「戦後民主主義」における制度と運動の関係をめぐって 論潮〈11月〉 中村葉子 ここ最近の論壇誌上では「戦後民主主義」が盛んに議論されている。「戦後民主主義」は、憲法九条や基本的人権に見られるように平和と民主主義を重んじ、日本の民主主義の土壌を育んできた。それはまた敗戦後まもない日本でGHQによって「外から」持ち込まれたものであったとしても、はじめて「民衆」みずからが自分(たち)のことは自分(たち)で決めるという主権を取り戻すものとしてあった。民主主義は「民衆」みずからによる自己統治であると言われる。その理念は戦争や差別によって個々の人権が守られない現在においても強く希求されている。けれども一方で「戦後民主主義」のもとでの日本の平和はアメリカの〈核の傘〉のもとで存続してきたし、前回の論評で述べたように「議会制民主主義」の行き詰まりも見えてきた。ゆえに、欺瞞的かつ形骸化してしまっている側面もある。そのため「戦後民主主義」を検証し民主主義とは何かをあらためて問う時期に来ているといえるだろう。 『世界』一一月号の「戦後民主主義に賭ける」と題された特集において「戦後民主主義」が日本の思想史や運動史の視点で再考されている。まず三宅芳夫の論考は、戦中のファシズム体制に対抗する知識人たちの思想が「戦後民主主義」を準備した点を指摘している。例えば「戦後民主主義」の代表的論者である丸山眞男をはじめ、埴谷雄高、久野収、椎名麟三などは治安維持法違反容疑により二〇代前半で逮捕・留置される経験をしている。こうした弾圧によって受けた「屈辱」や「恐怖」が「反ファシズム」の思想として「民主主義」を擁護するエネルギーになったという(「戦後思想の胎動と誕生1930―1948」)。 山本昭宏は戦争による〈死〉の経験が、冷戦下においても戦争への拒否感として、人々の間で広く共有されていたという。山本が例として挙げているベ平連(「ベトナムに平和を!市民文化団体連合」)は日本が戦争に巻き込まれるのを避けるための運動を行ったのではなく、日本の戦争加担を問い、米兵の脱走援助に見られるように「殺す人」を減らすというところに運動の意義があったとする。戦争への加害者意識が顕在化してきたのである。また組織原理に見られる、ベ平連を名乗れば即メンバーになることや、革新政党の指導を受けない点からわかるように、直接民主主義としての個人の自発的な参画という性格を持っていたことも重要である(「戦後民主主義という経験」『世界』前掲)。 「戦後民主主義」は一面では憲法体制や議会制度にみられる制度的実体であるが、一方で上記のように自分たちのことは自分たちで決めるという政治参加の運動実践によって育まれてきたものでもあるといえよう。そのような「制度と運動」とのそのせめぎ合いのなかで「戦後民主主義」を紐解こうとする立場は、丸山眞男をめぐる議論からも近年明らかにされてきている。清水靖久は丸山眞男にとっての「戦後民主主義」は、啓蒙的に教えるものでも擁護するものでもなかったとする。そうした正否の彼岸に立ち、「民主主義の原理」を見定めることに力点を置いていたとする。清水が引用している以下の丸山の言葉は実に興味深い。「民主主義ってのは、制度と運動の統一なんです。完全に制度化されちゃったら、国体みたいになっちゃって、民主化の契機が出てこない、そういう民主主義と言うのは言語矛盾なんです。他方制度化の面がなければ、これは完全なアナーキーで、これだけのものが制度として蓄積されたと言う契機がなくなって、毎日が混沌とした状況の連続になってしまう」。ところが「民主主義の擁護なんて言うと、議会制度とか、それも既成の慣習によって動かされている制度を丸ごと守るように思うから、それはつまらんということになるのは当然だ。実際には権利の擁護で、それは運動によってしか擁護できないものなんですね」。このように「制度」と「運動」との両極の平衡を保とうとするところに、丸山のスタンスがあるという(「戦後民主主義と丸山眞男」『思想』二〇一八年六月号)。この視点から民主主義は既に制度としてあるものではなく、運動によって錬磨されるものとして丸山は考えていたことがわかる。丸山の念頭には六〇年安保闘争の全学連の運動があり、それによって議会制民主主義を批判してもいた。 また酒井隆史もこの視点に立ちながら、丸山には制度に先立って、常にそれを解体していく、「民衆による自己統治の実践」がまずあったのだとみている。つまり制度を壊すのも作り上げるのも民衆の「解体的力能」に関わってくるというのである。制度と運動との緊張関係が常に孕まれているわけである。そのため東大教授であり、立場上、全共闘運動と対立していたとみなされてきた丸山は、実はそれほど全共闘と異なる位置にいたわけではなかったのではないか、とも指摘される。例えば全共闘運動のイデオローグであった津村喬は、全共闘運動は混沌のなかから既存体制とは別の秩序を生み出していったと説いたが、それは丸山とも共鳴していたかもしれない。また鶴見俊輔が民衆の日常的実践から民主主義の裾野を広げようとした姿勢とも関わり合いを持つのではないか。この点は新たな丸山像を提示するものであり、大変興味深い視点である(「この民主主義を守ろうという方法によってはこの民主主義を守ることはできない」『世界』前掲)。 一九七〇年代以降、一般的に「戦後民主主義」は弱体化していったといわれる。なぜなら高度経済成長を経て生活が豊かになった多くの中間層にとって、平和主義を残存させながらも政治的には現状維持を求めたからである(前掲、山本)。それはマイホーム主義とも揶揄された。しかしその裏で沖縄の基地は温存され、在日朝鮮人は選挙権がないまま憲法体制の埒外に置かれてきた。そのような「戦後民主主義」の姿に対して、森崎和江は個々人が豊かさの「私権」に溺れていく様を鋭く批判する文章を書いていた。これは運動が制度に包摂される際にかつて持っていた民主主義的性格が制度によって解体されてしまうという道筋を辿る。森崎はそのことを次のような日常の一幕から描き出す。炭鉱の組合運動で委員となる男たちはそれまでの足袋や下駄を脱ぎ捨て、靴に履き替えて偉そうに指導者面をしはじめた。組合は議会主義の多数決を採用し、生活保護費をはじめとして母子寮や保育所もできたことで福祉制度はひとまず十全なものとなった。けれどもそうした外からもたらされた民主主義は(運動で勝ち取ったものであったとしても)、逆にそれまでの炭鉱の生活の原理としての「共有社会の確立」を解体していったという。具体的には日常の着物や下駄を共有し、朝めしが食べられない場合は自分の家族でなくとも食べ物を分け与えるというような共有の精神がなくなっていくことである。「それ〔共有の精神〕は財産権よりも基本的人権の確立が主眼目であったぎりぎりの無権利情況のなかで、組織も持たぬ前期プロレタリアートが死にものぐるいで打ち出した社会であった。だからそれは単独の個人の権利の主張ではなく、同志あっての我が身という。つまり平等な人格たちの拮抗する力が、個人と社会とを共に支えるという信条である。それはまことにデモクラティックで、期せずして民主主義の原基体が生成しているのを感じさせた」(「戦後民主主義と民衆の思想」『現代思想』一一月臨時増刊号、初出:『伝統と現代』第三〇号、一九七四年一一月)。 共有の精神は持たざる者どうしが共に生き抜く知恵であったが、それは同時に民主主義の自由や平等といったものの実現でもあった。しかし資本主義的制度の中における福祉政策が整えられると、個々は分断化され個人の「私権」に堕してしまう。その制度にそぐわない者は排除され、無権利状態に置かれる。森崎もまた、先に見たように民衆の自己統治の実践が制度に包摂されることで、かつて広がっていた民主主義の可能性(所有の新たな概念)がいかに窒息させられてきたかを執拗に暴き出そうとしていた。こうした制度と運動の関係性は今も様々な運動現場で見られる矛盾であって、この点にどれだけ自覚的であるかが、民主主義を考えるときに常にわれわれに問われている問題であるといえる。(なかむら・ようこ=大阪公立大学客員研究員・社会学)