陰謀論・宗教・犯罪からみる現代の世相 論潮〈12月〉 中村葉子 安倍元首相の銃撃事件を契機として旧統一教会と政治家とのつながり、高額献金問題、人権侵害などが問題視され、カルト宗教団体への法的規制に向けた動きが進行している。また同時にカルト団体とまでは認識されていないものの、ネットを中心に反ユダヤ主義的な陰謀論が溢れ、特定の組織や個人への襲撃が行われている。日本でも陰謀論者の政党が支持を集めている。あるいは姓名判断、手相などの占いや、都市伝説は日常的によく目にする。こうした宗教や陰謀論、スピリチュアルをめぐる新たな熱狂的信仰=カルトの時代がふたたび到来している今、この世相をいかに読み解くことができるだろうか。 そもそもカルトはラテン語のcultusに由来する言葉で「儀礼・祭祀」の意味をもつ。しかし20世紀のアメリカの宗教研究者の間で主要な宗教に属さない小規模かつ秘教的教えを持ち、カリスマ的指導者への熱烈な崇拝を特徴とする教団をさすものとして定義されてきた。さらに保守的な宗教者からの異端的扱いや、反カルト運動家、メディアが否定的に使うものとして徐々に定着してきた(櫻井義秀「カルト論の現代的射程」『現代社会学研究』一七巻)。雨宮純「米国のスピリチュアルと政治」(『世界』一二月号)を読むと、カルトやスピリチャルは上記の宗教的異端者であるだけでなく、時の権力体制の異端児としてカウンターカルチャーの文化的側面を源流に持っていることがわかる。昨今の極右の陰謀論に直につながるわけではないのだ。なかでも六〇年代に米国でのカウンターカルチャー、ニューエイジに象徴的なようにヒッピーがLSDで意識の変革を試みると同時に、有機農業や菜食主義を実践。環境保護運動やベトナム反戦運動にみられるような反体制的な社会変革を目指す側面が強かった。しかしニューエイジの集団瞑想にみられるような「人々の内面的な変化」を重視する姿勢が、結局は自己啓発・大企業の能力開発に装いを変えて資本主義の中に吸収、オーガニックスーパーも富裕層向けの消費文化として定着してしまった。さらにニューエイジのUFOや宇宙人などの捉え方は政府と宇宙人の陰謀によって世界は牛耳られているというものであったが、それが八〇年代以降の米国極右の新世界秩序論(パワーエリートや大富豪が世界を操っているという陰謀論)と結びつくことで六〇年代とは逆に右派の勢力へと転換した。しかし雨宮によればスピリチュアルは現実世界を批判する「想像力」を提供するものだとも語っている。この「想像力」の問題は、陰謀論と同時期に興隆した「ウォール街占拠」の中でしきりに叫ばれた「もうひとつの世界は可能だ」という民衆の「想像力」とどう違うのか。反グローバリズムや金融システムが世界を席巻し格差を招いているという視座は陰謀論とも通底する。革命と保守反動は紙一重ではないのか。この二つの間には権力システムへの不信が共通項としてあるものの、そこから己を防衛する際に背景の異なる他者との連帯を望むのか、全体主義的な排他性に向かってしまうのかの相違点があるのではないか。さらには陰謀論にはヒトラーやトランプといった崇拝対象がいることも特徴的である。 陰謀論を論じた井上弘貴、渡邊靖「現代アメリカ社会における〈陰謀〉のイマジネーション」(『現代思想』二〇二一年九月号)でもこの異なる世界への「想像力」の問題を重要視している。そこで興味深いのは、まず、人間は未知なる状況と遭遇した時に何かしらの仮説を立て因果関係を引き出そうとするものであり、その行為は陰謀論の思考回路と非常に近いものだという。ただしそこにあまりにも明確な虚偽があることと、何かしらの目的を達成しようと試みることをもってして、陰謀論は成立するという。その意味で、陰謀論は白人ナショナリストの抱く不安や犠牲者意識につけこんで、「ネガティブなイマジネーション」を働かせることで、誰かに責任を負わせようとする態度を引き出したというのである。自分が報われない因果を政治家や知識人、メディア、ユダヤ人、移民のせいだと決め込んでしまう。さらにSNSの普及とコロナ禍による人々の孤立化によってさらに加速し、排外主義的で分断の政治を展開してしまった。 こうした負の「想像力」は、人々の不安や危機を煽って利益を得ようとするものによって増幅させられてしまう。いま問題となっている旧統一教会にもあてはまる。郷路征記が述べているように、例えば統一教会は、既婚女性に家系図を作らせ身内の自死や早死を先祖の因縁のせいだとする。そして先祖供養によって家系の因縁を精算することが救いの道だと説く。山上容疑者の母親も息子の病気という苦難を乗り越えるには、自死した夫の「恨霊」(霊界に行けずにこの世で彷徨い人間の悪事や病気をおこす霊)という因縁を精算すべきという心理に絡みとられていたのではと推測している(「宗教カルトの何が違法なのか」『世界』一〇月号)。このように人々に降りかかる災厄が家系などの個人の内的な因果に絡めとられてしまっては、個人をさらに孤立化させてしまうだけではないか。私の周りでも何か不幸があるたびに、「祈りが足りない」という友人がいたが、原因はそうではないはずなのに、そこに固執することでさらに状況の悪化から抜け出せないように見えた。もちろん宗教によって救われる者もいる。問題はそこにつけ入る悪質な宗教団体がいることであり、統一教会をめぐっては被害者救済やカルト規制法などの措置をとることが喫緊の課題となっている。 紀藤正樹、島岡まな、田近肇「カルト規制はどうあるべきか」(『世界』一二月号)でまず共通の理解として言及されるのは信教の自由、結社の自由などに抵触しないように配慮した上で、一定程度の法的規制、社会的規制が必要であるということだ。では、信教の自由はいかに規制されるのか。まずは、信教の自由の中身において、個人の内心の自由と宗教活動の自由を明確に分け、内心の自由の方が宗教団体の自由よりも優先される。それゆえに、統一教会の正体を隠した勧誘は個人の宗教活動の自由と内心の自由を侵害しているということになる(紀藤)。つまり何を信仰するかを決める際には、十分に教義や献金額などを開示し、本人が了承して信仰の道に入ることがもっとも尊重されなければいけないわけである。 『中央公論』一二月号の特集「隣にいる殺人者」は日本の犯罪史から今の世相を読み取ろうとしたものとして興味深いものであった。そこで作家の島田雅彦は韓国の人気ドラマは警察や公権力、それと癒着した財閥への復讐劇が多く、「ドラマの形をとった民主化運動」を描いていると評する。彼の小説『パンとサーカス』も「政治テロ」を軸として、日米両政府を欺く「世直し」の物語として書かれたという。一方で日本の近年の犯罪は「世直し」や復讐劇とはならないで、無目的化した無差別殺人事件がおおいのが特徴で、殺害する相手が誰でもいいとなると、とくに弱い立場の女性や障がい者、子供たちが対象化されてしまうのだという。しかしながら突如あらわれた山上容疑者の犯行はターゲットが明確で「復讐の意図」があることから「政治テロ」であるという(「物語なき時代のテロ」)。この犯罪の受け止め方において「犯罪自体への批判」と、「背景への共感」がせめぎ合っており、暴力はだめだと断った上で、けれども旧統一教会と政治の問題は追及されるべきだとの意見が散見されるという(磯部涼、インベカヲリ★「凶悪犯罪から垣間見る日本社会」同書、磯部の発言)。 個々人が追い詰められた状況にあっても、断片的な情報から自らの「想像力」を駆使して政治の問題を追求しうる時代である。それがときに社会の腐敗を暴くこともある。陰謀論の中核にあるQアノンも膨大に広がる情報を自らがリサーチして自らの大きな物語を紡いでいくという方法に貫かれたものであった。それが弱者へのヘイトとならないように、いかに状況変革的な「想像力」を開花しうるか。茫漠とした情報の渦のなかで、今後のわれわれの身の振り方が問われている。(なかむら・ようこ=大阪公立大学客員研究員・社会学)