――他人の空似を活かす小説表現の強み、「がらんどう」という重み―― 文芸〈11月〉 栗原悠 新人賞*日比野コレコ/安堂ホセ/黒川卓希/大谷朝子 今月は、『文藝』、『新潮』、『すばる』の三誌で恒例の新人賞発表があった。まずは二作同時受賞となった文藝賞から見ていきたい。 これまで綿矢りさや羽田圭介、三並夏、最近では宇佐見りんなど新人賞のなかでも特に若い才能を世に送り出してきた文藝賞だが、今回の「ビューティフルからビューティフルへ」の日比野コレコも二〇〇四年生まれの一八歳という。小説自体は、三人の主人公の学生生活が各々の視点から書かれており、それが結末近くで三人を結びつけることばぁなる老婆の指示によって書かれたことが明かされるものの、ほか三作に比べればかなりオーソドックスな形式になっている。だが、特筆すべきは既存の小説や短歌、あるいはHIPHOPのリリックなどさまざまなことばを奔放に散りばめたグルーヴィーな文体だろう。それが何か意味深な記号としてあるのではなく、ただ小説を歪ませ、撓ませ、リズムを生むことに資している。選評ではことばぁの造型が引っかかったようだが、それすらもこの小説の緩急に貢献しているのではないか。「高三のクラスでは、一、二、三、四、五、六、ナナの七人グループだった」といった文章の振り切れ具合も強く印象に残り、新人賞四作のうち、個人的には最も惹かれた。 安堂ホセ「ジャクソンひとり」は、ジャクソンほか日本で暮らす容姿がよく似たブラックミックスのゲイたち四人が入れ替わりに描かれるが、「ビューティフル〜」とは異なってこの四人が必ずしも上手く描き分けられていない。ただ、「赤の他人の瓜二つ」(磯﨑憲一郎)のように、設定としての他人の空似が活かせるのは小説という表現形式の強みでもあり、むしろこの混同しやすさによってこそ各々の固有性と集合性のあわいが上手く捉えられているように思えた。ジャクソンたちの自らに向けられた差別への視線に対するブレのある振る舞いもそうした小説の試行と上手く合致している。また、物語の中心に輻輳的な差別への「復讐」を据えながら、敢えて軽さをねらった文章も本作のユニークな点として挙げられよう。ただ、結末で登場するミンストレルさながらに黒人に扮した日本人・マーフィーの芝居がかった死と、残されたジャクソンフォーの関係は、ここで幕切れなのかと少し物足りなく感じた。 新潮新人賞の黒川卓希「世界地図、傾く」は、海外からの大量人口流入が進んだ三〇年ほど先の日本を描く。焦点化される亜希人とユイの二人はそれぞれ、共感覚を持って育ったトラックドライバーと日本語モノリンガルが少なくなりつつあるなか、ある時期まで英語のみが話される環境で育てられたセミリンガル(かつ日韓のダブル)と設定されている。また、かつて亜希人には女装家で同性愛者の恋人がおり、ユイは性風俗で働いているものの、アロマンティック的な志向を含んでいるようにも描かれている。さらにキヌアなるカリスマ的な移民の政治活動家が登場し…、といった具合に多様な属性の人物たちがこれほど溢れる小説はそうない。ただ、そうした果敢な試みを買うとしても(ちょうど作中でもそのことばが欠落しているように)それによって小説の「社会」が見えてこない点は残念だった。そうだとすれば、いっそ割り切ってgoogle的な情報洪水をそのまま描くという方向性もあったように思う。 最後にすばる文学賞の大谷朝子「がらんどう」は、平井と菅沼というアラフォー女性二人のルームシェア生活を描く。平井は自身の卵子を凍結保存しており、マッチングアプリなどにも手を出しているが、アセクシャルである自覚も持っている。そんな平井の求めに応じて菅沼は、愛犬を喪った人のためにフィギュアを作る副業用の3Dプリンターで新生児を作成する。このフィラメントで出来た軽い物体の空虚さを描きながら「がらんどう」という重みを含んだことばを充てたところは面白い。平井と対照的に奔放な恋愛生活を送りながら妊娠の可能性を強く否定する菅原についてももう少し掘り下げてほしい気がしたが、新人賞四作のなかでは物語として最もまとまりがあった。 さて、新人賞以外では『文學界』の短篇競作特集「忘れる」に収められたマーサ・ナカムラ「とんぼ」に目が止まった。本作では、表題の通り、不意にオフィスのなかに飛び込んできたトンボがきっかけとなって物語が展開していく。何となくユーモアな景色と思って読み進めていくと、突然狐につままれたようにマジカルな世界に連れて行かれるのは著者の詩とも通じる魅力と言えるが、小説の時間の枠がやや窮屈さを与えているようにも思えた。 短中篇が多く掲載されていた『群像』では、グレゴリー・ケズナジャット「開墾地」を取り上げたい。博論提出を控えた日本の大学院生・ラッセルは、イラン出身の継父が暮らすサウスカロライナの家に帰省する。kudzu(葛)が繁茂し続けるその家の庭で交錯する母語の英語、学術論文を書くまでに体得した日本語、ほとんど音としてしか知らないまま、しかし密に接してきたペルシャ語がラッセルの感情をざらざらと擦っていく。その機微が丁寧に描き込まれており、強く印象に残った。(くりはら・ゆたか=早稲田大学国際文学館助教・日本文学)