〇年代にかけての運動の季節もすっかり過去のものとなってしまった。しかし私自身はあの時代に自分の中に宿った問題意識をどこかで引きずりながら生きてきた気がする。円楽さんはどうだったのだろうか。円楽さんの死は思いがけない形で忘れかけていた青学大時代のことを思い出させてくれた。そして同時代を知る仲間の一人が亡くなったのだということを改めて痛感した。円楽師匠、一度会ってゆっくり話がしたかったと思います。お疲れさまでした。やすらかにおやすみください。(たかはし・じゅんいち=早稲田大学名誉教授・思想史) 三遊亭円楽(さんゆうてい・えんらく=落語家)九月三〇日、肺がんのため死去した。七二歳だった。本名會泰通。 一九五〇年東京生まれ。青山学院大学在学中に五代目三遊亭円楽に入門。六代目三遊亭円生より「楽太郎」を拝命。七七年より日本テレビ系列の番組「笑点」の大喜利メンバーに抜擢され、お茶の間で活躍した。七九年に「放送演芸大賞優秀ホープ賞」受賞。二〇一〇年には六代目三遊亭円楽を襲名した。