――断片の連なりから浮かび上がる日々、映像描写と色彩の問題――文芸〈12月〉 栗原悠 奥野紗世子「オーシャンビューの街のやつ」、島口大樹「光の痕」 今月はまず『文學界』の奥野紗世子「オーシャンビューの街のやつ」を取り上げたい。本作は今よりも世間のコロナに対する警戒感がかなり強かった昨年夏の東京が舞台だ。主人公の文子は歌舞伎町のビジネスホテルを拠点にしながら街ゆく人々の姿を写真に収めている。一方、マッチング・アプリのTinderでたまたま再会した大学時代の男友達・酒井は仕事も結婚も順風満帆だった過去を引き摺りながら、鬱屈とした日々をひたすらゲームに没頭することでやり過ごしていた。小説は、そんな二人が撮影がてらに新宿近辺を歩き回るさまをスナップショットのように淡々と捉えていくのだが、その断片が連なった結果、何とも不恰好な当時のパノラマ的景観が浮かび上がってくるところが面白い。緊急事態宣言が発されるのか否かというなか、トラブルだらけのオリンピック開催の是非に東京が苛立っていた日々はもはや遠い過去だが、あのいわく言い難い雰囲気が今になって一枚の写真として現像されてきたようにも感じられた。ここ二年余の小説界はさまざまな形でコロナ禍を捉えてきた一方、こうした試行は、意外にもこれまであまりなかったように思い、新鮮な印象を受けた。また、一見ドラマティックなストーリーの展開はないながら、最後にほんの少しだけ文子の視界が変わるようなつくりは吉田修一の「パーク・ライフ」を彷彿とさせる。 一方、島口大樹「光の痕」は、再開発の波が押し寄せる漁港の旅館に暮らす章と周囲の人々との関係を描く。本作は、「鳥はぼくらは祈り、」のような若さと無軌道なエネルギーを描きつつ、従来からこだわりを見せていた映像的な描写に色彩の問題を重ねた点が著者の新しい試みと言える。「三種あるはずの錐体が一種しかなく、色の生成が不可能」かつ視力も弱い章は、しかし光の変化を認識することは出来、信号が変わったことも分かる。かつての主治医はそれを章にしか見られない「豊か」な世界だと諭したが、読者は章の目に映る純粋な光の世界にそれぞれの色彩を投影していくことになる。 『新潮』は、石井遊佳「水妖生死奇譚」が印象に残った。冒頭、流沙河に住まい、通行人を襲う河童の思弁が展開し、中島敦のいわゆる「わが西遊記」のパスティーシュかと思いきや、語りは児童養護施設で育ち、現在は学校の給食調理員となった雨宮の思考に焦点を移す。しかし今度はこの雨宮が私立中学に通っていたものの、家族を橋の事故で亡くして転校したこと、その私立中学時代に博識で仏のように温和な友人・山岸くんらと「西遊記」に関する発表をしたことなどの記憶が繙かれ、転生を繰り返す三蔵法師を喰らう河童と雨宮の思考が渾然一体となって織り上げられてゆく。小説における時間の襞を捲ることについての唯一無二な創意に改めて驚かされると同時に沙悟浄=河童という日本的な翻案の形象を輪廻転生の一つの態と解釈した点もユニークな一作であった。 『すばる』では、岩城けい「Ms」の連載が始まった。本作は、「Masato」、「Matt」とこれまで在豪日本人の安藤真人を主人公として、(まるでその成長を見守るように)じっくりと書き継いできたシリーズの最新作で、今回は真人の大学生活が描かれる。英語の訛りや文化もすっかりオーストラリアに染まった彼が、しかしなお社会のなかで向けられる異人への眼差しをやり過ごしている日々に、アルメニアディアスポラのアビーという女性が現れ、人形劇を通じた交流が始まっていく。ともに異国からやって来た二人が自らに替わるパペットという存在を舞台にあげることを介してどのような物語を形作っていくのだろうか。 最後に『群像』は青野暦「雲をなぞる」に目がとまった。前作「夢と灰」で独特な時間の流れる古書店が登場したが、今作はその店主であった朝寿(故人)をめぐり、彼を知る人々らがその記憶を語り合う。読者は、(そもそもフィクションのなかの)赤の他人である朝寿やシベリア抑留中に亡くなった彼の兄、そして語る人々を理解せんがために耳を傾けることになるのだが、静かに流れる時間のなか、その声はほとんど人の境もなしに連なりながら小説に残響していく。思い出したのは、夭折の写真家・牛腸茂雄の同名の写真集からタイトルを取った佐藤真のドキュメンタリー映画「SELF AND OTHERS」に繰り返されるあの「もしもし聞こえますか。これらの声はどのようにきこえているんだろうか」というあの録音テープのことばだった。 映画を話題に出したついでに述べておけば、『文學界』の特集「未来のドキュメンタリー」における小田香、草野なつか、小森はるかの鼎談「理想の瞬間はなかなか訪れない」は興味深く読んだ。鼎談中にもふれられている小森と瀬尾夏美による「二重のまち/交代地のうたを編む」の方法論は、「雲をなぞる」の試行ともきわめて近い問題意識を持ったものだろう。また、我々はついカメラのすぐ後ろに監督(ディレクター)の存在を想起するが、どこからカメラを見つめるのかという問題設定は、フィクション一般に重要なものではないだろうか。(くりはら・ゆたか=早稲田大学国際文学館助教・日本文学)